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「お姉さん、きれいやった?」
家に帰ると、ルームメイトの
「うん、きれいだったよ」
私はお土産のチーズを千波に渡した。引き出物類を片付けて、手を洗って着替えて、床に敷いた座椅子に座る。思わず、はぁーと息をはいた。
幸福の余韻が大きい。幸福酔いとでもいうのだろうか。自分の人生の中で、一番幸せな場面に立ち会った私は、途方もなく疲れている気がした。いや、疲労というより、達成感だ。私は人生で成し遂げなければならなかったことを、やり遂げた気がした。その達成感からくる、喪失感か、やはり疲労感か。ともかく、大きなイベントが終わった。祭りの後の寂しさに近いのかもしれない。もしくは姉ロスか? その可能性もあるな、と思った。私の人生はいつだって、姉と二人で一つだったのだから。
千波は床に座って、ビール片手にさっそくチーズをつまんでいた。私も一つ口に入れる。濃厚でとても美味しい。何チーズというのだろう。種類を聞くのを忘れてしまった。とりあえず美味しい。ねっとりしていて、独特な香りが鼻を抜ける。
私は煙草を咥えて火をつける。深く吸うとメンソールが鼻から抜けて、私は情緒の落ち着きを取り戻す。煙草は、私の肺を十六歳のときから少しずつ少しずつ青藍に染めてきた。私にとって煙は、空の色だ。私の目に映る空は、いつでも澄んでおらず、私の指ごしに立ち上る煙の色そのものだ。青藍と鈍色の混沌とした空。怯えと恐怖と罪の色。
千波は片膝を立ててビールを飲んでいる。ビールとチーズは合うのだろうか。アルコールを飲まない私にはわからない。では、煙草とチーズは合うのか? と聞かれても、やはり私にはわからない。
「写真少し撮ったけど、見る?」
「見る見る」
私はスマートフォンで撮影した写真を数枚、千波に見せる。小さな画面に収まる笑顔。
「おー、お姉さん美人やね。沙湖とそっくりじゃん」
やね、とか、じゃん、とか、千波はいろんな地域の言葉がごちゃまぜだ。徳島生まれ、大阪育ち、大人になってから横浜で、今は東京、という環境のせいだ、と本人は言う。変な大阪弁を使って大阪の人に嫌がられるのだが「バイリンガルやねん」と言って笑っている。
「似てるかな。あんまり言われたことないけど」
「雰囲気は違うけど、顔は似てるよ」
「そうかもね」
美湖ちゃんはどの写真でも、ひっそりと静かに微笑んでいた。これが花嫁の笑顔か、と言われたら一般的にはあまり幸せそうに見えないかもしれない。でも、美湖ちゃんを知っている人が見たら、こんなに笑う美湖ちゃんは見たことがない、と驚くだろう。そのくらい披露宴の姉は楽しそうであったし、そのくらい普段の姉は感情を外に出さない、おとなしい人なのだ。
「沙湖のブラウスかわいいね、似合ってる」
千波がスマートフォンの画面をスライドさせて写真を見ている。
「ありがとう。主役の美湖ちゃんより目立っちゃった」
私のブラウスは、襟のデザインが立体的なもので、美湖ちゃんの白いチュニックより断然インパクトがあった。肩の上あたりで切りそろえてある髪はインナーカラーで赤を入れている。だから主役の美湖ちゃんより数段カラフルで、数段派手なのだけれど、美湖ちゃんの隣で笑っている私の顔はやはり姉を祝福する妹の顔そのもので、いくつになっても姉と一緒にいると自然に子供のような気持ちになるのだ。
「沙湖は結婚願望ないの?」
スマートフォンを私に返して千波が聞くから「ないね」と即答しながら煙草をもみ消して、二本目に火をつける。煙を深く吸い込んで、ゆっくり吐き出す。煙草から立ち上る煙は青白く見えるのに、私の呼気から吐き出される煙は灰色に見える。私の肺で青を濾過し、私の中の灰色を吸着させて排出される煙。煙草は体に悪いと聞くけれど、私の場合は私の中の灰色を外に出してくれる優秀な存在なのだ。その分私の肺は、今頃真っ青に染まっていることだろう。
