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仕事が俄然忙しくなり、その分気持ちは充実していた。やりがいのある仕事ほど、没頭できるものはない。ネガティブな感情を忘れられる没入感。私は、デザイン学校を勧めてくれた高校時代の担任と、進学させてくれた叔父さんと叔母さんに改めて感謝する。
今日は、都内でやるという小さなアパレルブランドの展示会に行く予定だ。フリーランスのデザイナーが手掛けているブランドで、最近若者に人気が出始めている。流行は早めに抑えるべきである。色づき始めたイチョウ並木のアスファルトを闊歩して、私は後輩を連れて展示会に行った。
展示会はまずまずの収穫だった。トレンドというには少し古いかもしれない。今年の流行は抑えてあったが、来年の夏の新作となったら、「去年感」が出てしまうかもしれない。でも、色使いは良かった。そんなことをタブレットにメモしながら後輩と電車に乗る。車窓は涼やかな秋の夕景。都会の真ん中、西日を反射するビル群も、この季節は物寂しく感傷的に見える。一緒に行った後輩はやたら嬉しそうな顔をして外を眺めている。この子なりに勉強できることがあったなら良いな、と思った。
「水島さん、今週の金曜日って空いてますか?」
先週一緒に展示会に行った後輩が話しかけてきた。新しくベンチャーで立ち上げたデザイン会社の新作披露ショーの予定を確認していた私は、てっきり仕事の相談かと思い、スケジュールを確認する。
「その日は外回りないけど、どうしたの?」
すると後輩は手を口元に当ててふふっと笑う。
「空いてるって、仕事の後のことです。飲み会があるんですけど、水島さんを誘ってほしいって言う人がいて」
「はぁ? 飲み会? 私を誘いたいって、誰?」
後輩との飲み会などは、新年会や忘年会、歓迎会などの季節ものしか顔を出したことはない。そもそも、私はアルコールが飲めない。
「先週、展示会行ったじゃないですか?」
「あ、うん。フリーランスの」
「はい。そこで受付やってた男の人、覚えてます?」
受付やってた男の人? 全く記憶にない。デザイナーとは話をしたが、受付の男性と話なんてしなかったし、受付をしていたのが男性だったか女性だったかも、記憶にない。
「覚えてないけど、その人がどうしたの?」
「あの人が、水島さんに一目惚れしたって言ってきて、なんとか飲み会ができないかって」
一目惚れ? 全く記憶にない男性だ。突然そんなことを言われても困る。
「何それ。っていうか、何でそんなことあなたが知ってるの?」
「展示会のとき、イケメンだなって思って連絡先交換したからです。でも、水島さんに取られちゃいました」
いたずらっぽく笑うこの若い女の子に、私は呆れてものが言えなかった。仕事中に好みの男性を見つけたら連絡先の交換をするというのは、どういう神経なのだろう。若い子に限ったことなのか、男女の間では当然のことなのか、私には理解できなかった。そして、「イケメンだなって思って」と連絡先を聞きに行くうちの後輩も後輩だが、それに嬉々として応える男性も男性だ。その時点で、私の中では社会人として「ナシ」のレッテルが貼られた。
「向こうが水島さんのこと気に入ってることは内緒にしてくれって言ってたんですけど、言っちゃいました。けっこう大人数呼んで飲み会やるんで、来てくださいね。向こうのデザイナーさんも来るみたいなんで」
口が軽いというのは無自覚に劣悪だな、と思いつつ、コネクションを優先したい自分がいる。大人数で集まるというなら、向こうのデザイナーについている技術者で良い人がいれば、Ayaさんに紹介して、ヘッドハンティングすることだって可能なのだ。そういう意味でも、コネクションを繋いでおくことは大事だ。
ただ、私に好意のあるらしい男性の存在が邪魔だ。うまく避けられないものか、と思っていると「じゃ、金曜日お願いしますね~」と明るく言って、後輩は去っていった。私は、あの日後輩がやたら嬉しそうな顔をして電車に乗っていたことを思い出した。
「まったく今どきの若者は……」
思わず口をつく。こんなこと、自分が思う日が来るとは、思っていなかった。
「男よけ? なら、指輪じゃん」
帰宅して千波に相談すると、開口一番言われた。私は、千波が作ってくれたカレーライスを食べる手が止まる。
「指輪?」
「うん。仕事中はつけてないけど、プライベートではつけてるんですって言って、左手の薬指に指輪しちゃうのが、一番手っ取り早い」
「え、薬指?」
「そうそう、彼氏がいるんです、でもいいし、結婚してるんです、でもいいし」
私は何のアクセサリーもついていない自分の左手を眺めてみる。
「嘘つくってこと?」
「うん」
にへらっと邪気なく笑って千波は続ける。
「だって、職場の人にプライベート全部明かしてるわけじゃないでしょ?」
「うん、ほとんど言ってないほうだわ」
「やろ? だったら、同棲してる人がいるんです。ほとんど事実婚状態で、って言っちゃえばいいじゃん」
