にはちそば
とりてつこうや
第1話 相対する二十と八十
迫る男の両腕は頬を掠め、肩を捉えて離さない。
「離して…っ!」
四肢を、胴を、頸を、己の動かせる限りの全てを散らす意気で自由を追う。しかし及ばない。
「ハッハッハ!こちらから追い詰めたのに離してと言われて離すわけが無かろうに!」
前傾した男の目が影を灯す。脅えるわたしを映し出す。
「なんで…こちらの話を聞いてくれないの…っ!」
「なぜか?そのようなこと、君は誰よりも知ってるだろう!?
おっと今更助けを乞うならそいつは御免だな、そちらの要求など今や病人の飲み残しだ!」
そこまで言った男は、再びハッハッハと無理な高笑いをして…
むせた。
「だ、大丈夫?無理してない?」
「あぁ気にするな…ちょっと大袈裟にし過ぎただけだ」
わたしたちのクラスこと
しかし、これだけは言える。
「八十場、演技うまかったね」
微笑んだわたしの顔を見ると、男─八十場は目を逸らした。先程の演技が嘘のようだ。
「あのなぁお前…」
「ん?どしたの?」
「あー…いや、なんでもない」
言葉を濁すからには意味がある。そう信じて顔を覗き込んだ。
「ちょ、近い、近いって…」
「有耶無耶はなしだぞー?さぁ吐くのだ」
少し面白くなってきたわたしは子供が悪戯でもするかのような様相で、じりじりとその距離を近づける。
「ホントに、なんでもないから…」
迫るわたしの肩を静止するその手に強さは欠片も存せず、どことなく可哀想に思われる。追及意思は潰えた。
「まぁいっか。でも一個訊きたいことが」
「…なんだ?」
「わたしの名前、『お前』じゃないんだけど」
「はぁ?」
「ちゃんと名前で呼んで欲しいなー」
「まぁいいけど…なんだっけ、お前の名前」
「ひっどーい!覚えてないの?もう知り合ってから3年は経つんですけどー」
そう、わたしたちはお互い同じ中学からの仲である。まぁ、まともに話したのはココ最近になってからなのだけれど…
しかし、自らの名前を省みるに、一つ思い立った。
「じゃあ…わたしの名前、なんて読むでしょーか」
わたしは台本に書いた名前を差し出した。「廿浦 うずめ」と書いてある。
一目見て八十場は顔をしかめた。
「あまうら…うずめ?」
「あーやっぱり言うと思った。『あまうら』じゃないよ。ほらほら、中に棒入ってないじゃん?」
言いながら「廿」の字を指でトントンと叩く。
「といっても、読めないな…」
「はーい時間切れー。正解は『つづうら』でした。罰としてお昼奢りね。ゴチになります〜!!」
「こいつ…!」
しかし八十場も、黙って奢るわけにもいかないようだ。机から台本をひったくると、やはり名前を差し出した。行書のような字で「八十場 奏弥」と書き刻まれ、擦れた跡がしぶきを上げている。筆圧濃いな…
「じゃあ廿浦は俺の名前を読めるのか?お?どうだ?読めないなら奢りは取り消しだぞ?」
煽るように台本を突き出し、勝ち誇った顔をする八十場。だがなんということはない。
「「やそば かなみ」でしょ?知ってるよ」
「んぐ…!な、なぜぇ…っ!」
「そりゃー…」
言いかけて留まった。他でもない。その故は高校での友達がいないがためにそもそも覚えている名前が八十場くらいしかいないからである。
いや、別にコミュ力がないとか根暗だとかではない。実際小中学校での友達は人並にいるが、まだ入ったばかりの高校の友達は未だ少ない。
しかし…何となくこれを言うのは気が引ける。そう、何となく気が引けるだけで、意地を張ってるわけではない。張ってなどいない。断じて。
しかし、そこまで思考したわたしは…
「えーっとお…」
「どうした?」
「…いや、やっぱり奢るの無しでいいよ」
我ながら、空虚な意地であった。いや意地ではない。意思だ。
「ほーう?まぁいいか、ちょうど時間も時間だし、それこそお昼食いに行くか」
「賛成!!行こ!行こ!!」
先程の意思(意地じゃない。絶対に。)はどこへやら、わたしは八十場を引っ張るように校舎を出た。
我らが疋石高校には食堂も購買もあるけれど、個人的には駅前のお蕎麦屋さんが気に入っている。軒先にデデンと掲げられた看板には「二八そば」の文字が光り、周囲のチェーン店に負けてなるものかとその存在を誇示する。
