第5話 ∥(平行)

「一体、どうなった……?」

 クーゲルシュタインが照準ウィンドウを見て言った。ウィンドウは変わらず、砂嵐のような画面のままである。

「照準地点付近におけるエネルギー量の総和が大きく、正常なモニタリングを再開するのには少々時間がかかります。それからもう一つ、問題が生じており……」

「なんだ」クーゲルシュタインは嫌な予感がしていた。彼が嫌な予感を覚える時、それは大体的中した。

「特派員JP055との連絡が取れません……。電波回線にて応答なし。感情エネルギーは電波に干渉しませんから、おそらくは発生した空間断裂に飲み込まれたものかと……」

「…………やはりか」

「ま、時間はかかるがあの方法しかねえだろうな」

「……ですね。超次元通信を使っての探査に移ります」

 そう言って、ヴィクターとヴィルヘルムはコンソールの下方に備え付けられたダイヤルを回し始めた。

「博士。どうにも腑に落ちないのですが」後方でシラー大統領が口を開いた。「今回空間断裂が生じて、平行世界に重なりが生じ、それによって特派員が、いわゆる平行世界に飛ばされた……であれば、再度重なりを作って断裂を開き、特派員の救出を行えば済む話ではないのですか?」

「ことがそう簡単にいくものか」クーゲルシュタインは大きく息を吐いた。シラーには心なしか、彼が急激に老け込んだように見えた。「感情エネルギーによって生じる空間断裂は、いわば宇宙物理学の課題の一つでもある、ワームホールの入り口であり出口なのだ。ワームホールが実現すると、我々は空間内の任意の二点を移動することができるようになる――つまりだ。今回生じた断裂によって特派員が平行世界に飛ばされてしまったが、同時に、別の並行世界から誰かがこちらに飛ばされてきた可能性もある」

「その……誰かが飛ばされたことに、何か問題が?」

「大有りだ」クーゲルシュタインは疲れ切った顔で政治家を睨んだ。「コペンハーゲン解釈に則れば、世界は観測により複数の世界のうちどれかが確率的に選ばれ、その場合その他の可能性は。逆説的に現状はその世界のあり方を崩す可能性があるのです。例えば先の断裂で、並行世界からあなたがもう一人、飛ばされてきたとしましょう」

 クーゲルシュタインはシラーを指差し、真正面に見据えた。シラーは目を瞬かせてややのけぞった。

「あなたというが同一世界に二つ存在していることで、すでにそれが歪みになっているのです。本来の多様性が一つ失われたことになりますからな……例えば、ジェンガを考えて見ればよろしい。一つ一つのピースはどれも存在として等価値であり、その絶妙なバランスによってジェンガ自体は立っていますな。では例えば、その中の一つが急激に、二倍の重さになったとしましょう。ジェンガは果たして……どうなりますかな?」

「まあ、置き場所がよければそのままでしょうが……崩れるかと」

「ご名答」博士は再びモニターに向き直った。彼の前では、ヴィクターとヴィルヘルムがラジオの音がクリアになる周波数帯を探すように引き続きダイヤルを微調整して、異なる時間空間軸を彷徨っている特派員を探している。

「ではさらに、あなたが『もう一人のあなた』とある場所で偶然出会ったとしましょう。その場には同一の存在がある。世界というジェンガはどうなるか……もう、お分かりですな…そう、崩壊の予兆を示します。ひずみが発生するのですから……。今我々にできることは、どの世界のどの時間のどの人間と、特派員JP055が入れ替わったのかを捜索すること、そしてその入れ替わった人間がくらいですな」

 長い沈黙がモニター室を満たした。低く唸る機械音と、二人の研究員のダイヤルの調節音とキーボードの打鍵音が、やけに大きく聞こえるようであった。

「特派員の位置を確認しました」二十分ののち、ヴィルヘルムが沈黙を破った。おお、と科学者たちから歓声が上がり、クーゲルシュタインが顔を綻ばせた。

「彼はにいる?」

「相対次元座標はx=2.709、y=−15.114、z=−3.23……かなり近い別次元ですね。時間座標はt=−185.055441c光速、地理座標はN=41.889444、E=12.469722……西暦と地図を出します」

 ヴィルヘルムは壁のモニターに世界地図が表示されたウィンドウを呼び出した。特派員がいると思われるのは、イタリア半島の中ほど――ローマ、サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂。そしてウィンドウの左上の隅を見ると、西暦と日付が表示されている――西暦二六五年二月十四日午前十一時二十八分。

