前のエピソード――第04話：ささやかな願い

　午前８時15分。澪（みお）は、自分が自由にできる時間のすべてを一樹につぎ込んだ反動で自宅に戻ることができず、そのままMCC（ミッションコントロールセンター）に行かざる得ない状況に陥っていた。

　自業自得といえなくもなかったが、これも１秒でも長く恋人と一緒にいたいという気持ちの表れであり、仕方がないことでもあった。しかし、あいにく地球の時間の流れというものは一定で、澪（みお）にひと時の余裕を与えるため、都合よくゆっくり時を刻んでくれるものではなかった。

　澪（みお）が慌てて軌道エレベーターの最下階にあるMCC（ミッションコントロールセンター）の更衣室に入ると、そこにはセミロングで栗色の髪を持つ、黒い瞳の柔和な顔つきの女性が、ロッカーに備えつけられた鏡の前で前髪を整えていた。

「おはよう、柚希（ゆずき）」

　澪（みお）は、同僚であり、親友でもある如月（きさらぎ）柚希（ゆずき）にそう声をかけると、柚希（ゆずき）も反射的に「おはよう」と澪（みお）に声をかける。

「澪（みお）がこんな時間に来るなんて珍しい、なにかトラブルでもあったの？」

　柚希（ゆずき）は、心配そうな口調で澪（みお）にそう話しかけるも、澪（みお）の姿を一目見るなり、すぐに安堵（あんど）の表情を浮かべる。

「そっか、ちゃんと一樹さんが地球から離れる前に会ってきたんだ」

　柚希（ゆずき）が思わずそう呟（つぶや）くと、それを聞いた澪（みお）の顔色が急変する。

「ちょっと、なんで柚希（ゆずき）がそれを知っているのよ」

　澪（みお）はそう言うと、恥ずかしさのあまり顔を真っ赤にして、柚希（ゆずき）に詰め寄った。しかし澪（みお）以上に驚いた表情を見せたのは柚希（ゆずき）であった。

「いや、だって、そんな気合の入った服で出社してくれば、誰だって気がつくって、私は悪くない、悪くない」

　柚希（ゆずき）は、澪（みお）の取り乱した態度に虚を突かれると、「まぁまぁ」と言いながら手を肩に置き、澪（みお）を落ち着かせようと躍起になっていた。しかし澪（みお）の顔から紅色が薄れる気配はない。

「そうそう、澪（みお）、仕事が終わったら家（うち）にこない？一樹さんの宇宙への出航祝いということで」

　たまらず柚希（ゆずき）がそう言って話をそらすと、澪（みお）はは（・）っ（・）と（・）我に返る。なぜなら澪（みお）は、柚希（ゆずき）のこの誘いが、しばらく地球で１人で過ごさなくてはならない澪（みお）を気遣ったものであることに気がついたからだ。

　澪（みお）は、この柚希（ゆずき）の優しさに触れ、自分の心がじんわり温かくなっていくのを感じていたが、一方、気がかりなこともあるにはあった。

「ありがたい話ではあるんだけれど、でも、柚希（ゆずき）のところ、新婚でしょ？　悪いわよ」

　澪（みお）はすまなさそうにそう告げたものの、柚希（ゆずき）は気にする素振（そぶ）りを全く見せない。

「なに言ってるの？　澪（みお）。新婚といっても、２人でいるだけだし、なにかと寂しいものなの。澪（みお）だったらいつでも大歓迎よ！」

　澪（みお）の心配をよそに柚希（ゆずき）はそう笑って答えたものの、澪（みお）は、柚希（ゆずき）が、夫の柊（しゅう）をどれだけ愛しているかを知っていたし、柚希（ゆずき）が２人きりで過ごす新婚生活をどれだけ大切にしているかも知っていた。だからこそ澪（みお）は、気軽に柚希（ゆずき）の善意に甘えていいのか判断がつかなかったのだ。

「でも、柊（しゅう）さん、嫌な顔しない？」

　そう言って澪（みお）は柚希（ゆずき）に最後の確認をする。しかし柚希（ゆずき）はあっけからんとしたもので、笑顔でこう答えてみせる。

「なに言ってんの、澪（みお）。あれだけ４人で一緒に遊んでおいて、いまさら遠慮することないじゃない。じゃ、これで決まりでいい？」

　そう明るく言う柚希（ゆずき）の言葉に、澪（みお）は黙って頷（うなず）いてみせた。

　更衣室の外から巡回用ドローンの規則的な羽音とヤブヒバリの不規則な鳴き声が聞こえてくる。柚希（ゆずき）はロッカーに備え付けられた鏡をみながらリップを唇に押しつけている。そして澪（みお）は、時間がないことも忘れ、自分のロッカーの扉の内側に貼られている一樹のフォトムービーをじっと見つめていた。

　どれくらいの時間が流れたのであろうか？　いや刹那の沈黙であったのであろうか？　その沈黙の時間は、職場に出る準備を整えた柚希（ゆずき）の軽い言葉によって中断される。

「一樹さん、いよいよ出発だね」

　柚希（ゆずき）のその言葉に澪（みお）は小さく頷（うなず）いた。

「澪（みお）、本当にこれでよかったの？」

「よかったに決まってるじゃない。一樹の夢が叶（かな）うんだから」

　澪（みお）は、そう言って満面の笑みを浮かべてみせたが、柚希（ゆずき）はそ（・）の（・）笑顔の片隅に寂しさが隠されていることを見逃しはしなかった。

「そうね、亜光速宇宙船に乗って宇宙に行くことは一樹さんの夢だったものね。そして澪（みお）は、その夢を叶（かな）えるために一生懸命だったものね。亜光速エンジン、マイクロラティスの改良による大幅な軽量化と剛性向上、そして、一樹さんの心のケア。このすべてがあったからこそ、一樹さんは今日という日を迎える事ができた。素晴らしいことじゃない。澪（みお）は胸を張っていいだけのことをした、私はそう思ってるよ」