夜明け前が一番昏い

ちょこっと

第1話

 夜明け前が一番昏い


 躓いた私へ 甘い慰めの代わりに 知識を贈ってくれた


 The darkest hour is just before the dawn


 彼の教えは 今も私を支えている




「おい! なんだこの資料、誰が作ったんだ」


「すみません! 私です!」


 入社五年目、ミスが多い私。今日も上司の叱責を受ける。


 あぁ、でも良かった、ミスと言っても少しの誤字誤変換。

 数値を間違えたとか、逆の事を書いてしまったなんて大きなミスじゃなかった。

 とはいえ、ミスはミス。叱られても仕方がない。


 頭を下げ続ける視線に、胸元の社員証が入って揺れた。


 夢と希望いっぱいで、少し緊張気味の写真。

 期待に満ちた自分から、もう五年も経っていた。


 不甲斐無さに、唇の内側が痛んだ。




 ひとしきり叱られて謝罪を終えた私は、一人残って深夜残業だ。


 一区切りつくところまでこぎつけて、自販機の紅茶を買いに行く。


 もうみんな帰ったフロアはしんとして、自販機のモーター音が耳に付く。


ガコン!


 缶の落ちる音が響き渡る。手にして休憩室の窓から夜空を見上げた。明るい都心のオフィス街では、星なんか見えやしないのに。


 キンキンに冷えた紅茶を飲んで、オフィスを後にした。




 社会人になって五年目、一年目はあっという間に過ぎていた。何かをしたとか、何もない。本当に、気が付けばもう二年目が始まって、あっという間に五年が過ぎていた。


 要領の良い方じゃない私だけれど、やりたい事があったから、頑張った。必死に、がむしゃらに、それこそ自分でもかっこ悪いなぁと思うくらいに。


 夢があるから。


 彼と約束をしたから。


 大学で出会った臨時教員の彼。

 年は一回りも離れていたけれど、彼に落ちるのはあっという間だった。

 落ち着いた雰囲気で知的な笑顔、穏やかに思慮深く語る口調はいつまでだって耳にしていたい。

 背が高くて板書の上まで楽々届く彼の講義は幸せな時間だった。その細長くて大きな手で記されていく内容は新しい学びにわくわくしたし、心地良いバリトンの紡ぎ出す言の葉は頭にも心にも響いた。


 だから、勇気を出して告白したんだ。

 だけど、結果は惨敗。いや、惨敗の方が良かったかも。中途半端に希望があるから、縋ってしまう。完全に息の根を止められたならば諦めもついただろう。まるで沼にハマって足掻き続けている私。みっともない。カッコ悪い。だけど好き。どうしようもなく好き。ただ、まだ好きなんだ。



 告白した私に、彼は少し困ったように首を振った。


 自分のような歳の離れた男よりも、もっと相応しい人を選んだ方が良い。君は素敵だ。これから、素敵な出会いだってあるだろう。叶えたい夢だってあるんだろう? ほら、こんな冴えない臨時教員なんか気にしてないで、全力で夢に向かっていくと良い。なにしろ、僕は恋愛だとか結婚だとかには向いていない男だからね。


 そう諭す彼に、私は食い下がった。


 夢も貴方も諦めない。恋愛や結婚と仕事だって両立したい。貴方が向いていなくたって良い。貴方が私を嫌なら仕方がない。でもそうじゃないなら、せめて可能性があるなら、私との可能性を試してほしい。


 そうして始まった、私と彼の恋人ではないけれど恋人になりたい微妙な関係が、もう七年近く続いている。

 私は二十七歳。そろそろ親も結婚の話を頻繁に口にし始めた。のらりくらり親を躱しながら、たまに会える彼との逢瀬を楽しんでいる。

 直接言葉にして恋人だとか、結婚だとか、そんな話は出ない。出来ない。したい。そろそろ、ちゃんと話したい。でも怖い。だって彼は最初に正直に話していたんだもの、結婚には向いてないって。じゃあ今の状態は何?

 今の私と彼の状態は何? 恋人って言える? 正確には何が恋人なの? 宣言して同意を言葉で得ないと、恋人ではないの? 分からない。ああ、私も、恋って向いてなかったのかも。



 彼が好き。だけどやっぱり私じゃ無理かなって、思う瞬間は絶え間なくて。


 努力すれば報われる。なんて素敵な言葉。ただ、私の物語には見当たらなくて。


 努力しなければ可能性は0。分かってるよ。でも努力しても大抵は0。


 終電間際の電車に揺られながら、そんな事が頭に浮かんでは追い払う。

 駅から歩く帰り道、また俯いてしまっていた視線を上げて、少し立ち止まってみた。


 オフィス街では全くない星も、深夜の住宅街なら少しは見える。

 一等星だったか、明るい星が少しだけ見えた。




 ――宵の明星


 枕草子にも残された綺麗な星、ゆうづつ。


 彼が教えてくれた知識の中の一つ。



 そこは、私が私でいられる秘密の小部屋。

 心の片隅にひっそりと大切に持ち続けている宝物。

 大事に大事に仕舞い込んだ思い出は、まるで一冊の本のよう。


 今見えているのは、宵の明星じゃないし明けの明星でもない。こんな深夜に見えている筈が無いって分かってる。

 名前も知らないその星が、それでも私の思い出を揺さぶった。



 少し低めの、耳に心地よいあの人の声が聞こえた気がして、いますぐ会えないのに無性に会いたくなってスマホを開いた。メッセージを送ろうとして、送信を押す前に消去した。

 ダメだ。めんどくさい女だと思われたくない。捨てられたくない。だってまだちゃんと恋人じゃない。

 オフにしたスマホの画面に、泣きそうな自分が映った。ぐっと、奥歯を噛んで堪える。

 大丈夫、大丈夫だと、優しく諭してくれた手を。

 広い世界を教えてくれた、あの声を。

 甘さの無い、貴書や古書みたいな匂いのあの人を。

 その一つ一つを思い出す。



 叶わない望みだと分かっている。恥も外聞も無く、子どもみたいにわめけたら楽なのかな。いやだ。まだ望みはあるんだ。彼を、自分を、諦めたくない。


 大きく息を吐いて、吸った。


 大丈夫、大丈夫だと、自分で自分に言い聞かせて。


 彼のくれた星の欠片は、私の中で照らしてくれる。真っ暗闇に囚われても、私の奥から仄かな灯りが照らしてくれる。


 迷わないように、見失わないように、寒さで立ち止まらないように。


 彼の教えは、彼との時間は、彼のくれた一つ一つが、今も私の中にある。だから、こんな侘しい夜も、一夜一夜、越えていける。


 視線を外して、私はまた歩き出した。

 手の届かない輝きに見惚れて、立ち止まったりしない。



 一歩一歩、自分の足で歩いていくから。自分の力で、叶えて見せるから。自分の手で、掴みに行くんだ。仕事だって、恋だって、自分の手で、掴みに行くんだ。



 誰のものでもない。


 私の夢を。


 宵の明星。日が落ちた後に輝くゆうづつ。今の私だ。


 今はまだ、夜が始まったばかり。私の朝は、私が迎えに行く。


 見えない先に、心細くとも。


 暗闇に足が竦んでも。


 夜明け前が一番昏い。


 この先に深い夜が待っていても。


 必ず夜を抜けてやる。


 私の夢は、この手で掴むんだ。


 きっと、あの人と幸せになってみせる。

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夜明け前が一番昏い ちょこっと @tyokotto

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