SISTER
秋谷りんこ
一章 現在 沙湖 三十歳
金木犀が満開で、風に溶けた香りが優しい秋。木漏れ日はチラチラと美しく反射し、何もかもが平和で穏やかな日。私は小さな洋食レストランにいる。
結婚祝いのパーティをするには、いささか地味な、小さなレストランではあるけれど、落ち着いた雰囲気のお店で、
美湖ちゃんは、白いチュニックに紺色のスラックス姿で、黒いストレートの髪は低い位置でシニヨンにまとめられている。いつもより少しだけ発色の良い口紅を塗っていて、普段の何倍も華やかであった。こんな晴れの日でもパンツスタイルの姉を見て胸に微痛を感じるが、そういう私も、青と水色がグラデーションになった派手なブラウスに黒のスラックス。
私たち姉妹は、スカートを履かない。
飲み物が運ばれてきて、仁さんの恩師という人が乾杯の挨拶をするために立ち上がった。背が低く小太りで丸眼鏡の、どこか胡散臭い風貌であったが、歴史学の有名な先生らしい。
「ええ、ご紹介にあずかりました、仁くんの大学時代の教員をしておりました、
平野先生は、顔の汗を拭きながら上ずりそうな声で話し始めた。緊張しているようだ。
「先生、堅苦しいです」
仁さんがコソっと声をかけると、参列者はみんなクスクス笑った。平野先生は、また顔の汗を拭いて、おほんと一つ咳払いをして続ける。
「はなはだ僭越ではございますが、乾杯の音頭をとらせていただきます。仁くん、美湖さん、本日は誠におめでとうございます。仁くんは、大学時代、非常に優秀な学生でありまして、真面目で実直な性格の、好青年でございます。ええ、専攻は歴史学と申しまして、主に日本史の戦国時代の……」
「あなた、長いですよ」
平野先生の奥さんがコソっと耳打ちするから、またみんなでクスクス笑う。クスクスと笑いたくなるような空気なのだ。みんなの体が嬉しい気持ちで膨らんで、それが漏れ出てしまうような、そんな集まりだった。
「あぁ、そうだね。それでは、乾杯のご唱和をお願いいたします。お二人の前途とますますの繁栄をお祈りしまして、乾杯!」
「乾杯」
口々に言い合って、みんながグラスを目の高さまで掲げる。私が口にしたジンジャーエールは、生姜の辛味の効いたスパイシーな喉越しだった。小さな店ながら、料理や飲み物に拘っていることがわかる。美湖ちゃんは微アルコールのシャンパンを飲んでいる。静かに微笑みながらグラスを傾ける姉の、美しい横顔。あぁ、今日の美湖ちゃんは特別にきれいだな。私は姉の花嫁姿を見るだけで、指先までふかふかと血液が満ちるのを感じた。私にとって、唯一の姉。世界で一人だけの、大好きな姉。
美湖ちゃんの旦那さんになる仁さんという人は、第一印象と変わらず、優しくて誠実そうで控えめな人だった。白いシャツに薄水色のネクタイ、薄グレーのジャケットで、全体的にぼやっとした色の服装は、仁さんのおっとりした優しさを表しているようでもあった。
平野先生は、シャンパンを少し口にしたらすっかり緊張がほどけたのか、とたんに機嫌が良く、饒舌になった。平野先生は日本史の戦国時代が専門らしく、仁さんも歴史学の専門家だ。仁さんは、今は学芸員として歴史博物館で働いている。
「仁くんは本当に優しいし、優秀で、真面目で、素晴らしい男性だよ」
平野先生は仁さんの自慢ばかりしていた。それを横で微笑んで聞いている先生の奥さん。照れた顔で謙遜する仁さん。とても微笑ましく、優しい光景であった。
先生の奥さんは、穏やかで優しいきれいな人だ。学者肌の夫を一歩引いて支えるような、内助の功というのはこういう人のことを指すのかな、と思ったりした。
食事が運ばれてきて、それらはどれも見栄えも美しく、とても美味だった。丁寧に焼いたパン、芳醇な香りのスープ、彩り豊かなサラダ、そして柔らかいお肉。どれも美味しくて、私はゆっくり味わった。美味しさを噛みしめながら、私は右手でそっと自分の左肩を撫でる。
みんな食事に満足し、それが新郎新婦にも伝わり、二人も喜んでいるように見えた。
普段は無口なタイプの叔父さんが、今日は珍しく饒舌であった。
「美湖は子供の頃から本当にしっかりしていて、勉強もできるし、歌もうまいんですよ。真面目なのは仁さんと同じですね。価値観が似ているから、うまくいったのかもしれないですね」
