十話

「上手く捕らえた!」


 木々の奥の暗闇の中から自信に満ちた声が聞こえると、そこから私の腕とつながる縄を持った男が静かに現れた。それを皮切りに、墓地の周囲の暗がりから追っ手の男達が次々に姿を見せる。


「いつの間に、こんなに……」


 私は取り囲もうとする男達を見回した。七、八……十人以上は確実にいる。こんな大人数が潜んでいたなんて。一体いつから……だが、峠にいた男達の顔はない。ここにいるのはまた新たな追っ手のようだ。でも知っている顔が一人だけいる。パーレン――アーメルナヤンで見かけなかったのは、こいつらと共にいたからか。追っ手の仲間はどれだけいるのだか。


「王都方面の街道に先回りしたのは大当たりだった。証の隠し場所まで案内してくれるとはな。パーレンの助言のおかげだ」


 男の一人がそう言ってパーレンに笑いかけるが、当の本人は厳しい表情を崩そうとせず、じっと私を監視するように見ていた。


「まだ終わってない。油断は禁物だ」


「しぶといやつでも、さすがにこの状況からは逃れられない。もう終わったも同然だ」


 確かに、普通なら終わる状況かもしれない。だが私には普通でないものがある。強力過ぎる武器が……。


「……証はここにある。誰か、奪いに来たらどうだ。まあ、簡単には渡さないけど」


 私は縄の絡まった右手に持つ証を掲げて見せると同時に、左手で腰からナイフを抜き、構えた。


「お前の誘いには乗らない。我々がまず奪うのは、そのナイフだ。丸腰にし、無抵抗の状態にしてから、証はこちらに渡してもらう」


 この男達も、パーレンから刺青のことを聞いているようだ。私との戦いを避け、怪物の出る機会をなくすことに注力している。それならそれでもいい。こちらが危険にならずに済む。


 私は構えたナイフを右腕の縄に押し当て、動かす。ぎちぎちと切れる音はするが、このナイフでは少々時間がかかる。


「戦えないのなら逃げるか……止めろ」


 男がそう言うと、腕に絡まった縄が勢いよく引っ張られ、私の体はそのまま地面に倒された。


「今だ。ナイフを奪え」


 誰かの合図で倒れた私に数人の男が近付いてきた。押さえ込まれたら逃げる術がなくなる――私は牽制するようにナイフを振り回し、男達を近付けないようにした。


「縄を引け!」


 その声に私の腕はまた引かれ、でこぼこの地面をわずかに引きずられる。そのせいで体勢が崩れ、ナイフを振り回す手が止まってしまう。


「今だ。早く押さえ付けろ!」


 男達が腕をつかみに迫って来る。絶対にさせるか――私は再びナイフを振って牽制した。が、その手は背後から伸びてきた手につかまれてしまった。


「くっ……」


「体を押さえて、ナイフを奪え!」


 何も渡すものか――つかまれた手を自分の顔に近付け、私は男の腕に思い切り噛み付いた。


「うっ! こ、こいつ!」


 噛まれた男は私の頭をぐいぐいと押し離そうとしてくるが、それでも私は離れなかった。肉を噛みちぎるつもりでさらに強く噛む。


「ぐっ、うう、は、離れろ! 誰か、こいつを離してくれ!」


 痛みにたまらず、男は仲間に助けを求める。つかむ手を緩めればこちらも離れてやるというのに。肌に深く食い込み過ぎたのか、口の中にわずかな鉄の味が広がっている。


「引き離せ! 今のうちにナイフを!」


 大勢の男達がこちらに群がってくる。私の手足を押さえ、ナイフと証を力尽くで奪おうとする。渡さない! 奪わせない! これは王女の元へお持ちするのだ――両手に精一杯の力を入れながら、私は男の腕を一層強く噛んだ。途端、鉄の味を感じていた舌に生温かいものが流れ込んできた。濃い鉄の味――


「がああっ……くそっ! いい加減、離れろって言ってんだよ!」


 あまりの痛みに怒りが込み上げたのか、男は怒鳴るように叫ぶと、拳を振り上げ、私の顔に振り下ろそうとする。この状態では避けられない――目を瞑り、私は痛みに備える。


「やめろ! 傷付けるな!」


 パーレンの慌てた声が聞こえたと思った瞬間、真っ暗な視界に光を感じ、私は薄目を開けた。そこには、ベールのように光をまとった大きく美しい銀色の狼がたたずんでいた。その口元には、私を殴ろうとした男が首を噛まれた状態でぶら下がっている。