「約千八百年前というと……この時代のイタリア半島は、ローマ帝国の真っ只中だな」

「ええ。しかもこの時代は、軍人皇帝のクラウディウス・ゴティクスの治世だったはずです」

 あっ、とヴィクターはクーゲルシュタインとヴィルヘルムの会話を遮って声を上げた。彼はぽんと膝を打って背後のクーゲルシュタインを見上げ、興奮したように話しだした。

「聖ウァレンティヌスですよ。彼は帝国内で禁止されていた兵士たちの結婚式を執り行ったことで、西暦二六九年頃に殉教したとされています。そして、『シュッセ』感情による断裂……こうは考えられないでしょうか」彼はおもむろに立ち上がり、考えをまとめるように歩きだした。「西暦二〇二三年二月十四日十五時〇〇分、日本の西南学院大学チャペル内において局地的な『甘』感情が発生、同時に極度の感情エネルギーの発生によって空間断裂が発生。ここまではいいですね」ヴィクターは自分自身に言い聞かせるようにして、クーゲルシュタインに同意を求めた。老博士は静かに頷き、階上のゲストたちもまた同様に頷いた。

「同時刻、相対次元x=2.709、y=−15.114、z=−3.23の地球、西暦二六五年二月十四日午前十一時二十分、現在のサンタ・マリア・イン・トラステヴェレ聖堂に当たる場所で聖ウァレンティヌスが結婚式を執り行っていた……そこで同じく発生した強烈な『甘』感情のエネルギーにより、空間断裂が発生……そして、これらが共鳴して世界に重なりを作り、感情エネルギーの作用を受けた聖ウァレンティヌスと特派員が互いに空間断裂の間を通り、それぞれ元いた世界と入れ替わった」

「まあ……あり得なくは、ない話だな」ヴィルヘルムがキーボードに両手を置いたまま言った。

「もしそうだったとすると……西南学院大学だっけか、その付近に聖ウァレンティヌス本人がいることになるな。しかしそれはどうやって確認を取る? 下手な動きはできないぞ、何しろ俺たちの活動はほとんど極秘裏に行われていたのだからな……」

 ヴィルヘルムの言葉に、クーゲルシュタインが重々しい顔で頷いている。そうか、とヴィクターは我に帰った。IPAZの表向きの活動は、環境保全を目的とした大気組成の観測である。そのはずが「感情」を物理学的に解析するという、ややもするとオカルトじみた研究が白日の元に曝されればどうなるか、想定される結果はもはや誰もが確信していた。

 大統領が既に訪問しているとはいえ、スイス政府による監査は改めて入るだろう。加えて、警察、EU、国連……ありとあらゆる「お役所」が、調査という名目の「粗探し」に踏み込むだろう。もしも彼らに都合の良い口実が見つかれば、施設の閉鎖は免れない。

「今の私たちにできることは、何もない……ということですね」

「そうだ」クーゲルシュタインはヴィクターの悲観をはじめから理解していたような面持ちであった。「先の世界の重なりによって生じたひずみがいつ、どこで、どのような形で解消されるのか。今の我々にできるのは、その解消を一つのパターンとして記録し、後世につなげることくらいだろう」

 その時だった。菅沼のポケットから携帯電話の呼び出し音が鳴り響いた。AC/DCの「サンダーストラック」のサビのメロディーとブライアン・ジョンソンの甲高いヴォーカルが、モニター室の沈黙を稲妻のように割った。失礼、と席を外す菅沼の背中に向けて、ハントが「いい趣味をしていますな」と皮肉たっぷりで声をかけた。彼はもっぱらジャズ愛好家だったのである。

「待ってください、博士……同地点にて、再度『甘』感情急増の予兆があります。臨界状態となるのはおよそ二時間後。もしかしたら、これを使えるかも……」

「……詳しいデータを出せ。それから、ヴィルヘルム、君は西日本にもう一人特派員がいたはずだろう。彼の居場所を」

 クーゲルシュタインは眉間にしわを寄せ、ギラリと目を光らせた。この瞬間を逃すことはありえない。世界の秩序と安定のために、再度断裂を生じさせ、ひずみを解消させる。

「クーゲルシュタイン博士! 日本にいる知人と話しましてね、どうやら特派員と入れ替わったのは、聖ウァレンティヌスのようです」と、菅沼が携帯電話を片手に部屋に飛び込んできた。「断裂が生じた地点の近くに勤めている警察官なんですがね、ラテン語を話す司祭服の老人を保護したそうなんですよ。彼はちょっとやそっとのことじゃこんな嘘は言いません。一時間前の私なら、なにを馬鹿なことを、と一蹴したでしょうが、今は確信しています。特派員と入れ替わったのは聖ウァレンティヌスです」

「よろしい!」クーゲルシュタインは軍隊に命令を下す将軍のように菅沼を鋭く見据えた。「その友人とやらに連絡をしろ。そいつは古代ローマから時空の波にもまれてやってきた聖ウァレンティヌスだ、とな。そしてさっき断裂が発生した大学のチャペル付近で待機をさせるのだ。二時間以内にすべて完了させるのだ!」

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聖ウァレンティヌスの誤算 有明 榮 @hiroki980911

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