第2話 ⋁(論理和)

 そのころ、研究所の応接室で、IPAZ所属のクーゲルシュタイン物理学博士が、テーブルをはさんでスイス大統領のミハイル・シラー氏をはじめ、パリ=サクレー大学、ミュンヘン工科大学、京都大学、イェール大学という世界各地の大学から集った教授たちと向かい合っていた。彼らのクーゲルシュタインに向けられた視線には、『感情』を物理学的側面から研究する、ともするとオカルト的にも思える施設に対する疑念と期待と好奇心とが入り交じっていた。

「それにしても、お招きいただき感謝いたします。その……二酸化炭素だとかオゾンだとかフロンだとか、地球環境における大気の変化を観測する研究施設と聞いていましたが、内実は感情を扱うとは……なかなか興味深いですな」

 ミハイル・シラーがソファの左端で窮屈そうにあたりを見回しながら言った。彼は大学院で政治学を学んできた身であり、この場に集う者たちの中では唯一、理工系学問を生業としていなかった。

「それにしても、感情という心理学の分野を物理学に絡めるなんて、どんな神の啓示があったのです? まるで石板に十戒を授かったかモーゼか……あるいは木から落ちるリンゴを見たニュートンか」

 両手を膝の上で組みながら言ったのは、ソファの真ん中に座っているイェール大学のハント博士である。その右隣で、ミュンヘン工科大学のシュトロハイム博士が葉巻を加えて、かみしめるようにうなずいて同意を示している。ハントの左隣では、京都大学の菅沼博士が好奇心に目を光らせてながらも、日本との時差から生じる眠気で湧き上がる欠伸を嚙み殺していた。

「いやはや全く、なぜにこのような時間にお呼び立てをなされたのやら……」

「そこに関しては大変申し訳なく思っております。が、我々の扱う対象が対象ですからな、おいそれと白日の下には晒せんのですよ。感情というものは、我々が思っている以上にエネルギーを持っているものです。例えば近代以前では、負の感情を自己暗示によって強め、その相手を呪い殺すという呪術が全世界的に行われていましたね。それからもっとも今日に近い事例で行きますと、ナチズムがそうでしょうな」

 クーゲルシュタインが目でシュトロハイムを向くと、彼は葉巻を右手に持ち、煙を細長く吐き出して静かにうなずいた。シラー大統領もまた深くうなずき、ドイツ語特有のスタッカートのきいた英語で、甲高い声で話し始めた。「確かにあれは、ドイツ国民のヒトラーに対する縋るまでの希望と、彼が扇動して起こさせたユダヤ人に対する疑念と憎悪が、運動の中核となっておりますな」

「さよう。感情のエネルギーは時に、一国の政治体制すら変えてしまうほど強力だ。それは何も負の感情、つまり死と破壊を志向するタナトスだけではない。生と創造を志向するエロス――正の感情でも同じなのです。もっとも分かりやすいのが恋愛と結婚、あるいは友情でしょうな。芸術もまた、芸術という表象エイドスを借りたエロスの姿です」

 クーゲルシュタインは背後の壁に描かれた、カラヴァッジョの《洗礼者聖ヨハネの斬首》のレプリカを指さしながら言った。その絵画をしばし眺めていた菅沼が、小さなあくびを一つして、クーゲルシュタインに向き直った。

「確かに、感情のエネルギーは人生にも、国の体制にも影響するものですね。しかしこれはあくまで有機的な心の動きであり、物理学の見地から研究するのはいささか、難しいところがあるように思われるのですが……。一体どのような手法で?」

「粒子モデルを使うのですよ」よくぞ聞いてくれた、と言わんばかりの満面の笑みで、クーゲルシュタインは両手を広げた。「感情というものは確かに心の動きで、それはとても複雑なものです。しかし感情をするとどうなりますかな? ……さよう、全ては脳神経内を走る微弱な電気信号に分解されるわけです。我々は様々な感情を形成する電気信号の中に、二つの核を見出しました――様々な負の感情の核となる『陰』の信号と、正の感情の核となる『陽』の信号です。ヒトの感情は、最終的に脳内をめぐり終えた電気信号内に含まれる『陰』と『陽』の信号の総量とバランスによって形成されていたのです。そこで、これらの信号に粒子モデルを採用し、世界各地に設置したモニタリングポストから送られてくるデータをもとにこの十数年、観測を行っているのです」

