三人のオタク
栗亀夏月
アイドルを推すという事
山口智夫が俗にアイドルオタクになった経緯は少し特殊だった。
元々民放テレビ局のアシスタントディレクターをしていた山口は、上司のパワハラに耐えかね。40歳にして辞職したのだ。
テレビ業界、広く言えば芸能界はとても楽しかった。
有名俳優の噂や、芸人の過去エピソード、政治や企業についての情報も聞くことができた。
中でも山口が一番腹の膨れる話題があった。
それは、不倫浮気ネタ。さらに、アイドルの恋愛事情についてだった。
それらの噂を耳にして数年以内に、不倫、浮気は世間に知られ、その芸能人は謝罪会見を開いた。
アイドルに関しても突然のグループ卒業や、脱退について知ると。おそらくあの俳優との事が週刊誌に知れたのだろうと予想できた。
つまり、山口にとってこの世界は非現実的で刺激的だったのだ。
話は辞職後になるが、友人のつてでフリーライターとして仕事を貰えることになった。
旅行関係、ブライダル関係、都市伝説関係などジャンルは問わない。
とにかく、どんな仕事も受け付けた。そして、得意の情報網を駆使してかなり深い内容を書いた記事はそこそこ人気だった。
ある時、なんちゃら46やなんちゃら坂に迫る勢いのあるアイドルグループについて取材をしている時、山口はオタクへの1歩目を踏み出した。
山口は多くの中年と同じで、女性アイドルの顔の見分けがつかなかった。
よくテレビで見かける。よく企業の広告に使われている。その程度の認知度であり、名前はもちろんどんな曲を歌って踊っているのかなど興味はなかった。
しかし、取材でそんな訳にはいかない。
「レモンジュース」という名前のアイドルグループは、デビューから4年。
レベルの高い歌唱と、メンバーの個性の強さで人気を博し、先月日本武道館公演を成功させた。
また、代表曲「初恋ジュース」はSNSで人気となり今は山口のような中年でも1度は聞いたことのある程だった。
当初、取材はメンバーとの対談。ファンとの対談をまとめた物にしようと考えてた。
しかし、先に行われたファン数人との対談の時に、ファンクラブ入会を勧められ。勢いでライブのチケットを買ってしまった。
山口はアイドルに多額の金を使う心理にいまいち共感出来ずにいた。
金を払ってもそれは直接アイドルに届くのではなく、会社員や音楽会社の利益になる事をよく知っていたからだ。
だが、そうでは無いと気づかされた。
ライブは金を払って行く価値があり、リアルがあり、素晴らしかった。
CDもそうだ。サブスクの時代にも関わらず、手に持った時の重量感。付属の歌詞カード。メンバーのトレカ。全てがリアルであった。
数日後のメンバーとの対談の時。山口は1ファンとして取材をした。
メンバーそれぞれに、歴史があり、夢があり、努力があった。
その日のうちに書き上げた記事は、1発OKをもらい。発行されると、「レモンジュース」のメンバーの表紙も相まって非常にいい売れ行きだと聞いた。
普段ならここで仕事は終了だ。
しかし、ファンクラブに入会し。推しを見つけてしまった山口は強かった。
「レモンジュース」のエースである梅本萌香(うめもと もか)。通称モカピの握手会やライブに参戦し続けた。
こうして、山口は立派にオタクとなったのだ。人生を変える程の出会いではないが、価値観をひっくり返された衝撃に今も心が踊っている。
森田竜太はそろそろアラサーと呼ばれてしまう歳となってしまった。
男ばかりの会社では出会いもない。
たまに大学時代の友人が開催する合コンで自分のコミュニケーション力の低さに愕然とする日々だった。
そんな友人の中には、家庭を持ち。マイホームを建て、幸せそうなやつもいる。
テレビやネットには可愛い人、美しい人が溢れている。
しかし、それは手に届かない場所にいる人物だと思っていた。
そんな森田にも、日々の疲れを癒してくれるものはあった。
帰宅してからテレビで見るバライティ番組だ。森田は小学生の頃からテレビが好きで、家に帰ればテレビをつける事が習慣だった。
今や、テレビよりサブスク。リアルタイムではなく録画や民放公式の見逃し配信アプリで観るという人が多いだろう。
しかし、大画面でCMを挟みながら、倍速にしないで観るリアルが好きだった。
その日偶然つけた番組では、最近流行りのアイドルがクイズに答えたり、スイースを食べたり。時には無茶ぶりに答えていた。
そのメンバーの中で何故か森田の目に止まった人物がいた。
説明は難しいが、初恋のあの子に雰囲気が似ているのだ。
髪型はちょっと違うとか。身長はもっと低かったとか。今会ったらどんな話をするのだろうと考えているうちに、森田はそのアイドルグループを調べていた。
グループ名は「レモンジュース」美味しそうな響きだ。
森田の目に止まったメンバーは河咲結乃(かわさき ゆうの)と言うらしい。
それ以来、なんとなく河咲の事が気になった。YouTubeでMVを観たり、彼女が出ている雑誌を買ったりしていた。
これが、アイドルを推すという事なのだろうか。
独り身の森田には時間と金が人より少し多くあった。
近所のホールで行われるライブに出向くことを決めたのは、テレビで河咲を見かけて1週間後のことだった。
魔法にかけられたように、充実した日々を過ごし、初めてのアイドルのライブに足を踏み入れた。
緊張する森田に席が隣の中年の男性が優しく話かけてくれた。
男性は山口といい。彼も最近ファンになったという。
森田は山口の推しは梅本だと知り。河咲と梅本のエピソードトークで盛り上がった。
その後、コールやペンライトの振り方の指導を受けて、2時間程のステージを楽しみ尽くした。
座席は後方だったが、手に届かない存在と同じで空間にいること。そして、時々目が合うような気がすること、それだけで楽しかった。
森田は山口と連絡先を交換し、「また語り合いましょう」と言って別れた。
森田はこんなふうに交友関係が広がることに驚きを隠せなかったが、こんなに素敵な生活スタイルに気づけなかった自分を恨んだ。
オタク生活最高ではないか!
森田はスキップしたい気持ちを抑えて、狭いアパートの一室である自宅を目指した。
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