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葉菜子が一歩近づくと、允典は反射的に立ち上がった。小さいころから刷り込まれた主従関係のせいだろう。体を震わせて目に涙を溜めている。これから叱られるとわかっている子供のようだった。
でも、どうしてそんなに身を固くするのだろうか。何も悪いことはしていない。夜中に中庭で喋っていただけ。歳が近いおかげで話が盛り上がり友人関係になった。などと、この場を収めるための言葉なんて腐るほどあったはずだ。
なのに、適当に取り繕ったような物でごまかさず、壽松木家に仕えてきた歴史や信頼を全て投げ捨てる覚悟で允典はそこに立っていた。無関係の家族も巻き込むことになるとわかっていたはずなのに、それでも守りたくて譲れないものがあった。
言葉を発さず立ち尽くして涙をこぼす允典を葉菜子は抱きしめた。驚いて動けずにいた市籠を巻き込んでしばらく三人で抱き合っていた。
言葉がなくても通じ合えるのだと、葉菜子はその夜初めて知った。
「愛しているんです」
葉菜子の腕や足の切り傷を手当てしながら允典はそう言った。詫びも謝罪もなく、ただそれだけだった。ベッドに座る葉菜子の隣ではなく、床に膝を着く允典の横に寄り添う市籠の背中を見て葉菜子は涙をこぼした。
この世にこんなにも美しくて尊い愛が存在したのだと、実感すればするほど涙が止まらなかった。允典に添えられた手や憂いを含んだ視線、ほんの少し動いたら触れるであろう膝頭。そして何より、あの庭で見た幸せそうな笑顔を、葉菜子は心の底から守りたいと思った。
けれど市籠は葉菜子の婚約者だ。それは今後変えることができない事実。
でも二人の間に恋も愛もない。それもまた事実だった。
ならばこのまま結婚をしてしまい、允典を夫婦専属の執事にすればいい。喜多彦には繁昌という貿易のツテを手に入れられるんだ、それくらいのわがままは簡単に許される。むしろお釣りがくるくらいだ。
ただし条件としていつも三人が一緒。葉菜子が求めたのはそれだけだった。それを飲めば允典は執事の職を追われることもなく、家族も巻き込まない。むしろ専属になれば今以上に市籠と一緒に居られる時間が増える。市籠にとっても同じだ。葉菜子という存在が加わるなんて些細なことで、むしろ時間を選ばず想い人と過ごせるのであれば願ったり叶ったりだ。
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