「ということは……我々の抱く感情がこの十年ほど、勝手に観測されていたのか! これはプライバシー侵害に当たるのではないですかね、博士」

「まあまあハント博士、おっしゃることもわかります。が、我々はあくまでヒトの、大衆の感情を数値データとして観察し、その推移が一定範囲内に収まるように行動しているのです。ですから、プライバシーの侵害などには一切あたりませんぞ」

「しかし、そう言われますと、これまでの人生で抱いてきた様々な情念や経験や、ある風景に抱いた感動などというものが、なんだか無機質で物足りないものに思えてきますな」と両肩を大げさに竦めてみせたのは、パリ=サクレー大学のピサロ博士である。

 画家を親戚に持つピサロ博士らしい、とクーゲルシュタインは目を閉じて腕を組み、深々と背もたれに体を預けてしみじみとうなずいたが、それも致し方ないことです、と子供に言い聞かせるように言った。

「我々の目的は、世界における『陰』粒子と『陽』粒子の総量のバランスを一定に保ち、それにより世界の秩序と安定を維持することにあるのです」その言葉とともに開かれたギラリと光っていた。「パスカルは言いました。『感情には理性のあずかり知らぬ理屈がある』とね。我々は感情の理屈を、きちんと知らねばなりません。感情の理屈を知らぬまま、民衆の感情の暴走を許してしまったのが、あの二度の世界大戦であり、ナチズムやファシズムであり、アメリカを疲弊させた長きにわたる『テロとの戦い』なのですから――我々に必要なのは、感情の理屈を知り、それを制御することにあるのです」

「制御する、ですか。聞く人が聞けば心中穏やかじゃあなさそうですね。どうにもあなたは理性をあまりに過信している節があるように思われますが。カントが人間の一般的な認知において必要な、理性と感性を結合する『構想力Eingindungskraft』を唱えていたのをお忘れですか」

「菅沼博士、良いと思ったものを見境なく取り入れる、感性と感情のままに生きる日本人らしいおことばといったところですな。しかし感情の制御はいずれ人類には必須の項目でありますからな……ご臨席の皆さまはきっとご理解のことと思いますが」

「……そうい言われれば確かに、クーゲルシュタイン博士、言わんとすることは分かります」ハントが膝の上で両手を組んだまま、顔を上げた。「今の人類は物事の判断をするにあたり、事実を集めて深く考える前にSNSの過激な主張やメディアの誇大的な一部の文言を鵜呑みにし、それによって生じた極端な感情のみを判断材料としている節があります。それを考えると、感情の統制を図ることは世界平和と人類の進歩に貢献しうるでしょうな。いや先ほどは、声を荒げてしまい申し訳ない。軽率でありました」

 組んだ腕を満足げにゆったりを開いて見せたクーゲルシュタインは、ええ、ええと鷹揚な笑顔を見せた。なおも疑わし気な表情を浮かべている四人を見渡し、「実際にご覧いただければ分かりますよ」と言っておもむろに立ち上がった。彼はドアに向かい、ハントが彼のすぐ後に続いた。そのあとにシュトロハイムとシラーが続いた。菅沼はピサロと少し顔を見合わせたが、やがて彼らに続いて部屋を出た。


     *****


「……しかしなあ。彼の話す言葉や衣服のことを考えると、どうしても古代ローマの人物にしか思えんのだ」

 午後三時四十五分。ウォームグレイのスーツに身を包んだ早良警察署の津田真司つだ しんじ警部は、腕を組んで天井を見上げながら言った。重要参考人として第一発見者とともに召喚された平賀は、大真面目に古代人説を唱える津田を困惑した顔で見下ろした。

「もし、もしですよ警部……彼が本当に古代ローマ時代の人間だったとして、どうやってこの現代日本にやってきたと言うんです? 時間的にも空間的にも距離が大きく離れているじゃあないですか。タイムマシンとかどこでもドアがない限りは無理な話でしょう」

「……平賀は『ワームホール』って聞いたことあるか?」津田は首を回して平賀を見た。

 噂によると津田は九州大学で文学の修士号を取ったあと、東京大学の大学院で物理学の修士号を取ったらしい。いったいどんな風の吹き回しで警察官になどなっているのだろうか。事件の中心にいる老人の話すラテン語を理解し、老人の情報を引き出したのも彼である。

