第5話 マジュラと契約
(ああ。これは嫌な感覚だ。すごく、嫌な感覚だ……)
俺は前にもどこかで味わったような気持ちの悪い感覚に襲われて意識を覚醒させていった。
いつの間に打ちつけたのだろうか。後頭部から響く鈍痛を手で摩りながら体を起こす。短く刈り上げられた後頭部を探るが、コブはできていないようだ。
そうして瞼をぱちぱちと何度も瞬きする。視界が定まらず、一度ぐっと目を瞑ってから再度開く。それでもぼやけていて、何度も目を擦った。
そして、やがて薄闇だった空間に光と景色が徐々に見えてきた。
「は?」
鮮明さを増していく視界に俺は変な声を出した。
締め切られたカーテン。
仕事の資料とノートパソコンを置いたデスク。
意味もなく付けっぱなしのテレビ。
しまっただけで全く読んでいない漫画が並ぶ背の高い本棚。
そして、振り向いたところには無造作に開け放たれた小さな箪笥とクローゼットの扉。どちらも同様に中がめちゃくちゃにばら撒かれていた。
「なんで……」
俺の部屋?
フローリングに寝転がっていた俺は困惑しながら立ち上がる。デスクの上にある照明のリモコンを取り、常夜灯から明るさを切り替えた。照明器がピッと音を鳴らして明るくなったところで俺はいつも座っていた木製の椅子に腰掛けた。
「なんて夢見てたんだよ。心臓がまだバクバクいってる……。なんだこれ。変な夢見過ぎだろ」
短く刈り上げられた頭をまた触った。初めは気が付かなかったが、自分の髪の長さにやけに違和感を覚える。
声だって、そうだ。夢から覚めただけだというのに、この久しぶりに聴いたような懐かしい感じ。どうしたんだ、俺は?
顔を手で拭って、自分を見下ろすとその格好にため息が自然と出た。
「スーツ着たまま床で寝てたのか?なんでまたこんな。……昨日、俺飲み会でもいってたっけか……昨日……ちがう、な……。そう、今は?……っていや待て!そうだよ!!今何時だ!?」
締め切られたカーテンから溢れでる光は十分に明るかった。
完全に日が昇ってる!
俺は焦ってスマホを探した。だが、見当たらない。
「なんで、こんな時に!?」
スマホどころか仕事のカバンすら見つからなかった。
このままじゃ不味い!遅刻だ!
そんな焦りに襲われていた矢先、テレビが付いていることをようやく思い出す。テレビ画面に時計が映し出されているはずだ。俺はそこを見ようとそちらへ向いた。
その時。
ーーーガチャン。
リビングとキッチンを繋ぐ部屋の扉からノブを回して開く音がした。体がびくりと驚いて反応し、反射的にそちらへと振り返った。
「起きた?」
「っ!?あ、ああ、いでっ」
振り向き様にいきなり声を掛けられた俺は驚き過ぎて椅子から盛大に転げ落ちた。
「あの、大丈夫ですか?」
それは幼い声だった。それにとても馴染みのあるような声音だった。
その声の主は無様に転がった俺の方へと歩いてくると手を差し伸べてきた。そして、屈み込むその姿を見て俺は一瞬、息が詰まった。
「な……………、なんで、お前が」
青空色の長い髪をした、同じ色の瞳を持つ小さな少女がそこにいた。その姿は見覚えがあるなんてレベルではなくーーーだって、それはまるでーーー。
「もお、何してるんですか、おじさん。早くしてください!」
いつまでも驚いたまま差し出した手を掴まない俺に、その少女は更に屈んで無理矢理俺の腕を掴むと引っ張り起こそうとする。
「そこは、お前じゃ、なくて、“私”じゃないんですか」
「どうなってんだよ……俺は、夢から覚めたんじゃないのか……」
俺は非力な少女の腕を優しく取り払うと自分で起き上がった。しかし、俺は上体を起こしただけで立ちあがろうとしなかった。頭が、この状況を全く飲み込めていない。整理ができない。なんだ、この状況は?
