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美湖ちゃんから久しぶりに連絡が来た。一人暮らしをしてから月に一度は会っていたが、私が働いてからはなかなか時間があわず、最近は三カ月以上会っていなかった。コンペ用のデザイン画が行き詰っていて、息抜きもしたかったから、週末にランチをすることにした。
「美湖ちゃん」
はっとして顔をあげる美湖ちゃん。私を見ると、本当に優しい顔で微笑む。子供の頃から変わらない、私の姉。
「さあちゃん、久しぶり。元気だった?」
「うん。忙しくて、なかなか会えなくてごめんね」
言いながら席に着く。グレーのニットに黒のジーンズ、髪を後ろで一つに結った化粧っ気のない美湖ちゃん。鮮やかなターコイズブルーの柄シャツに濃紺のガウチョパンツ、濃いピンクに染めた髪の私。私たちはどんな関係に見えるのだろう。
「さあちゃん、何食べる?」
いつも私より先に来て、メニューを先に決めている姉。私は、ゆっくりメニューを眺め、さんざん時間をかけて悩んだ結果、結局お店のおすすめだというハンバーガーに決めた。私は姉の前でだけ、いつでも簡単に子供に戻れる。注文をして、店員が運んできたレモン水を飲む。
「仕事忙しいの?」
美湖ちゃんはいつもおっとりしている。しっかりしていて、おっとりしている。セカセカしたり、パニックになったりしない。その口調は、私をいつも安心させる。
「うん、忙しい」
「いいことね」
「ほんと。忙しいけどめっちゃ楽しい」
私が仕事を楽しんでいることを、姉は喜んでくれている。やはり没頭できるものがあると生きていきやすい。たぶん、美湖ちゃんもそのことを知っているのだろう。
店のおすすめというハンバーガーが美味しくて、私は右手で左肩をそっと撫でながら、やっぱり美湖ちゃんと一緒なら大人になっても大丈夫だった、と思った。私がなりたくなかった大人に、もうなっているけれど、思っていたより怖くなかった。
「ここ、煙草吸えるよ」
美湖ちゃんが言うから、私は店員に灰皿を依頼し、煙草を咥えた。秋の乾いた爽やかさが心地よくて、煙草の煙がいつもより青く見える。こんなに天気の良い日に、屋外でアイスコーヒーを飲みながら煙草を吸う。贅沢だな、と思う。
「私は煙草を吸わないけど、煙ってきれいね」
美湖ちゃんが言うから、私は口をすぼめて煙で輪っかを作ろうとしたけれど、全然うまくできなくて、二人で笑った。
「あのね、今日はさあちゃんに報告があってさ」
笑った勢いに乗っかるようにして美湖ちゃんが言う。
「報告? どうしたの?」
姉はひとつ息をしてから
「さあちゃん、私……結婚する」
珍しく明瞭な声で言った。
私は驚いて一瞬何も言えなかった。指先に挟まった煙草から緩やかに煙が立ち上り、音もなく灰が落ちる。何が起こったのか、理解するのが難しかった。
「け……っこん?」
「そう、結婚」
私は自分を落ち着かせるために、とりあえず、アイスコーヒーを一口啜る。
三十歳を過ぎても独身で、彼氏のいる様子もない姉を気にかけて、何度か叔母さんが縁談を持ってきていたから、付き合いでお見合いしているのは知っていたけれど、まさか本当に結婚するなんて思っていなかった。
「仁さんっていうの。相手の人。その人の話、してもいい?」
美湖ちゃんの旦那さんになる人。私の義理の兄になる人。仁という名前の男性。
「うん……聞かせて」
私は慎重に返事をした。
「ありがとう」
美湖ちゃんは薄らと微笑んで話し始めた。
「叔母さんの紹介のお見合いだったの。それで、私はどんな人であっても断るつもりで、まあ、付き合いで顔を出した感じだったんだけど、最初に会ったときね、叔母さんたちが部屋から出て行った途端、仁さんが『ごめんなさい。僕は結婚するつもりはありません』って言ったの」
思い出し笑いをするように微笑む美湖ちゃん。仁という名の男性はこう言ったという。
「結婚するつもりがないので、なるべく早くそのことをお伝えしないといけないと思いまして。その──結婚しないのは、美湖さんのせいではなく、僕は誰とも結婚するつもりがないのです。大学の恩師が気にかけてくれてお見合い話を持ってきてくれるのですが、毎回断っています。ちゃんと理由を言わないとお相手に失礼になると思うので、自分勝手なことですが、説明させてください」
そう前置きをして語りだしたそうだ。
「僕には、性欲がありません。『アセクシャル』というらしいです。性的なものを一切欲しないんです。女性を好きになることはあります。一緒にいて楽しいなとか、そういう感覚はあります。でも、それ以上は全く何も思わないんです。手をつなぎたい、体に触れたい、キスをしたい、抱きたい、どれも全く思ったことがありません。欲求がないのです。何が原因なのかわからないのですが、僕はずっとこの状態で生きてきたので、苦しくも何ともありません。でも、お付き合いしたり、まして結婚するなんてなったら、そうも言っていられません。だから、お見合いはお断りさせていただきます。恩師にも、今度こそちゃんと説明しようと思います。わざわざ来ていただいたのに、申し訳ありませんでした」
そう言って、深く頭を下げたそうだ。姉はこのとき初めて、男の人を好きになれるかもしれないと思った。そしてこう返事をした。
「私も性行為はしたことがないし、この先一生したくありません」
私はここまで聞いて、思わずアイスコーヒーを吹きだして笑った。眩しいほどに白いガーデンテーブルにアイスコーヒーの粒が散る。
「美湖ちゃんにそんなこと断言されて、相手の方、びっくりしたでしょ?」
「うん。びっくりして口をパクパクさせていたわ。どうしても結婚したい女の、執念の嘘だと思ったってさ」
ふっと微笑む美湖ちゃん。晴れた真昼間のカフェテラスで、「性欲」だの「性行為」だの、女二人の会話が聞こえたら怪訝な顔をされるかもしれないけれど、私は嬉しかった。こんな単語の出てくる話をできるようになったのだ。少しだけ身軽になった証拠だ。少しずつ、本当に少しずつ身軽になってきた私たち。
「おめでとう」
話を聞き終えて、ようやく言えた。心を込めてゆっくり伝えた、本物の祝福だった。私たちは幸せを慎重に扱ってきた。薄っぺらに甘いオブラートのように、拭いきれない痛みをやんわりと包み込む幸福。それを姉が手に入れるのならば、私は自分のこと以上に祝福したい。どうか姉が幸せでありますように。そのことだけを祈ってきた人生でもあったのだ。一般的に幸せと呼ばれるものは、私の分も全て姉に体験してもらいたい。そもそも、私にはその資格がないのだから。
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