「……あ……がは……」


 男にはまだ息があるようだ。ぽつぽつと赤いものを滴らせ、仲間に目で助けを求めている。だが次の瞬間、銀の狼はバキッと音を鳴らし、男の首を噛み砕いてしまった。一瞬で力の抜けた男は、首を真っ赤に染められ、地面に放り出される。その様子に、仲間達は息を呑み、呆然と動けずにいた。


「危害を加える行為は取るなと、散々言っただろう……」


 後方に立つパーレンが小さな声で悔しげに言った。刺青の具現化を警戒していたにもかかわらず、また仲間を失ってしまったのは無念なことだろう。だがこれでわかったはずだ。私に手を出すという行為は、命と引き換えることだと。


「これが、怪物、なのか?」


「ただの大きな狼じゃないか」


 突然の出来事に一時は騒然とした男達だったが、少し冷静さを取り戻したようだった。確かに、これまで現れたものと比べると、この狼は体が大きく、銀色の珍しい毛色をしている以外には、至って普通の狼にしか見えない。たった今、人間の命を奪ったばかりだが、野生の狼でもそういう危険はある。見た目からは現実の狼との違いは見当たらない。


「どこが怪物だ。脅かしやがって」


「一匹ならやれる。さっさと殺しちまえ」


「いや、ここは一旦退いたほうがいい」


 パーレンがすかさず言うと、男達は鼻で笑った。


「怪物を飼っているというから、どんな恐ろしい生き物かと思ったが、この程度なら恐れるほどじゃない。……パーレン、少しびびりすぎだ」


「こいつは本物の狼じゃない。侮らないほうが――」


「大丈夫だ。こちらは数がある」


「そうだ。それに証をまだ手に入れていない。目的を果たさずに退くわけにはいかない」


 その言葉に、武器を構えた男達の視線が私に向いた。


「狼を殺せ。その間に証を奪う」


 男達は二手に分かれた。狼を退治する者と、証を奪取する者――私は慌てて立ち上がった。ナイフと証は奪われずに済んでいるが、右手の自由は未だに縄に絡め取られている。これがあっては逃げることもできない。早くどうにかしないと……。


「縄を引いて引きずり倒せ」


 またそれか――私は手に巻き付いた縄を解こうと試みたが、縄を引かれた途端、それはすぐに中断させられる。もう押さえ付けられたくない一心で、私はこちらからも縄を引っ張り、踏ん張ったが、向こうの引き手が一人増えると、もう抵抗することは無理だった。


「はっ……」


 あっさり引き倒され、私は再びでこぼこの地面に触れる。押さえ込まれる前にナイフを構えようと顔を上げた時、その目の前を突風のように何かが横切った。


「うぐうっ……」


「何……」


 うめき声と同時に、前にいたはずの男の姿が消えていた。ふと見ると、その男が握っていた縄が途中で切れていた。それを見て私は急いで右手から縄を解く。


「ど、どうなっている……」


「狼だ……あの狼、でかい図体のくせに、恐ろしく素早い。二人をはね飛ばしていきやがった」


 その言葉に近くの暗がりに目を移せば、男二人の倒れた足が見えた。


「くそ、狼はどこだ! どこに――」


 その瞬間、首を巡らせていた男の背後から狼が飛び出してきた。


「わああああ――」


 襲われた男は首を噛まれ、大きな悲鳴を上げながら倒れる。


「た、助けろ!」


 周囲の仲間が一斉に武器を狼に向けるが、それを見た狼はすぐに飛び退き、姿を消してしまった。


「動きが速すぎて見えないぞ……」


「本当に狼なのか? 我々が勝てる相手なのか?」


 ようやく右手が自由になり、私は立ち上がった。やはり狼はただの狼ではなかった。人間の目では追えないほどの素早さは、もはや銀色の風が舞っているようだ。あの体には、誰も触れることも、傷付けることもできないだろう。