ニコチンで、すーっと末端の血管が収縮するのを感じながら思う。姉のケースがレアなのだ。私も、三十歳を過ぎて彼氏はいないが、真面目でおとなしく控えめな、信用金庫勤務の姉と違って、奇抜な服装で髪をピンクにしたり赤にしたりしている私に、叔母さんは結婚を勧めたことはない。好きなことを仕事にして楽しんでいる、と思ってもらえているのだろう。
私は、男性を好きになれない。男性を好きになれないのなら、いっそレズビアンに生まれた方が良かったな、とふと思ってしまってから、これはずいぶんと同性愛の人への偏見に満ちた考えだな、と反省する。男を愛せないから女。同性愛の人がそんな風に愛し合っているわけじゃないことなんて、当たり前のことなのに。私は、同性も異性も好きになれない。私が知っているのは、家族の愛だけだ。それだけ知っていれば、私が生きてくるには充分だった。
「千波は結婚しないの?」
「どうやろ。わかんない。うちらもう三十でしょ? でもさ、なんか、若いときに思ってた三十じゃないんだよね、まだ」
「あ、それわかる。もっと大人だと思ってたよね、三十って」
「そうそう。もっと大人で、もっと責任も持てて、もっとしっかりしてると思ってたんだよ。けど、自分はどう? って思うと、結婚するなんて考えられないくらい、子供なんだよね」
「わかるわ」
ずっと、大人になんかなりたくないと思っていた。それが、大人になった今、しっかり大人になれている自覚がない。私の思い描いていた大人がこれなのか、と聞かれても、わからないとしか言いようがない。わからないことが、良いことなのか悪いことなのか、それさえ自分ではわからない。でも、少なくとも、大人になってしまった今、大人になる恐怖は感じなくなった。今から大人じゃなくなることはできないから、大人になる恐怖を感じない。少なくとも、そのことだけは安寧だ。
「まあ、今が楽しいってのもあるけどね」
そう言って千波はへらっと笑った。
デザイン学校を卒業した私たちは、ありがたいことに二人とも服飾関係の仕事につくことができて、好きな仕事ができている。十年くらい前から千波とルームシェアを始めて、大きなトラブルもなく仲良く過ごせている。このままで何が悪いのだろう? いつか千波が結婚してこの家を出ることがあっても、私は笑顔で見送ろう。そして、私は変わらずこのまま生きていこう。それ以外の生き方を、私は知らない。
そんな私の頭の中が見えたのかのように、「どちらかが結婚することになっても、うちら、ちゃんと祝福して見送れそうやね」と千波がにっと笑った。
「そうだね。同級生の結婚式ってつまんないこと多いけど、千波の結婚式なら楽しそう」
「結婚式ってさ、本当に心から祝福してくれてる人しか呼びたくないんだよね」
「あぁ、そうね」
「だから、私の結婚式は呼ぶ人少ないわー」
千波はまたビールを飲んで、チーズをつまむ。
「このチーズうまいなー」
美湖ちゃんの結婚式で東京にきた叔母さんが、お土産に持ってきてくれたチーズ。私も何度か行ったことのある中標津の牧場。叔父さんの実家で、窓からエゾリスが見えるほどに自然が豊かだ。そこの牧場の乳製品は、本当に美味しい。叔母さんは、私が誰か親しい人と一緒に、何か美味しいものを食べていることをとても喜ぶ。私がちゃんと食べて、健康に暮らしていれば、叔母さんは安心してくれる。
「チーズまじでうまいな、沙湖の叔母さんに感謝やね」
言いながら、千波は加熱式タバコを咥える。禁煙すると言いながら、「加熱式タバコは煙草じゃないねん」と笑って、千波は相変わらず水蒸気からニコチンを摂取している。私はこのまま、この優しい友人と二人で暮らしていけたら一番良いな、と勝手な理想を思い描いた。
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