「そうね、美湖は本当にしっかりした子。今まで良いお相手が見つからなかったのは、仁さんと出会うためだったのね。それにしても、今日の美湖はいつもに増して一段ときれいよ、本当にかわいいわ」
叔母さんも負けじと美湖ちゃんを褒める。白髪を染めたショートカットにパールのイヤリングが揺れる。淡いピンクのツイードのセットアップが、子供の頃に授業参観に来てくれた叔母さんを思い起こさせ、懐かしい気持ちになった。
由美子叔母さんは、私たち姉妹の実母の妹で、叔父さんと叔母さんは私たち姉妹の育ての親だ。私たちの両親がそろって交通事故で他界し、当時六歳と二歳の私たちを引き取って育ててくれた。
だから、叔父さんも叔母さんも、娘の結婚式の親の顔そのものだ。少し無口だけれど、人一倍私たちを心配してくれた忠司叔父さん。優しくて気丈な由美子叔母さん。私たちの母が他界したとき、叔母さん自身が実の姉を亡くしたばかりだということを、自分が大人になってから理解すると、当時どれほど大変だったか、想像を絶する。
北海道にいる叔父さんの母親が骨折して、介護が必要になったのをきっかけに、北海道に引っ越した叔父さんと叔母さん。今は、実家の牧場を継いで仕事をしている。叔父さんも叔母さんも、私たち姉妹を本当の家族として迎えてくれた。そうじゃなかったら、少なくとも今の私も姉も、いないだろう。
仁さんのご両親は仁さんが子供のときと、大学の在学中にそれぞれ他界したそうで、大学時代の恩師である平野先生が、大学をやめて働こうとしていた仁さんを説得し、奨学金の手配や、さまざまな手続きを手伝ってくれたらしい。だから、大人になっても親代わりなのだそうだ。そんな仁さんだからこそ余計に、姉のことを理解してくれたのかもしれない。
叔母さんも叔父さんも、こぞって美湖ちゃんを褒めちぎり、平野先生と叔父さんと叔母さんで、親バカ対決みたいになっていた。美湖ちゃんと仁さんが照れるように笑う。
私はそんなやりとりを眺めながら、自分がこんな空間にいることに微かな驚きを覚えていた。私は、自分は幸せになる資格のない人間だと思っている。だから、こんな場所にいることが、ふいに奇異に感じられたのだ。ここは、生温かくて柔らかい寒天のようなものに、とっぷりと閉じ込められている。とても居心地が良い。このまま体ごと飲みこまれてしまいそうで、これが幸せという気持ちなのか、と幸福の概念を実感した気がした。
「お写真とりましょうか?」
食事が一段落したところで店員が声をかけてくれる。
「ありがとうございます」
美湖ちゃんがスマートフォンを店員に渡し、参列者は席を立ち、壁際に並ぶ。窓からの柔らかい日差しが私たちを温めて、幸せは余計に膨らんでいくようだった。新郎新婦を真ん中にして、みんなが笑顔。店員は何枚か写真をとり、美湖ちゃんにスマートフォンを返す。
「いやあ、本当にめでたいですな」
平野先生が言う。
「本当によき日です」
叔母さんがしみじみ微笑む。
「美湖ちゃん、おめでとう」
私は姉にそっと歩み寄って、声をかけた。
「さあちゃん……ありがとう」
私は姉の手をとり、しっかりと握った。絶対に離さないと決めていた姉の手。私が何を犠牲にしても一緒にいると決めた姉の手。大好きな姉の手。ようやく、仁さんに託すことができるのかもしれない。手を取り合って目を合わせると、美湖ちゃんの目の縁が赤くなり始め、すーっと一筋涙を流した。姉が人前で泣くことなんて、見たことがなかった。
「ちょっと美湖ちゃん、泣かなくたって……」
私は笑った。美湖ちゃんが幸せだから泣いているんだと、わかったから笑った。
「だって、さあちゃんが泣いてるから」
そう言われて初めて私は、自分が泣いていることに気付いたのだ。
「やだ、本当だ。私、泣いてるじゃん」
二人で手を取りながら、笑って、泣いた。涙がいっぱい出たけれど、それは今まで私が、そしてたぶん美湖ちゃんが、人知れず流した涙とは、違うものだった。
姉が幸せになることで私の重りは少しだけ軽くなる。逆もそうだ。私が幸せになることで、姉の重りは少しだけ軽くなる。私たち姉妹は、自分たちをがんじがらめにしている重い鎖を、少しずつ、慎重に、丁寧に、恐る恐るはずしていく。そうやって、あれから二十年生きてきた。そしてこれからも、そうするより、他ない。
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