そんな手があるとは。ぽかんとしてる私に千波は「自分を守る良い嘘は、たまにはついてええんよ」と言って笑った。
翌日仕事の昼休みを使って、千波の働く古着屋兼雑貨店に行って、一緒に指輪を選んだ。
「男なんてパッと見で指輪の価値なんかわからんのやから」
千波にそう言われて、シンプルなシルバーの安い指輪を買った。少しアンティークな感じの細い指輪で、つけてみると、実際、長年つけている結婚指輪に見えなくもなかった。自分の左手薬指に指輪がはまっている。それは妙に居心地が悪く、不気味なものに見えた。
金曜日、飲み会の時間に少し遅れてしまった。事務所を出るとき、千波の店で買った指輪をつける。自分の左手が、自分の手じゃないみたい。偽物なのに、束縛感があって窮屈な気がする。飼い犬の首輪みたい。
指定された店は、お洒落なダイニングバーだった。照明の抑えられた店内に静かなBGMが流れている。入ってみると団体客が多く、思っていたより騒がしかった。
後輩が私に気付き「水島さん、こっちこっち」と言って、手招きをしてくる。受付をしていた男性の席にいるようだが、とりあえず先方のデザイナーのいる席につく。
「遅れてしまって申し訳ありません」
挨拶をするとデザイナーは淡い空気のような笑顔を見せた。
「いいえ、大丈夫ですよ。先日は展示会に来ていただきありがとうございます」
若い男性で、色白の中性的な顔立ち。グラスを持つ指が細くて、この手でデザイン画を描くのか、と思うと、硬めの細い鉛筆で繊細なデッサンを描くのだろうな、と勝手に想像してしまう。
「こちらこそ、大変勉強になりました」
私は、千波に「全然笑顔に見えない」と言われる仕事用の笑顔を顔にはりつけ、しばし談笑する。今季のトレンドの話、新しいデザイナーの話、私が来週行こうと思っているベンチャーでデザイン事務所を立ち上げたデザイナーの話にもなった。情報収集は重要だ。こちらも少しだけ情報を提供し、隠すべきところは隠す。いつの間にか私もそんなことができる大人になったのだと思うと、今すぐパンプスを脱いでジャケットを脱いで男よけにつけてきた指輪もはずして、走って家に帰りたいと思った。でも、それを我慢できるほどにまで大人になっている私は、「では、ちょっと失礼します」と小さく会釈をして、席を立った。
後輩が、やっと来た! という顔をしている。私は後輩と男性二人がいる席につくが、どちらの男性が受付をしていた人なのか本当に思い出せなくて、さずがに失礼だな、と思った。でも、本当に覚えていないのだから仕方ない。向かって左側にいるのが、面長の眼鏡。右側は、丸顔の無精髭。どっちだったか。
「水島さん、覚えてますか? 僕、この前の展示会でお会いしたんですけど」
左側の面長眼鏡が話しかけてきて、あぁこっちか、と思ったけれど、見覚えはなかった。
「ごめんなさい、あの日は私、展示会を見るので精一杯で……」
申し訳なさそうに言って、左手で口元を抑える。「指輪に気付け」と願いながら。
「あれ! 水島さん、指輪してる!」
薬指の指輪に気付いたのは、面長眼鏡ではなく、職場の後輩のほうだった。こういうのは、さすが女子のほうが目ざといな、と感心する。
「あれ、見たことなかった? 仕事以外ではいつもしてるんだけど」
白々しく嘘をつく。これは千波相手に練習した。面長眼鏡が後輩のことを見ている。「話が違うぞ」とでも言いたいのだろうか。
「水島さん、彼氏がいらっしゃるんですか?」
面長眼鏡が直球で聞いてくる。いい流れだ。
「ええ、同棲している人がいます。もうほとんど事実婚状態なんですよ」
そう言ってまた左手で口元を覆うように微笑む。婚約会見をする芸能人みたいだな、と白けた気持ちが顔に出ないといいけれど。
「えー! 知らなかったです! なんで言ってくれないんですか? 水くさいですよー」
後輩が大きな声を出しているが、知ったことではないし、後輩にとっては面長眼鏡が私を諦めるなら好都合なのだろう。口調に責めるような気配は含まれておらず、逆に楽しんでいるようにも聞こえる。
「言ってなかったっけ? もう何年も一緒に住んでるから、わざわざ言うほどのことでもないって思ったのかも」
よくもまあ、すらすらと嘘がつけるものだ。
「自分を守る良い嘘は、たまにはついてええんよ」
千波に言われた言葉がよみがえる。そうだ。私は元来嘘つきではないか。嘘なら子供の頃からずっとついている。今さらこんな軽い嘘に罪悪感も何もあったもんじゃない。
後輩と男性たちが話している会話を聞くともなしに聞きながら、薄まったウーロン茶を飲んで、ダイニングバーの喧騒を遥か彼方にある蜃気楼を見るような気持で眺めた。
デザイン画の社内コンペの日が発表され、私は仕事に没頭した。コンペで勝てなくても、一生懸命やることに意味があるし、今できる自分の精一杯を試してみたい。千波と一緒に買った指輪はあれから一度もつけていない。でも、今後もあるかもしれない男よけのお守りとして、とっておこうと思った。
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