サークル・クラフトマン

栗亀夏月

引退農家が未知との遭遇

「勇さん!朝ごはんですよ」

妻の弥生の呼ぶ声がする。まだ日が昇ったばかりじゃないか。

勇は年老いた体を無理やり起こす。

同時に襲う立ちくらみと倦怠感。現役の時はこんなこと無かった。

目だって霞んでいる。節々が痛い。

寝室から食卓まで歩く間にどれだけ体力を使っただろうか。

「弥生。俺はもう農家を引退したんだ。こんなに早く起こされても困るよ」

勇は優しい口調で弥生に言った。彼女は最近少しボケている時がある。

元々不思議な女性ではあったが、これも歳のせいだうか。

「あら。勇さんが働いてた頃の癖で早く起きてしまうと思ったのに、今日は遅かったのね」

勇はかすれる声で「ああ」と返事をすると、暖かいお茶を飲んだ。

時計は5時15分だ。確かに、農業をしていた頃は4時半に起きて5時半には仕事をしていた。

父の残した広い農場は一人では管理できず、数人の従業員を雇って米から野菜まで多くを出荷していた。

しかし、半年前に体力の限界を感じて引退したのだ。

勇には子供がいない。甥が農業系の大学を卒業し従業員として働いていたので彼に跡を継いでもらった。

月島家の人間がこの農園を引き継いだのだから天国の父も喜ぶだろう。

しかし、勇はやりがいと言うものを完全に失ってしまっていた。

「今日は田んぼを見てくるよ」

「あら。外は暑くなりそうですよ。お家にいた方がいいんじゃない」

「いや。家は暇だ。何かしてないと朽ちた木になっちまう」

勇は農業一筋40数年。趣味などなかった。

田んぼや畑の様子を確認したり、友人の農家と話したりする方が楽しい。

農家は基本的に年中無休だ。春、夏、秋はもちろん。冬は農協の仕事を手伝ったり、その他諸々の雑務に追われる。

休日などないに等しかった。


「勇さん。この花ってなんて名前だったかしら」


不意に頭の中で女性の声が響いた。

弥生の声だ。

勇と弥生は終戦間近にこの村で出会った。

勇が17歳。弥生は15歳だった。

弥生は集団疎開でこの村に来ていた。しかし、なんとなく周囲から浮いていた。

理由はすぐに分かった。

信じられないほどの世間知らずなのだ。

鳥も花も虫も名前を知らない。きっと恐ろしく裕福な家で育ったのだろう。

髪のツヤはよく、話す言葉も一昔前の華族のようだった。

弥生と同じ地域から疎開してきた子供たちは弥生を避けており、弥生は地元で農業を手伝っていた勇に話しかけて来た。

道端で突然腕を掴まれ「この花ってなんて名前だったかしら」と尋ねられた。

その時初めて彼女の瞳を見つめた。

吸い込まれそうな大きな瞳に一瞬心を奪われた。

「知らねぇ。花の事なら母ちゃんに聞いてくれ」

勇は素っ気なく答えると、芽生えた恋心を隠すように走った。きっと裕福な家の子。決して自分などが恋に落ちてはいけない。

勇は若く、燃え上がる心を何とか抑えた。


終戦の知らせを聞いた時いまいちピンと来なかった。

この村では出兵者はほとんど無く。戦争という大きな波を感じにくかった。

疎開してきた連中が段々帰る中、弥生だけが残っていた。

もしかしたら、身寄りがないのかもしれない。はたまた帰りたくないのか。勇には分からなかった。

彼女は地元の有力者の家に女中として雇って貰うと。毎日のように勇におむすびを届けてくれた。

勇は家で用意したものがあったし、都会育ちのお嬢様と親しくしてるのを村の人に見られるのは好きではなかった。

初めこそおむすびを断ったが、彼女の瞳を見つめると断れなくなった。

40年以上前の事で記憶は曖昧だが、弥生が地元の有力者を連れて家に来た時には驚いた。

なんと、その時点で勇と弥生のお見合いが行われることが決まっていたらしい。

こうして、何かに操られるように2人は結ばれた。

勇の心残りは子供が出来なかった事だが、自分と弥生どちらかに問題があったのだろう。

キッパリと諦めることにした。

その代わり夫婦仲はよかった。

弥生は贅沢は言わないし、いつも美味しい飯を作ってくれた。

そんな些細な幸せの積み重ねで2人はこれまで生きてきたのだ。


「勇さん。この花ってなんて名前だったかしら。ねえ!」

頭の中で響いていたと思った声は弥生が勇に向かって言っていた。

新聞の折り込みチラシを指さしている。

「それか、下に小さく書いてあるじゃないか。サンビタリアだそうだ」

「そう。綺麗ね」

「俺には菊にしか見えないけどな」

そういうと、弥生はふらっと廊下に消えてしまった。

「目も悪くなっちまったか。俺が言えた事じゃないが」

勇は独り言を言って、白米を頬張った。


田んぼを見て、近くの農家と話して家に帰ったら昼前だった。

外の暑さもこれまでは余裕だったが最近はジリジリと辛い。

「昼ご飯は冷やし中華ですよ」

弥生が呼びかけてくる。

適当に答えると、テレビをつけてみた。

午前中のこの時間はつまらない番組ばかりだ。

報道番組も今日は話題がないのだろうか、イギリスの「ミステリーサークル」について討論していた。

ある麦畑で発見されたことを皮切りに現在200以上が発見されているという。

宇宙人だか、プラズマだかよく分からないが、あの程度のサークルなら勇でも描けると何となく思った。


突然チャイムがなった。

「勇さん。私手が離せないから出てくれる」

弥生に言われ、少し痛む膝をかばいながら玄関に向かった。

「どちら様ですか」

扉を開けると、夏だと言うのに黒の長袖長ズボンでサングラスをかけた男性が立っていた。

「お届け物です」

男はそうつぶやくと真っ黒な封筒を渡してきた。その封筒は少し重たく感じた。

「黒が好きなんだな。ご苦労さん」

勇の皮肉には全く動じず黒ずくめの男は黒い車で消えてしまった。

勇は封筒をよく見てみた。

すると赤い文字で「UO」と書かれている。

その下には何やら英語が書かれているが、勇には読めなかった。

中を見ると手紙の他に紙幣が見えた。少し嫌な予感がしたが、勇は手紙だけを手に取った。


手紙の内容はこのようなものだった。

月島勇様。

貴方はUO(unknown organization)により選出されました。

UOは17世紀から秘密裏に活動している機関です。

昨今、世界を賑わしているミステリーサークルの制作に関与しております。

貴方にはそのミステリーサークルの制作を依頼したいと思います。

場所は日本国内なら何処でも構いません。

裏面に形と寸法を記載しています。それに忠実にお願い致します。

規則として協力者以外に知られてはいけません。もしUOの存在やミステリーサークル制作について世間に知られるようなことがあれば、責任は貴方自身に負って頂きます。

報酬ですが、前金として50万円封筒に同封されています。

また、銀行口座の番号を、完成したミステリーサークル周辺に残しておいて頂ければ後日50万円追加でお支払い致します。

素晴らしい仕事を期待しております。

UO


「あんのーん、おーがないぜいしょん。よく分からん」

勇は手紙の裏面を見る。

そこには円を組み合わせて作られた複雑な図形と、m単位で細かい指示が書かれている。

また、UOの言った通り50万円が同封されていた。

老後の暇つぶしにはなるだろう。月島は引き受けることにした。

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