炎上絵師受難編
1話 あったりなかったり
「――……え?」
あまりにも信じ難い光景に思わず持っていた歯ブラシを落としてしまう。重力に引かれて落ちていった歯ブラシがエナメル質の洗面台にぶつかり、カランという音を立てて跳ねた。
いつも通りに起きて、いつも通りに歯を磨いて、いつも通りに顔を洗って――髭を剃って――服を着替える。そんなやっと手にした穏やかな日常が壊れる音がするとともに俺の口から少女の悲鳴が発せられた。
「うああああああっ!? な、何だこれぇ!?」
鏡に写っていたのは銀髪の女の子だった。照明を反射して輝く白銀の髪は腰まで伸びており、雪のようなきめ細やかな白い肌と深海のような蒼い瞳が相まって幻想的で儚げな雰囲気を醸し出している。
あきらかに日本人離れした容姿だ。いや、外国人にもこれほどの美貌を持つ人なんて……まるで、おとぎ話のお姫様をそのまま現実に引っ張り出してきたかのような少女だ。
「うっ……ふぇ? ど、どうして……?」
とても可愛らしい鈴の音のような声が自分の喉から発せられていることにさらに動揺してしまう。
パチパチ瞬きすると鏡の中の彼女もパチクリまばたきする。頬をつねると同じように彼女も頬をつねった。痛い。
夢のような出来事がどんどんと現実味を帯びていくにつれて、心臓がバクバク鳴り始めた。こんなことって……
恐る恐る視線を下にずらすと自分の胸部に目をやる。
目に映るのは愛用のパジャマ……男ならば平坦でがっしりとした胸部景色が広がるはずだが、不自然な二つの膨らみがそこにはあった……!
「……ッ!?」
まさに嫌な予感が現実のものになってしまった時であった。もともと骨格が良いとは言えない体系だったが流石にこんな柔らかい膨らみなんかなかった……え……どうして?
現実を受け止められないままその感触が現実のものかを確かめるかのように胸を鷲掴みにする。指が柔らかな膨らみに沈むとともにふにゅりという感触が手のひらに伝わってきた。
「……っ! ……ぁ!」
むず痒いような気持ちいいような感覚に襲われ、声にならない悲鳴を上げながら慌てて手を胸から離した。鏡の中の彼女は呼吸を乱しながら驚き目を見開いていた。
「あ、あるっ……!」
パジャマの襟口から見え隠れする谷間とまだ胸の感触が残っている手を交互に見ながら俺は叫んだ。ゆ、夢じゃない――なってる、本当になってる……ッ!?
「何で俺、女になってんの……っ!?」
マ、マジでお……お、女になってる! なんで? なんでなんで!? わ、訳がわからない……!
何度見直しても何度触ってもそこには女性の胸が確かに存在していた。この感触は間違いなく本物だ。夢じゃあない……!
ど、どうしてこんなモノが俺に――ってことは……アソコは……?
小刻みにプルプルと震えた手を股間の方へと近づけていく――長年苦楽を共にしたはずのアイツが……相棒の感触が……無い。触ろうとしても空を切るだけで何もない。
「あぁ……ない、ない……!」
無いものがあって、あるものが無い……これで冷静でいられる人間がいるだろうか?
「ぅあっ……」
あるはずのものがない喪失感からか変な声が出てしまった。あぁ……俺の息子がいない……っ! 信じられない……いや、どうやってこんな非現実的なことを信じればいいと? あぁ……俺の体がこんな……!
あまりにも残酷な現実に処理しきれず、その喪失感を体現するかのように膝が崩れ落ち洗面台に突っ伏す。どうしてこうなった……
その後、俺の脳は停止したため五分ぐらいずっとその体勢のままボーっとしていた。やっぱり、何かの間違えじゃないかと期待して鏡をチラ見するが、涙目になっている女の子が映るだけだった。
うわぁあああ! どうしようか……どうしよう…………!?
混乱する中でもなんとかこれからのことを考える……まず、真っ先に思い浮かんだのは同居人の顔だった。
現在、俺は従姉の経営する喫茶店の3階にある部屋を間借りして暮らしているため、同じ屋根の下で暮らす姉の説得は必然となる。
……でも、無理だぁー説得できる自身が無い、自分のことが信じきれないのに他人に俺が俺であるって信じさせるのは難易度が高過ぎる。
最悪は姉に追い出されて行くあてもなくて野垂れ死ぬ……
いや、そうでもなくてもこんな少女、一人でブラブラしてたら怪しい人に誘拐……いや、その前に警察のお世話とかになってどこかに連れて行かれる? ……駄目だ。希望のある未来なんて想像できない。お先が真っ暗すぎて泣けてきた。
「んっ……どうしよ……」
涙ぐむ瞳を袖で拭いながらこれから生きていくための最善手を考える。
姉の説得はどのみち無理そうだから部屋に戻ってお金やスマホなど必要最低限のモノを回収してネカフェとかに潜伏するか? 引き伸ばしにしかなってないが他に良い考え思いつかないし、ここでぼーっとしてたら姉に見つかるし……よし、そうしよう。
さっそく行動に移すため洗面所から出ることにする。ドアノブに手を掛けて廊下に出る。よし、まだ起きてないみたいだ。
物音がしないことをいい事に外へと飛び出す。ここは2階で自室は3階にあるから少し大変だが頑張って見つからないようにゆっくりゆっくり……
音をたてないように階段を一段一段ずつ上っていく。よし、半分まで来たあと少しで――
「おぅ! 朝陽起きてたの? ……って、ん? 誰アンタ……?」
「ふぇ……? っあ……っ!」
後ろから突如声をかけられ振り向くとそこには化粧後のエプロン姿の従姉がそこにいた。え? いつもならこの時間は部屋で化粧してるはずなのになんで?
「なんでアンタが朝陽のパジャマ来てるの? ちょっとこっち来てくれる?」
いつもとは違う低く暗い声が俺の体に絡みついてくる。普段は凄く優しくて気さくなねーさんの顔がもの凄く怖い。その気迫に圧され頭が真っ白になり自分の人生の終わりを悟るのであった……
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