看板を前に、八十場がこちらを向いた。
「廿浦、ここ来るの何回目なんだ?」
「毎日来てるから分からない!!」
自信たっぷりに返事したわたしを一歩引くように見る八十場。
「廿浦、勿論ここの蕎麦は美味しいんだろうけどさ、他も食べに行ったらどうなんだ?」
「ええそう仰ると思いましたよ。そりゃわたしだって駅前の色んなお店をここ数週間巡りましたけどね、やっぱりここに戻ってくるんですよね!!」
「はぁ…廿浦ってこんなキャラだったっけ…」
肩をすくめる八十場に、わたしは続ける。
「八十場は初めて来たんでしょ?一回食べれば分かるよ!飛ぶよ!飛ぶよ!」
「それだとなんだかヤバいものを押し付けられてるように聞こえるんだけど…」
「いいからいいから。ほら、入店ですよ〜」
促すように両手で背中を押し上げる。骨ばった体型の感触に程よく筋肉を感じる。
「全く大袈裟だな、美味しいことは美味しいんだろうけど盛りすぎだろ。いくら美味しくても毎日来るほどなんて──」
「うまぁぁぁぁっっ!!」
「でしょー!?」
運ばれてきた蕎麦とカツ丼を口にした八十場は途端にそれまでの反応を裏返した。
「手打ちのように洗練された麺のコシ!濃すぎず辛すぎず飲みやすいダシの味とその深み!添えられたカツ丼もダシのタレがしっとり絡まりつつ、その肉は柔らかく弾力があり米をかきこむ箸が止まらない!何より互いの味に大きな干渉がなくすんなり受け入れられる…!」
「饒舌になっちゃうでしょー!?」
「なっちゃうぅぅぅ!!」
「また来たくなっちゃうでしょー!?」
「なっちゃうぅぅぅ!!」
「奢りたくなってきちゃうでしょー!?」
「いや、そこまでではないな」
「なんでよぉ!」
流れで払ってもらっちゃおうかなとか思ったのに!
「つられたりなんてしないからな?」
「ぐぅ……っ!」
騙されるかと言わんばかりの形相でこちらを睨む八十場。そうは問屋が卸さぬか…
「しかし本当に美味いな、俺もこれから毎日来るわ」
「ホントに!?」
自分の顔がぱぁっと明るくなるのを感じた。同志が増えたのだ。しかも友達。
八十場は続けた。
「勿論だ。それに、誰かさんがぼっち飯してて可哀想だなぁとか思ってたし」
「んな!ちょっと!誰よその女!」
「やっぱり自覚あるんだな…」
その後、虎が獲物を喰らうような勢いでお昼を済ませ、午後の授業のため学校に戻る。
「あー食った食った。この後の授業なんだっけ」
腹部を叩くような動作をしながら八十場はぼやいた。
「このあとは…古文だね」
古文のイケメン先生こと千葉先生が確か和歌をやるとか言っていたことを思い出した。
「古文か…内容とかは割とわかるけど文法難しいよな」
「わかる。現文みたいに文章の意味とか登場人物の気持ち読み取るとか余裕なのにさ、古文になると文法にそれを押しとどめられてるみたいな感覚になるよね」
「そうそう!同じ教科なのになんとなく差を感じるよな」
「はぁ…国語だけでも障壁があるのに、ほかの教科も武器携えてやってくるんだから困るわ…」
「でも廿浦、お前ここの入試の合計点何点だったって言ってたっけ」
「……5科456点ですね」
「平均90点超えじゃねーか!何『困るわ…』とか言ってんだ!こちとら378点だぞ!?ギリギリなんだぞ!?」
「まぁまぁ、そんなこと言っても高校じゃ点だって変わっていくって言うしさ、わたしも安心はできないし」
今にも食ってかかりそうな八十場を牽制しながらも、一つ思いついた。
「あ、それにわたしたち、演技は上手いでしょ?」
「そうかもしれないけど、それがなんだって言うんだ…?」
「この演技を使って先生に点数を引き上げてもらうとか。どうかな」
「やり方汚っ!俺はやらねーからな…」
「ふふっ。冗談だよ冗談。まぁ勉強はなんやかんや頑張っていくとして、今は一緒に高校生活楽しもーよ」
「なんやかんやって…まぁそうだな、改めてこれからよろしく」
「うん、よろしくね!」
両腕を目いっぱいに使って握手をする。
奇しくも吹かれた春風が桜を巻き上げた。
麗らかな春の昼下がり、新たな物語が始まる。
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