『ニャン』ルーム・マンション
国見 紀行
男の視点
ピロロロロ、ピロロロロ……
スマホが鳴る。この着信音は上司だ。
薄目を開けて窓を見る。外はうっすら明るくなって夜明けが間近であることを示す。だがまだ起きる時間ではない。なぜなら今日は休みだからだ。こんな時に電話に出ても休日出勤を任されるだけ。俺は無視を決め込んで再び腕の中に顔を埋める。
ピッ。
「もしもし」
『
「今日は休みですよね」
『会社に来てくれ。急ぎの仕事なんだよ』
「俺の担当の仕事に急ぎのものはなかったはずですが」
『会社の仕事は社員全体で取り組むべきだと思わんのか?』
「思いません。失礼します」
ピロン。
電話が切れる。
やっぱり相手は上司だった。
……誰が対応した?
声は俺だったが、俺はまだ寝てる。
暖かい布団の上で、丸くなって……
「あぁーー…… 飯でも食うか」
俺はそう言ってベッドから立ち上がると、冷蔵庫を素通りしてキッチンの上に備え付けられた戸棚を開け、中からスティックパウチに入った猫用のおやつを取り出す。
「んー」
しかし俺はパウチをうまく開封することができず、四苦八苦している。そして何を思ったのか歯で開けようと咥えて引っ張り出した。
案の定、開いたものの頭は後方へ吹っ飛び壁にぶつける。狭いキッチンでそんなことしれてばそうなるというのに。
打った箇所を擦りながら、俺は何を思ったか手についたおやつを舐め始めた。
「うん? こんな味だっけ」
ふわり。
魚の、シーチキンのいい香りがあたりに漂う。
俺はたまらず立ち上がり、俺のところへ向かうため立ち上がろうとした。
しかし、疲れからか上半身が思うように動かない。しかしあの香りに抗えない。
俺は一旦立ち上がるのを諦めて俺の元へ向かう。ベッドを上半身から飛び降り、四つん這いでトタトタと向かう。その香りの元凶を俺にもよこせ。
「ああ、そうか。はいよ」
俺はおやつを俺に差し出す。
これだ!
うまい!
一心不乱に俺はおやつを舐める。
香りと味は、それらがなくなるまで俺の感覚を占領した。腹が減ってたのかもしれない、とびきりのごちそうだったのかもしれない。あるいは、
それ以外の感覚を感じるための機能的余裕が削がれたかのように。
よぎった恐ろしい予感を、しかしおやつの美味しさに一瞬で上書きされ、俺は一気に食べきった。
満腹ではないが、大いに満たされた。
そうなるとまた眠くなる。まったく今日はどこまで本能に忠実なのか。
俺は踵を返してベッドへ戻る。さすがに四つん這いのまま近づくとその高さはそこそこあるが、足に力を入れて一気に飛び乗る。モフッとした毛布に受け止められて眠気を誘う。
俺は寝やすい位置に座るとまた俺の観察を始めた。おやつのあった戸棚を漁って五穀フレークを見つけたようで、しかしそれを箱から直に食い始めた。いや硬いだろう?
ゴリゴリという怖い音を立てながら何度か繰り返すと、冷蔵庫から今日が消費期限の牛乳をラッパ飲みし始めた。いや、一人暮らしだからいいんだがせめてコップに注げよ。
飲み方が悪かったのか少し服についたのに気づき、俺はベッド近くにある姿見のある場所に移動した。
「あーあ、着替えるか」
姿見にはベッドと、そこに寝ている俺が映って……
ん?
俺がいない?
いや、俺はいるんだよ。
そもそも俺がいるのに俺もいるからおかしいんだけど。
俺は半分寝ている体を叩き起こしてベッドから降りる。
すると、ベッドにいた猫のダッシュ(これが名前)が姿見に近づいてくる。
俺が取ってる行動と同じように。
(俺が、ダッシュになってる!?)
一瞬で理解したが、なぜこうなっているか理解できない。
背筋が凍る。
姿見のダッシュも大きく目を見開いてこっちを見る。
お前じゃない、俺がびっくりしてるんだよ。
まるで入れ替わったような……?
そこで、あることを思い出した。
昨日の仕事の帰りだ。
担当してた企画が一段落ついたから久しぶりにバーに呑みにいった。
お気に入りの窓際の席を取られていたのでカウンターで酒を注文したら、これまた珍しく声をかけられた。
「猫を飼ってるんですか?」
見た感じ、スーツ姿で恰幅のいい四十代後半の男性だ。
「どうしてわかるんですか?」
「ははは。匂いですね。パウチのおやつの匂いがする」
ああ、と俺は納得した。
「うちも猫ちゃんのグッズを販売してるんですけどね、売れなくって」
どうやらペットのグッズメーカーらしく、そこから色々と話を聞いた。
やれおもちゃは既存の物しか売れないやら、食べ物は逆にどんどん定番が売れなくなるやら、普段は三十分もいないバーに二時間以上居座った。
「長々と愚痴まで聞いて頂いて。よかったら、これ試してみてください」
と、帰り際にペットボトルに入った水を渡された。
「猫ちゃんと飲めるシェアウォーターなんです。私はまたここにいるんで、感想聞かせてください」
俺はアルコールが入っていたせいか、水分を欲した体に抗えず帰ってすぐ飲んだ。
その水を、確かにダッシュの水飲み皿に注いだ気もするが、まさか体をシェアしたんじゃあないだろうな……
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