桜貝のような、さくらの花びらのような。

明鏡止水

第1話

 希死念慮。

 男はそれに囚われていた。

 まだ若い。

 青年だ。大きな手のひらに美しい長い指を持つ。

 それだけで人目を引く、ピアノを嗜む者だった。

 ある想いを胸に、最後の頼みでこの井戸に来た。 

 深夜よりも少し前。後方には古い家屋。少し離れた場所に乗ってきた車。

 男は立派な古民家よりも、石を積み上げられて作られた、つめたそうな井戸へと向かう。ここじゃなければもう、どこにも存在しない。

あの土蔵は、この中だと信じてやまない。

季節は三月。近くに植えてある木の近くにそれはある。

木は桜だった。青年に木の種類は分からない。

ただ、井戸の近くに、数多の花弁が舞い落ちた痕跡を見て、ものの哀れというやつと退廃美を思う。男は花びらを優しい気持ちで踏み、


ばり。ぱり、ぱり、ばり。

背筋が凍った。最初から寒かった手が、肩から震え出す。足元のそれは。

人間の整った美しい、数多の爪。


 男は叫んで走り出す。車の方へ。


キーを開け、自分の革靴を見、まだ爪が付いている。悲鳴を上げながらジタバタと足踏みを踏み、爪を落とせるだけ落として車に乗り込む。

ブレーキを踏み、エンジンをプッシュボタンを押してかける。


エンジンはかからない。


何度もボタンを押しブレーキを押し込む余地のないくらい強く踏んで。気づく、踏み荒らされ、その身を半透明に痛めた、桜の、花びら達に。


 爪ではなくなっている。


 だん、っと。車体が誰かに手のひらでたたかれる。誰かだ。きっと誰かだ。だんっ、と。だん、と。だん、と。四方から。

 耳は良い方だが、音の主たちを確かめたくない自分がいる。


もう一度、エンジンを、ゆっくり、かけた。

かからない。花びらが革靴に張り付きながら、悲哀と遺憾を訴えてくるようだった。


なぜ死にたいの?


それは妙齢の。

うるわしい、うつくしい。

女の肖像となって、青年の脳に暗闇の中、こぶしを握りながら訴えてくる。


 見なきゃいけないのか。

 顔を、上げる。フロントガラスには、何もない。サイドの右側に、影を感じた。見たら、帰れるのか。ゆっくりと見た。

 手だった。指を突っ張って、ガラスを突く。男の手だ。まだあった。まだ、まだ、増える。これは、増える。女の手。子供の手。そのどれもがじぶんに手だけでうったえてくる。上から下へ滑り落ちる手。こちらを掴みたくて仕方のないせわしい手。なんとかガラスを掴もうと開いたり閉じたりする手。まだ、まだ、まだ。もう、わかった。


ぜんいん、爪がなかった。


あるところもあるし、ないところもある。


指が短いところもあれば、人差し指以外、小指以外、ないものも。


生きます。生きていきます。だから、だから、どうか、夢の続きを教えてください。


用意しておいた、別れの呪文のように唱えた。


はじめに涙が、続いて大量の洟水、桜の木はどれほどの水分と土があれば永らえるのだろう。


自然な動作で右足でブレーキを踏み、ボタンを押し、ライトはオートで、エンジンはかかり。


光が目の前に差す。


全ては消えていて、生きていく覚悟と、革靴についた傷んだ花弁が存在を残留させていた。

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