「貴様が操っているのか、あの狼を!」


 後ろから不意に襟首をつかまれ、私は慌てた。


「……知るものか。放せ!」


 ナイフで切り付けようとするも、その腕はつかまれ、ねじり上げられた。


「あれはお前から現れた。お前を殺せば、あれも消えるはず……!」


 そう言うと、男は私の首に剣を当ててきた。


「パーレンの言葉を忘れたか」


「黙れ! 死ね!」


 男が叫ぶと、その体は風を切る音と共に一瞬の内に私から離れた。周囲を見回すと、その男は離れたところで首から血を流して倒れていた。こんなことをしても、無駄死にするとわからないのか。


 次々と仲間が倒れていく状況に、残っている男達は恐怖を見せながらも、私を鋭く見据えてきた。


「狼はもういい……証だ。証だけ、意地でも取り戻せ!」


 こちらだけを狙い、男達が走り、迫ってくる。急いで証を懐にしまい、私は身構えた。


「ぐはっ……」


「げほっ……」


 だが男達は私にたどり着く前に、銀色の風に瞬時にさらわれていく。視界の端には動かなくなった男の姿が増えていく。


「駄目だ……狼をどうにかしない限り、我々は……」


「弱気になるな! 証は目の前にあるんだぞ。こんなところで退けるか!」


「しかし――」


「しゃべる暇があるなら、その剣を使え!」


 諦めない男が私を睨み付けた時、その目前を銀色の姿がさえぎった。


「おっ、う、な、あ……」


 突然の狼の出現に、男は驚きの声すら上げられない。わかりやすくうろたえる相手に、狼は堂々と襲いかかった。


「ぎゃああああ……」


 断末魔の叫びがとどろく。銀の体の向こうから血飛沫が飛んでいる。むごい……だが、退かない選択をした結果の自業自得だ。憐れむ余地はない。


 そんな光景に気を取られいると、何か気配を感じ、私は離れた暗がりへ目を移した。そこにはふらつきながら、剣を振りかぶっている一人の男の姿があった――先ほどまで縄を持っていた男か?


 すると男はかすかに笑ったかと思うと、振りかぶった剣を私目がけて投げ付けてきた。突然のことに、逃げようとした私の足はでこぼこの地面でもつれてしまった。回転する剣は一直線にこちらへ飛んでくる。当たってしまう――私は両手で身をかばう姿勢を取った。


 直後、足下が光に包まれたかと思うと、強い風が巻き起こり、私の体から何かが飛び出して行った。


「キイイオオオオン!」


 耳をつんざく甲高い鳴き声に視線を上げると、頭上には真っ赤な翼ではばたく巨大な鳥がいた。狼よりも大きいその鳥は、私の上で飛びながら剣を投げた男に狙いを定めているようだった。


 狙われている男は明らかに動揺を隠せず、ふらつきながら暗がりの奥へ逃げようとしたが、もう体力の限界だったのか、逃げ切る前にその場に座り込んでしまう。止まった標的に赤い鳥はここぞと急降下した。鋭い足の爪が男を捕らえ、刃物のように尖ったくちばしがその身をついばむ。もはや悲鳴すら上がらない。


「か、怪物は、一匹だけではないのか……」


 生き残っている追っ手は、パーレンを含めて三人だけ。だがパーレンは離れた木の陰で傍観を続けており、戦いに参加する気はないようだ。命が惜しいのならそれが正解だろう。残る敵は実質二人……。


「逃げないのか?」


 私は武器を構えたまま立ち尽くす二人の男に聞いた。その顔は恐怖で青白く変わっている。


「に、逃げなど、するものか……!」


「お、おいっ!」


 一人の男がやけになり、こちらへ走ってくる。これなら私だけでも対処できる――そう思い、ナイフを握って身構えたが、横から現れた赤い鳥が男を鷲掴みにし、あっという間にさらってしまった。


「そんな……一人で、どうしろと……」


 残された男は視線を泳がせ、強張った表情で怯えを見せている。そんな男に銀の狼はにじり寄り、牙をむいて威嚇する。


「来るな! む、向こうへ行け!」


 焦り、恐怖に加え、混乱もしたように、男は狼に向けて剣を乱暴に振り回す。しかしそんな剣が当たるわけもなく、狼は風のように素早く移動すると、男の背後から勢いよく襲いかかり、その首に噛み付いた。押し倒された男はわめきながら暴れていたが、それもすぐに止まった。


