最期に海を見たかった

天紅(tenku)

第1話

 そうだ、海を見に行こう。


 突然の思いつきだったけれど、一度思い立ったらもうそれしか考えられなくなった。我ながら良い思い付きだ。そうだ海を見に行こう。

 多忙な日常に、すっかり疲れ果てていた。毎日毎日終電で帰り、自分一人しかいないワンルームで申し訳程度の休息を取り、また満員電車に揺られて会社へ赴く日々。貯まりに貯まったはずの有給は使うことも許されず、雀の涙の給料は栄養ドリンクとゼリー飲料とビタミン剤に費やした。

 疲れ果てていた。だから、海を見に行きたかった。


 真っ暗な夜空を見上げれば、小さな星が幾つか瞬いているのが見える。電車はもうとっくに動いていない。このままアパートへ帰る気も起きず、静かなホームから真っ暗な線路へと降り立った。

 このま線路沿いに行けば、海が見えてくるはず。夜明けまでにはきっとたどり着けるだろう。そう思って、真っ暗な中を歩きだした。

 光源などろくにない。頭上でほのかに瞬いている小さな星と、半分くらいの月の明かりだけが頼りだ。

 そういえば、夜間だと貨物列車とか通るんだろうか? ふと思った。通らない気はするが、絶対とは言い切れない。迫りくる貨物列車に撥ねられて、そこで死んでしまうかもしれない。

 それならそれでもいいか、とぼんやり思いながら、足を進めた。

 多忙な日々の中、駅のホームから一歩足を踏み出そうかと思ったことは、一度や二度ではない。その度に、目の当たりにした人たちが気の毒だなとか、後片付けする人が大変だろうなとか、そんなことが脳裏をかすめて踏み出せなかった。痛いだろうなとか怖いなという感情は、とっくに擦り切れていた。

 いつも、他人のことばかり考えていた。人目が気になった。他者からの評価が、感情が、気になった。だからこそ、自分のものではない仕事を大量に抱えて、くたびれ果てる羽目になったのだけど。


 馬鹿馬鹿しい人生だったな、と思った。友人でも恋人でもない他者の目なんて、そんなに気にしなければ良かった。もっと、自分の金や時間を、自分の為に使えば良かった。

 でも、だからこその今だ。夜の線路を歩いて海へ向かうなんて、馬鹿馬鹿しいことをしている。そんな馬鹿馬鹿しい行為が、その時間が、とてもかけがえのないものに思えた。

 もうこれで最期だから。だから、最期くらい、海を見たかった。


 小さい頃から、海が好きだった。海の写真がたくさん詰まった写真集を、何度も何度もめくり続けた。

 憧れたのは、外国の海だ。地中海、カリブ海、エーゲ海、ハワイにタヒチにモルディブ。国によって景観は全く違うけれど、青い空と白い砂浜に彩られた海が好きだった。

 子供の頃一度だけ、父親にねだって海水浴に連れて行ってもらったことがある。小学校の夏休みの時だった。人が多すぎて芋洗い状態の海水浴場は、憧れた海と全く違って、ひどくがっかりした覚えがある。

 父には申し訳ないことをした。忙しい中、仕事の合間を縫ってわざわざ連れて行ってくれたのに。

 多分、沖縄や離島にでも旅行に連れて行ってもらえれば、自分の理想に近かったのだと思う。でも幼い自分はそんなことは知らなかったし、そもそも父は旅行に行けるほどまとまった時間が取れる人ではなかった。


 母は、物心ついた時にはいなかった。父は男手ひとつで自分を育ててくれた。

 自分を育てるために、不自由させないためにと、父はたくさん仕事をした。自分が大きくなって稼げるようになったら父も楽が出来るだろうかと、高校卒業と同時に就職した。初任給が出る前に、父は過労で倒れて帰らぬ人となった。

 それから自分は、父の背中を追うように働いて、働いて、働いて──。


 なんのために働いているのかわからなかった。

 何も考えないように、ただひたすら働き続けた。

 海が好きだったことすら忘れていた。


 最期に思い出せて良かった。


 うっすらと空が白み始めた頃、ようやく海へたどり着いた。かつて父が連れて行ってくれた海水浴場だ。だけど今はシーズンオフだし、早朝だからか、誰もいない。

 ゆったりと寄せては返す波。ざぶん、ざぶんと耳に心地よい音。朝の静けさの中に遠くを飛ぶ鳥の声。しんとした砂浜の向こうに広がる太平洋が、少しずつ少しずつ黄金色に染まっていく。

 ──夜明けだ。


 幻想的なほどに美しい光景だった。仕事の帰りにオレンジ色の朝焼けを見たことはあるけれど(行きではなく帰りだ)、あの時は眩しいなと思うだけで、なんの感慨も覚えなかった。

 冷たい砂浜に腰を下ろす。くたびれたスーツに砂が付くが、そんなこともうどうだっていい。本当は、海に入ってそのまま沈んで、生涯を終えようと思っていた。だけど、まだもう少し、このままでいたい。ゆっくりと輝きを増していく海を、空を、ただこうして眺めていたかった。


 突然。

 プルルルル、と聞きなれた電子音が、この美しい空間を切り裂いた。びっくりした。月並みな表現だが、口から心臓が飛び出るかと思った。

 こんな時に一体誰が、とスマホの画面を確認してみると、会社の同僚からの着信だった。同じ時期に入社した、同期の男だ。同期というだけで、別に仲が良いわけではない。悪くもないが。普段から特に話をするわけでもないし、互いに電話番号を知っていても業務外の連絡を取り合ったことなどない。仕事の話だろうか。まさか。

