カナンの勇者

月山けい

序章

月神世界の勇者さま

 稲穂いなほ踊る黄金の大地。

 雪のように舞う光の綿毛わたげ

 命を運ぶ緑風りょくふう

 せせらぎの道筋みちすじ

 野兎のうさぎ、野ねずみ、リス、そんな小さな動物たちが、そのか弱い体躯に秘めた生命を躍動やくどうさせ、りょく深き野を駆ける。翼を持つ鳥たちが、自由を求めるように両手を広げ、鏑矢かぶらやの如くいななき、羽ばたきと共に空へと発つ。肥沃ひような地が育んだ虫たちが、の葉の陰で静かな歌声を奏でる。

 その空と大地には、そこはまだ真昼のものであるのに、まるで夜空に浮かぶ星の海を切り取ったかのような『ほしはしら』が、地上から天へと昇っている。


 そんな地のとある小道のそば

 少しだけ小高くなっていて、その中央に座している老齢の樹木。深緑しんりょくの枝葉によって避暑の地となっているそこには、透き通るような銀髪をそよ風になびかせる、美しい一人の女性が背を預けるように腰掛けている。

 そしてそんな彼女の周りには、数人の子供たち。


「ねー、聖女様。昨日のお話の続き聞かせて?」

「はやくはやく」


 急かされた女性はされど嫌な顔一つせず、むしろ無邪気な子供たちを慈しむように深く笑むと頷いて、『星の柱』へと目をやる。やがて遠くに見える王都へと、そこにいる、あるいはそこにいた誰かを見やるように、暖かな眼差しを向けた。


 その語り部は、愛を込めて始まりをなぞる。


――――


 かつて世界を救った勇者様がいました。

 その方は私たちの神、月の神セレスに呼ばれ、使命を授かったといいます。

 世界と命を救うという使命です。

 かたは旅のすえ、仲間と共に邪悪な者を討ち倒し、見事みごと使命を果たして見せました。

 しかし、世界に歓喜が満ちたというのに、彼の方に栄華えいがは訪れませんでした。

 その勝利には代償があったからです。


 平和と引き換えたのは、愛する者の命。


 その手は多くを救い、拾い、助けました。

 その手は多くを倒し、はらい、退しりぞけました。

 けれど最後に、その手は愛する者の死で染まることになりました。

 なぜ、どうして、これは何の罰なのか。

 の方は激しい慟哭どうこく悲哀ひあいすえ凱歌がいかたる民衆の声を背に、つきかみの世界を去りました。


 旅の仲間たちは、彼の支えになれなかった不甲斐なさを悔やみました。

 水の都の賢王けんおうは、重責じゅうせきを勇者ただ一人に負わせてしまったことを恥じました。

 そうして悲しい結末でありながらも勇者譚ゆうしゃたんは幕を閉じ、世界は平和になりました。


 それから私たちにとってはほんの少しの、の方にはしばしの時が流れました。


 ここから運命は再び動き始めます。

 かみの世界に帰った勇者様に、転機の時が訪れようとしていました。

 心と力をとざした勇者様は、再び選択を迫られます。


 自分は勇者なのか、それとも只人ただびとなのか。


 ただ世界の不条理に身を任せるのか、それとも己に従って生きるのか。


 救うのか、見捨てるのか。


 絶えず突き付けられる数々の現実は、愛する者を失ったの方にとって、こく以外の何物でもありませんでした。

 の方がこれから歩む道はこれまでと同じくらい辛く、苦しい。悪意が渦巻き、茨がひしめいていることでしょう。その道で、勇者様はきっと傷付くでしょう。世を儚んで再び立ち止まってしまうかもしれません。


 けれど、それでもわたしたちは信じていました。

 彼の方ならきっと進んでくれる、と。

 どんなに辛い道であっても、血を吐くことになろうとも。

 どれだけ涙を流すことになろうとも。


 かつてたくした、「優しい人であれ」という、願いを信じて……。

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