 赤い鳥が私の前に舞い戻ってくると、その横に狼が並んだ。二匹は同じ方向を見る。目線の先には木の陰に立つパーレンの姿があった。彼も敵なのかと見極めているのだろう。


「……そこにずっといても、証は手に入らないと思うけど」


 そう言うと、パーレンは口角を上げた。


「奪いに行ったところで、こっちの命を失うだけだ」


「じゃあどうして逃げないの?」


「逃げた途端、後ろから襲われるんじゃないかと思ってな」


 よく見ると、木に触れている指先がわずかに震えているのがわかった。仲間が呆気なく殺されていく様は、相当な恐怖を植え付けられたのだろう。


「あなたが私の邪魔をしなければ、そんなことはしない」


「……俺を、逃がすのか?」


 聞かれ、私は一瞬考えたが、言った。


「かつての仲間に対して、冷淡にはできない」


 これにパーレンは気付いたように目を見開く。


「それは、俺の言った言葉だ」


 そう。助けを求め、家を訪れた時にパーレンに言われた言葉……。


「騙してたと知っても、まだ俺をそんなふうに思えるのか?」


 記憶を思い出し、パーレンが親切を装っていたと知った時は、憤りもあったし、悲しさもあった。だが私が彼の立場だとしたら、おそらく同じことをしたかもしれない。互いに、信念を持った行動をしているだけなのだ。それはかつて同僚として王宮内で見ていた姿を思い出させる……。


「今は敵かもしれないけど、私は、傷付けたくない敵だ」


「甘過ぎる考えじゃないか? お前が寝てる間に証を盗まれても、そう言えるのか?」


「……あなた、ここで死にたいの?」


「違う。不思議なだけだ。大して親しくもなかった俺を、どうして逃がそうと思うのか」


「親しくなくても、あなたは同僚で仲間だったことには違いない。これだけじゃ不足?」


 私とパーレンはしばらく互いを見合っていたが、先に向こうが視線を外した。


「相手を信じ続けることは美しくもあるが、時に疑うことも忘れるべきじゃない」


「……やっぱり、逃げるつもりがないの?」


「いや……退かせてもらう」


 私をいちべつしたパーレンは、睨む狼と鳥を警戒しつつ、ゆっくりと踵を返すと、暗がりの木々の間へ姿を消した。


 辺りに誰もいなくなったのを確認するように、二匹は私の近くで周囲に視線を巡らす。そして危険はないと判断したのか、鳥は風を起こして舞い上がり、狼は寝床へ帰るかのようにとぼとぼと森の奥へ向かう。喜びを見せるでも、別れを惜しむでもなく、二匹はそのまま姿を景色に溶けさせ、消えた。私を守るという役目を終えたということか。


 確かに、私は十分に守られた。その痕跡は墓地の中に広がっている。十人ほどの男達が至るところで息絶えている。首を噛み切られている者や、体に穴を空けられている者……地面には血が染み込み、黒く変色している。ここは墓地で、死体があって当然の場所ではあるが、それにしても凄惨で容赦のない光景だ。今が夜でよかった。昼間だったらさらに気分が悪くなっていたかもしれない。具現化した生き物達が優先するのは、とにかく私の身を守ることなのだろう。そのためなら手加減などせず、敵の排除に全力をかけるという方針らしい。頼もしいと思える反面、どこか恐ろしさも感じる生き物だ……。


 そう言えば刺青はどうなったのかと、私は左腕の袖をまくってみた。その肌は真っ白に戻っており、刺青は綺麗に消え失せていた。また一つ具現化したことで消えた……いや、今回具現化したのは種類の違う二匹だ。一つの刺青で一種類の生き物が現れるとするなら、もう一箇所の刺青も消えているのかも――私はズボンの裾を上げ、確認してみた。


「……やはり、か」


 足首まであった刺青が、右足だけ消えていた。思った通りのようだ。残る刺青は左足だけ。私の命が助かるのは、あと一度……。


 無残に死んだ追っ手達をいちべつし、私は足早に墓地を出た。これだけの数がすぐにまた現れるとは思えないが、こちらがぐずぐずしていれば、必ず新たな追っ手が立ち塞がってくるだろう。その態勢が再び整えられる前に、急いで王都に入らなければ。これ以上追っ手にかかずらう暇はないし、そこに割く余力もない。一日も早く王女に証をお届けして、その慈愛に満ちたお心で治めてもらうのだ。新国王にふさわしいのはソフィヤ王女……私はその姿を実現する。この命を懸けて。

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