 

 電源を切っておけば良かったな、などと考えている間も、無粋な着信音は鳴り続けている。このまま電源を切って何も無かったことにしても良かったのだけど、気が付けば応答ボタンを押していた。気まぐれだ。


『あ、つながった。よう』


 薄い板の向こうから、会社で何度も聞いた同期の声が聞こえてくる。仕事のことを思い出してしまってなんだか嫌だ。やっぱり無視すれば良かっただろうか。


「おはよう。……何か用?」

『や、別に大した用があるわけじゃないけど。どうしてるかと思って。今どこにいんの? 家?』

「いや、海」

『は⁉ 海⁉』


 素っ頓狂な声が耳に刺さる。うるさい。やっぱり今からでも電源を切ってやろうか。


『なんで海⁉ つーか、電車動いてた?』

「動いてない。歩いてきた。海、見たかったから」

『……海、好きなのか?』

「割と」

『そっか。知らなかったな』


 そこで沈黙が下りる。向こうから電話を掛けてきたくせに、なんで黙り込むのか。

 このまま会話を終えても良かったのだけど、なんとなく話を続けることにした。気まぐれだ。


「そっちは? 家?」

『あー、家、っていうか、実家。昔好きだった漫画を読み返したくって』

「……そんなのいつでも読めたんじゃ」

『お互いそんな暇なかったってわかるだろ。そっちだって、海くらいいつもでも行けたんじゃん?』

「そんな暇なかった。……そっか、そうだね。悪かった」

『や、別にいいんだけど』


 そこでまた、少しの沈黙。次に話を再開したのは、同期の方だった。


『なんか……なんていうか、お前とこういうどうでもいい話とか全然しなかったなって』

「そうだね、仕事の話ばっかりだった」

『今からでも話すか! お前この漫画知ってる⁉ 四十巻くらいあるんだけど人気あって面白くて!』

「ごめん、漫画あまり読まないし、そんな長いの読んだことない」

『そっか……』

「なんかごめん」


 しょんぼりした口調の同期に、つい謝罪してしまう。いや別にこちらが申し訳なく思う必要はないはずだけども。


「それよりそっちは、せっかく実家に居るならご家族と話したりしなくて大丈夫? こんな電話してる場合じゃないんじゃないの」


 ざぶん、ざぶんという波の音。遠くの方からサイレンの音が聞こえてくる。一体なんのためのサイレンだろう。そんなもの、もう、なんの意味もないだろうに。


『あー……パニックになってて、あんまり話できる感じじゃない。せっかく帰ってきたんだけどな』

「そっか……残念だったね」

『そっちは、ええと、家族、は』

「うち、両親ともいないから」

『そっか、ごめん』

「いいよ、気にすることでもない」

『……あー、漫画なんて読みに帰るより、お前と過ごせば良かったかな』

「なんで?」

『なんでって……』


 本気で意味がわからなくて聞き返したのだけど、同期は何故か言い淀んでいる。

 目の前では、黄金色がどんどん強くなっていく。夜のとばりが遠ざかっていく。せっかくの光景を邪魔されたかたちになったけれど、不思議と腹立たしい気持ちにはならなかった。

 家族も友人も恋人もいないから、最期の最後にこうやって誰かと話が出来るなんて思ってもみなかった。

 海を見たまま静かに逝きたかったけれど、こんな最期も悪くないかもしれない。


 遠くでサイレンが響く。冷たい風が吹く。どこからか新聞紙が一枚飛ばされてやってくる。ああ、せっかくの景観が台無しだ。

 新聞紙はしばらく傍らでがさがさ音を立てていて、大きく書かれた見出しをしばらく見せつけたあと、湿った風に吹かれてどこかへと飛んで行った。

 昨日発行された新聞だったのだろう。こんな時なのに、まだ働いている人がいたとは驚きだ。お疲れ様です。


 新聞には、大きくこう書かれていた。


 ──巨大隕石接近! 人類滅亡! 衝突は明日の日の出頃!!


 ゆっくりゆっくりと青みを帯びていく空の彼方に、大きな流れ星のようなものが見えた。流れ星は消えることなく、どんどん大きくなっていく。それに伴って、サイレンの音も大きくなる。避難を促しているんだろうか? どこへ逃げたって、逃げ切れるはずがないのに。


『なあ、あのさ』


 スマホの向こうから同期の声がする。不自然に明るい声音だった。


『あんなブラック企業にいつまでも勤めてないで、さっさと辞めとけば良かったなって思わないか?』

「そうだね、思う。こんなことになるなら、さっさと辞めて、お金も時間も自分のために使えば良かったなって」

『おう、俺もそう思う。それで、出来たら俺、お前と一緒に海に』


 視界が、真っ白に染まった。

 全身を焼き尽くすような衝撃。一瞬遅れてやってきた轟音。黄金色の世界は赤黒い地獄へ姿を変える。熱さも痛みも一瞬のことで、すぐに何も感じなくなった。

 ああ、これが最期だ。自分だけでなく、世界すべての。


 最期に海を見ることが出来て良かった。後悔だらけの人生だったけれど、それだけで報われたような気がした。


 ただひとつ、残念なことがあったなと薄れていく意識で思う。

 それは、あの美しい世界が壊れてしまったことではなく。何故か、同期の言葉を最後まで全て聞けなかったことだった。

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最期に海を見たかった 天紅(tenku) @tenku109

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