「ワームホール……瞬間移動とか、ワープみたいなものでしたっけ」

「まあ、そんなところだな。空間の任意の二点を結ぶトンネル構造……そうだな、分かりやすく言うと」津田は抽斗を開けてコピー用紙を取り出して曲げると、「A」と点を内、その重なった反対側に点「B」を打った。そこにボールペンを突き立てると、ペンは点Aと点Bを――二枚の紙を貫通した。

「この紙が宇宙空間で、それを貫くボールペンがワームホールだ。こうやって点Aと点Bを普通通りに移動するよりも」と、津田は点Aを指さし、紙に沿って点Bへと動かした。「このボールペンがやってるみたいに、空間を曲げてダイレクトに移動するのが早いわけ。この空間を貫くボールペンにあたるのがワームホールさ」

「そんな、空間を曲げるなんて……そんなエネルギー、どうやって用意するんです? 私は宇宙とか物理学とかに明るいわけじゃあないですが、そんなエネルギーがあれば逆にブラックホールができそうな気がするのですが」

「一般のエネルギーであれば、な」と津田はボールペンを紙から引き抜いた。「もしもそれが負の量を持つエネルギーであれば、ワームホールは存在しうるという考察があるのさ」

「負の量……って、どういうことです?」

「質量がマイナス、とかだな。前提から話すと少し長くなるが……まあいい。E=mc^2という式は知っているな、アインシュタインによる質量とエネルギーの等価性を示すものだ。だがこれは静止座標系における、という限定がつく。アインシュタインが最初に唱えたエネルギーの式は速度を持っている場合の……つまり、運動エネルギーと質量エネルギーの等価性をしめしている。これを式に表すと、こうだ」

 津田は穴の開いたコピー用紙に、ボールペンでさらさらと式を描いた。


    m*c^2

E=――――――

  √{1-(v/c)^2}


「Eがエネルギー量、mが運動する物体の質量、cが真空中の光速、vが物体の質量だ。で、もしも質量mが虚数――マイナスであったなら、どうなるか」津田は平賀の理解が追いつくのを待って、再び口を開いた。mと分母の平方根の値をぐるりと囲み、「マイナス」と近くに書き込んだ。

「エネルギー量Eはかならず実数とならねばならない。では、右辺の値はそれぞれどうなるか? さっきも言ったように、質量mが虚数のときにEが実数になるのは、分母がマイナスの時で、そうなるのはv/cが1より大きい時だ。そしてその時、速度vは

「それはわかりますが……光速より早い物質なんて、ないはずでしょう」

「だな。だが質量がマイナスの物質を仮定したとき、光速を超えて移動が可能だ。そしてそのような物質が実際に存在するとしたら……」

「さっきおっしゃっていた、ワームホールが存在しうる、と。そしてあの古代人は、そうやってできたワームホールを通ってこの福岡の地に降り立った……」

「そういうことだ。が、問題はそんなエネルギーが発生したのか、だな。スイスにあるCERNセルンなんかは扱えるだろうが、スイスと福岡なんて死ぬほど離れているからなあ……」

「宇宙にはいまだ観測できないエネルギーがあふれているらしいじゃないですか。何かしらのエネルギーが働いたんじゃあないですか? とにかく今必要なのは、どうやって彼がここに降り立ったのかよりも、彼の処遇をどうするかですよ」

「……それもそうか。まあ、最終的には警察庁に持って行って、外務省の外交ルートを通じてヴァチカンへの移送になるだろうな。ラテン語をいまだに使っているところなんてあそこくらいだろうさ。平賀、お前の仕事はここで終わりだ。ご苦労だった」

 津田はボールペンを机の上に放り出し、両手を頭の後ろで組んで、どこか投げやりに言った。平賀は、津田が自分を話題に巻き込んだくせに、急に事件の話題から興味を失ったと見えて若干の不満を覚えたが、短く敬礼をして署を後にした。

 こんな話、真に受けてくれるのはアイツくらいのものだろうな、と津田は大学院時代の友人に話してみることにした。正解とまではなくとも、何かしらの糸口をくれるだろう。彼は電話帳の中から、「菅沼」と書かれたページを呼び出した。

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