第六話 – グイードの手

案内人グイード ……?」


 突然扉の中から現れた、案内人グイード と名乗る少女の唇が自分の口元から離れた後に私は聞き返す。穏やかな微笑みを浮かべながら私を見つめる目の前の少女は左手の平を私に向ける。身長はさっきまで私のことを笑い続けていた双子の少女よりも少し高いくらい。しかし、見た目の幼さとは正反対に落ち着き払ったその立ち振る舞いは私よりも大人びていて、何度も人生を経験しているように思える。渇きし者サースティと名乗った異形の女やあの双子も含めて彼女らに人間のような生や死といった概念が存在するのか怪しいものだが。


「あなた、グイードの手って知ってる?」


––––グイードの手


 私が小さい頃から憧れていたピアニストのアルバムタイトルに『グイードの手』というものがあった。小学生の頃にそのアルバムは発売され、タイトルの意味が分からなかった私はネットで検索してその概要を調べたことがあった。

 グイードの手とは、中世ヨーロッパにおいて音階順に音名と階名のセットを左手の指先、関節、付け根に当てはめて音節を示すというものだ。


 案内人グイードは右手の人差し指を使ってゆっくりと左手の平の関節をなぞっていく。親指の先から始まって付け根まで下降し、そこから順に小指の付け根まで移動する。そこから小指の先まで動かすと、今度は人差し指の先まで順に指先を動いていく。人差し指の第二関節まで下がって中指、薬指の第二関節を通り、そのまま薬指の第一関節へと向かう。その後に中指の第一関節へ移動し、最後に中指の先まで辿り着くと案内人グイードの右人差し指がようやく停止する。


 私が彼女の中指の先を見つめていると彼女はフッと笑い、再び親指の先に右手の人差し指を移動させて再び同じ動きを繰り返した。彼女は右手で左手をなぞりながら「二十」と呟き、私はその数字を疑問に思いながら彼女の美しい碧眼を見つめる。


「グイードの手は全部で二十箇所に音名を当てはめ、渦巻き状に音階が動く。最後の中指の第一関節から指先に抜ける動きはまるでこの渦から逃がれるかのよう。この渦から抜け出すためにはあなた自身が何か変化を加えなければならない。その変化を加えるのは親指の先に戻った瞬間。それまであなたはこの渦の中を彷徨さまよわなければならない」


––––私は運命に抗おうとなど初めからしていなかったのだ。


 私がこれに気付いたのはいつだっただろうか? 四十一回目。つまり私はこの渦の中を二巡したところで変化を加えることに成功した。私はそこから目玉となり、"私が死ぬ瞬間を見る"という渦に入ったのか。それなら今回の変化は? 私は最早このループを何度繰り返したのか覚えていない。


「八十一回目よ」


 案内人グイードは私の心を読んでいるかのように答えた。


「あなたは死を重ねるごとにあなたと分離した。死を受け入れられないあなたとそれを見つめるあなた。それを可能にしていることこそあなたが特別である所以」


––––レアものよ、お姉さま


 初めて双子と出会った時に言われた言葉を私は思い返した。


「あなたはなぜ死から逃れようとするの?」


 不意に案内人グイードが私に問う。分かりきっていることだ。念願の音楽留学。その直前に暴走したセダン車によって命を落とすなんて納得できるはずがない。納得なんてできるはずがないのだ。


「ケント音楽大学に入学できるところだったのに……。そんな時にこんな仕打ち、酷過ぎるじゃない!」


 死を何度も経験していくうちに希薄になっていった感情が何の前触れもなく私の奥底からふつふつと沸き上がり、私の語気を強くする。


「本当にそうかしら?」


 案内人グイードは幼い子供を落ち着かせるように淡く、優しい声色で話しかける。そのやけに穏やかな口調が私の感情を逆撫でする。私が口を開こうとした瞬間、案内人グイードは人差し指を私の口に当てて顔を押し込む。


「あなたは死によって何かを変えたいんじゃない?」


––––ドンドンドンドン


 地面を這う気味の悪い、黒い糸状の何かにノイズが迸るとゆっくりと1つの木製扉が出現する。


「扉は四度叩かれる」


 案内人グイードはそう告げると眩い光を放った後にスーッと霧散すると私は再び暗黒の空間に一人取り残された。黒いノイズが私を足下から絡めてくる。それは少しずつ上体へと向かい、私の全身に巻きついていく。まるで私を暗闇の一部とするように。


––––いつから?


 そう私は今、再び肉体を手にした。あの少女の言うことが本当ならば、私はまた同じことを二十回繰り返すのか。迫り来るセダン車がフラッシュバックし、私は目を伏せて気が落ちるのを感じる。すると黒いノイズは私の右手を覆ってアノブへと導く。右手がドアノブに触れる瞬間、私は意を決して扉を直視する。

 

 私は一体どこへ行くのか。事故を回避しようと願っても何もできなかった。横断歩道を歩行する直前を願っても叶わなかった。一体どこへ? どこへ行けば良いの? 


 扉が開かれると、闇が私を追い求めて顔を包んでいく。



 私の視線の先には窓枠という名のキャンバスの上で外の景色と共に絵画の一部となる彼。夕陽という橙色の絵の具に横顔を照らされながらスケッチブックに向かって黙々と彼は手を滑らせる。時折、周りの視線を気にしながら。教室の端にいる私の視線には気付かずに。


 頰に何か温かいものが伝う。それと同時に懐かしい言葉が私の脳内を反響する。


––––続けてよ。一緒に


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