「君は、その……俺の部屋で何を?」
そんなことしか聞けなかった。
対応力の無さに自分でも落ち込むレベルだ。
青髪の少女はそんな俺を見下ろしながら腕を組んで、仕方のない人だなぁとこちらを困った顔を作った。
「転生者は皆さん、大概は察しの良い人ばかりなのでこうした説明をすることも殆どないんですが、仕方ありません」
少女はえーと、と考え始めると内容が決まったのか、俺の目を見て言ってきた。
「あなたの分かりやすい単語に置き換えて説明しますとですね。私は【マジュラ】というシステムの自立型プログラムです。この姿は元の体の少女が死ぬ前に登録されたデータの写しです。あなたは今、自分が元の世界で夢から覚めたと思っているのでしょうが、それは違います。ここはあなたの記憶で構築された空間です。あなたの目の前にいる私はデータでしかありません。いつまでもこんなところに長居していないで、お早く自分の意識を覚醒させることをお薦めします」
「マジュラ?なにそれ?ごめん。全然分かんない。ここが夢なのか?どっからどう見たって俺の部屋だろ」
「【マジュラ】とは登録した人間の……はぁ。そんなに信じられないのでしたら、カーテンを開けてみてはいかがでしょうか?」
幼い声音でそんなことを言われ、俺はムキになって立ち上がると窓際に行ってカーテンを開け放った。
「ーーーーーぇ」
そこには白い空間だけが広がっていた。不純物の一切ない、距離感の概念さえ全く意味を成さない純白の空間。窓を開けて確認しようとしたが、鍵はおろか窓すら開くことはなかった。
「何だこれ……。これは現実か?」
「信じてもらえましたか?あとこれは現実とは違うと思います。うーんと……、こういうことに近い意味の単語は…………あっ!そうです!仮想世界!」
我ながら良い言葉を選び抜いたと言わんばかりの発言に、俺は少女を訝しむように見た。
「仮想世界って、俺はいつからこんなゲームをやってたんだよ。【マジュラ】だか何だか知らないけど、なんでもいいからログアウトの方法を教えてくれ。あと、俺の服をその姿で着るのやめてくれない?」
「どうしてですか?似合いませんか?こんな良い材質の着物、着ないと勿体無いです」
少女は自分の姿をくるくると回りながら見渡してそんなことを言ってくる。
「何でも何も、サイズも合ってなければ女性用じゃない。そもそも俺の服だ。箪笥とクローゼットをちゃんと片付けておいてくれ」
「そうは言われましても。あなたの記憶から生み出したものは、既に私のものです。この体も、この記憶も、あなたのことも全て私の管理下にあります。それを自由に扱うのは私の勝手です」
ふんっ!と鼻息を吐いて少女は言い切ってきた。俺はそこに反論しようと口を開くが、先に少女が声を発した。
「あと。まだ勘違いされているようですからあなたの為に明確に言いますと、このままではあなたーーー」
ーーー死にますよ。
少女は俺を見上げてはっきりとそう言った。
「下手にそんな昔の姿をするからですよ。あなたは今の私の姿に転生したんじゃありませんか。ここを出たら地球にある自分の部屋に戻れるなんて考えてはいませんよね?あなたが戻るのはあそこですよ」
少女はテレビ画面を指差した。
そこには一人称視点から見下ろされた眼下の光景が映っていた。
「この光景が何だか分からないとは言わせませんよ?」
「モンスターに捕まった俺ーーーいや、私か」
「その通りです。ようやく思考が現実に繋がってきたようですね。さあ、早く覚醒してあのモンスターを倒しちゃってください。あなたが死ぬと、今度こそ私も死んでしまいますから」
テレビ画面に映った光景を見ながら少女の言葉を聞き、俺はようやく自分が見ていたのが夢ではなく、ついさっきまでの出来事であることを思い出した。
気が付けば画面に反射して映る自分の姿がいつの間にかキリアになっていた。そして、その姿で俺は床にへたり込んでしまう。
「何をしているんですか?」
「無理です。戻っても……私には、どうにもできません」
画面に映るモンスターは木の根と石ころの塊で体を形作っており、その根が私の本体の手足に絡みついた。自分の非力さはよく分かっている。あの体勢から逃げるのは無理だ。焦って魔法なんて構築することもできないだろう。
「私が足掻いている内にモンスターの核が体を食い尽くしていくに決まってる。知ってますか?魔物は魔法で【アンチウェア】という無敵の膜を破壊しないと本体に攻撃が当たらないんです。しかも、本体に傷を付けるためにも魔法を使わないといけないんです」
「つまりは、魔法が使えない自分には倒せないと」
私は詠唱も拙いばかりか、魔法を発現させる場所を任意に決めることができない。手を前に翳して魔法を構築する空間を定めないと現象を発現させ、具現化することもできないのだ。
……こんな時、師匠がいれば。
「そうだ、師匠が何処にいるか知らないんですか?!」
私は自分と同じ姿をした【マジュラ】に聞いた。しかし、彼女は首を振ってきた。
「知りませんよ。残念ながら近づいてくる気配も感じません」
「そんな……」
終わった。
私は、自分に未来がないことを理解した。次に、二度目の死とはどのような感覚なのかと頭の隅で考え始め、心の中に暗い絶望感が湧き上がってきた。
まさか、旅の初日に終わりを迎えるなんて。
「本当に仕方のない人ですね」
一人、絶望に打ちひしがれていると【マジュラ】が肩を叩いてきた。
「本当は、私は見る専門なんです。【マジュラ】というシステムは本来、本体に向かってこんなこと言いません。ですから、一度だけです。よく聞いてください」
私はその言葉に顔を上げた。
「私と契約をしましょう」
自分と同じ顔の少女は笑顔を張り付けてそう言ってきた。
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