第94話 フリなんでしょ?

 部屋に入ってきたメイドが告げる。


「オリヴィア様がお帰りになりました」


 と。


 それを聞いて、たしかその名前は……と、ひとりの女性を思い出す。


 オリヴィア・フォン・アスター。


 アルテミスの母親にして、アスター伯爵夫人である。


「お母様が帰ってきたのね! お父様の件はもう言っちゃった?」


「いえ。ただいま浴室にて湯浴み中だったため、先にこちらへ通します。いまは着替えの最中かと」


「それじゃあ、うんとお母様を驚かせてあげましょう? ずっとお母様はお父様のことを心配していたし、きっと喜ぶわ!」


「ふ、普通に教えてあげればいいんじゃ?」


 よそ様のことに口を挟むのはどうかと思ったが、さすがに言わざるおえなかった。


 しかし、アルテミスは笑みを浮かべて首を横に振る。


「大丈夫です! お母様はサプライズなどに弱いので、きっと大泣きして感動するはずなので!」


「……なるほど?」


 ぜんぜん理由になっていないような気がする。が、もはや突っ込む気力はなかった。


 でも、大泣きしたら困りそうだけど……まあいいか。


 俺はなにも聞いていない。ただ黙って紅茶を飲むことにした。


 しばらくして、部屋にオリヴィア伯爵夫人が現れる。


「お待たせしてすみません、ヘルメス公子。こうして顔を合わせるのは、入学式の前の夜会以来になりますね」


「お久しぶりです、オリヴィア夫人。相変わらずお美しい」


「あらあら。こんなおばさんを褒めると、アルテミスが嫉妬してしまうわ」


「——お母様!?」


 あ。アルテミスに飛び火した。


「ななな、なな、なにを言ってるんですか!? わた、わたたたたた」


「ぜんぜん弁解できてないわよぉ、アルテミス」


 完全にアルテミスはパニくっていた。


 見ている分には面白いが、内容に自分が含まれていると居心地が悪い。


 どうにか空気を変えるべく口をひらいた。


「あはは。あまりアルテミス嬢をからかってはいけませんよ。彼女は繊細な乙女ですから」


「あらあら。ヘルメス公子はアルテミスのことよく知ってるのね。最近は、この子へんな口調をするようになったんだけど……馬鹿よね。父の真似なんて」


「う、うるさいですよ! それより、まだ準備は終わらないんですか!?」


 入り口に立ったメイドへ、アルテミスが吠える。


 オリヴィア夫人は首を傾げた。


「準備? なにを準備しているの?」


「あ……えっと、それは……」


 思わず口走ってしまったアルテミス。


 どんな言い訳が飛び出してくるのかと思っていたら、それより早く扉が再びノックされる。


 アルテミスが顔を上げた。扉の向こう側から、メイドの声が届く。


「アスター伯爵さまの準備が終わりました」


 そう言うと、夫人が「え?」という表情を作る。


 次いで、扉がひらいてアスター伯爵が部屋に入ってきた。気まずい顔で、目を見開いた夫人へ挨拶する。


「や、やあ……オリヴィア。た、ただいま……」


 片手をあげてそう言うと、たっぷり10秒ほど夫人は固まってから……。




「え、えぇええええええ————!?」




 と声高らかに叫んだ。


「は? え? なん……なんであなたがここに!? い、いつ戻ってきたの!? 本物!? 偽者じゃなくて!?」


 使用人たちと同じ反応してる。ちょっと面白かった。


「偽者じゃないぞ。ちゃんと本物だ。ほら、触ってたしかめてみるといい」


 アスター伯爵が夫人の手を握る。ゆっくりと彼女の手を自らの頬へ持っていく。


 むにむに、と半ば無意識に夫人が伯爵の頬を触った。


「ほらな? 偽者じゃないだろ? ちゃんと俺だよ、オリヴィア。心配かけてすまない。こうして、戻ってこれたんだ」


「ほ、本当にあなたなの……? ——あなた……ッ!」


 とうとう感極まって泣いてしまう夫人。


 勢いよく伯爵の胸元へ飛び込むと、えんえん、と泣き嗚咽がもれる。


 困り顔の伯爵に、俺は無言で「隣の部屋でやったほうがいいですよ。せっかくですし」とジェスチャー。


 伝わったのか、伯爵は泣きじゃくる夫人を連れて部屋を出ていった。その様子に、アルテミスは満足げに笑う。


「よかった……。よかったね、お母様。これでもう、寂しがる必要はない……」


「アルテミス嬢もね。もう、無茶な真似はしなくていいだろうし」


「うぐっ……! その節も、本当にお世話になりました……」


「構わないとも。それより、今後はせめてアスター伯爵からいろいろ教わってからダンジョンに潜るといい。これからは、きっとアルテミスのためにたくさんの時間を割いてくれると思うよ」


 もうダンジョンはこりごりだ、みたいなこと言ってたからね。


「そう……でしょうか?」


「うん。痛い目に遭ったんだ、少なくともしばらくは家にいると思うよ。そのあいだにたっぷり甘えるといい」


「……そっか。えへへ」


 嬉しそうにアルテミスは笑みを浮かべる。だが、直後、顔を真っ赤にしてこちらを向いた。


「あ、いや! その……そこまで甘えませんよ!? こ、子供じゃないんだから……!」


「えー……?」


 そこ? 別に女の子なんだからいいと思うけどね。


 ウチの母親なんか、未だにすっごい熱烈なラブレターみたいなの送ってくるよ? 歳なんて些細なものさ。


 しかし、それでも恥ずかしいのか、アルテミスは繰り返し同じようなことを言う。


 俺が「うんうん。わかったわかった。そういうフリね」と頷くと、アルテミスはよりいっそうの抗議の声をあげる。

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