聖ウァレンティヌスの誤算
有明 榮
第1話 ≔(定義)
自ら「皇帝」を名乗る軍人が短期間に次々と現れ、国内の安定が徐々に崩れつつあった、三世紀の古代ローマ帝国。その首都であるローマは、帝国の不安定な政治とは裏腹に、巧みな建築工学により張り巡らされた水道と街道によって人とモノが盛んに行き来する、繁栄を謳歌し喧騒に包まれた世界最大の都市であった。
その街を少し外れた郊外の丘の上にある小さな納屋には、町の喧騒からひっそりと隠れるように、幾人かの人々が集まっていた――兵士、商人の娘、その二人の友人たち、そして豊かなひげを蓄えた司祭。司祭は聖書を片手に、威厳たっぷりに立っている。
「汝、ヘクトールはこの女クレマリアを妻とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで、愛を誓い――妻を想い、妻のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか」
「はい、神の名のもとに」ヘクトールと呼ばれた若い兵士が答えた。
「汝、クレマリアはこの男ヘクトールを夫とし……」神父は顔をわずかにクレマリアに向け、神前の誓いを同じく問いかける。だがクレマリアの顔は、ヘクトールほど明るくはない。
彼女が物心ついたときにはすでに暗黙の了解となっていた、兵士の結婚の禁。兵士の士気を保つために皇帝クラウディウス二世が定めたものであり、禁令に背いたことが明らかになればもちろん処罰される。もしも、夫となるヘクトールの結婚が明らかになったなら……あるいは、この司祭が二人の結婚式を執り行ったことが明らかになったなら……。
「大丈夫さ、クレマリア」隣に立つヘクトールが小声で言う。クレマリアが目線だけで見ると、彼も同じく目線だけで妻を見ていた。「たとえ何が二人に迫ろうとも……たとえそれが皇帝による処罰であったとしても、俺たちの間に結ばれる愛は、きっと世界が滅びてもなお残り続ける」
「ヘクトール……あなたは、皇帝の禁令も、それに背くことで受ける罰も怖くないの?」
「そりゃあ、怖いさ。だけどそんなルールに縛られて、君との間に感じるこの気持ちを反故にするほうがもっと怖い。だから……だから俺は、こうしてこの場にいる」
クレマリアは改めて前を向いた。司祭が聖書を片手に、ゆったりとうなずいた。彼女は小さく息を吸い込み、堰を切るように口を開いた。
*****
西暦二〇二三年二月一四日、日本世間のバレンタインデー・ムードは絶頂の極みにあった。
今年はバレンタインデー当日が火曜日と比較的週の始めにあったことから、先週末はデパートの地下に設けられたチョコレート特集エリアに人が殺到していたのだが、そこで人々の手元に金インゴットばりの厳重な
しかしこのような世間における喧騒と糖分の充満にはおよそ無関係の人間だって存在する。たとえば、福岡市早良区の早良警察署西新交番に勤める
今年二八になる彼の人生において、バレンタインデーは微笑ましい思い出よりも、やや憂鬱な思い出の方が多かった。
「由佳」といういかにも女性のような名前のせいで、昔からバレンタインデーが近づくと周囲の男子たちが囃し立てるのである。平賀はそれを揶揄いだと十分理解したうえで、その度に「うるせえ、そんなに言うならくれてやんねえぞ」と言い返して笑っていた。が、こんな揶揄いを受ける名前を付けた両親を恨みがましく思うこともあった。
流石に働きだしてからは、周囲は理解のある者達がほとんどだったので、そのような揶揄いを受けることもなくなった。昨晩の交替の時に、平賀より三年先輩の竹内が「ほい。バレンタインな」といってポッキーの箱を渡してきたくらいだ。ちなみに平賀はポッキーよりもトッポ派だった。
そんなポッキーを咥えて休憩を取っていた午後三時頃、交番の電話がなった。こんな日でも一一〇番通報は生じるものだ。
「はい、西新交番です」平賀は慣れた手つきで受話器を取り、些か早口で名乗った。通報の内容を耳にした時、平賀は自身が疲労のあまり夢でも見ているのではないかと疑った。
西南学院大学チャペル内で保護されたのは、純白の長衣の上に黒色の袈裟を身にまとった異国の老人であった。第一発見者の大学生のカップルに向けて彼が発した言葉は、事件記録に明確に記されている。
「……
*****
数時間前に遡る。
スイス某所にある
「ヴィルヘルム、これを見てくださいよ。こんな大気組成の変化はあまりにも異常です。しかも、『感情エネルギー』のほうですよ。どうしてそんな素知らぬ顔をしてるんですか。すぐにでも対処しないと……」
「なーに、ヴィック。問題ない。これはいつものことだし、変化は時間が経てば自浄作用的に修正される」
「そんな、いつものことって……ちょっとやそっとじゃ感情を動かさないことで有名な日本人がここまで感情を一挙に動かすなんて、何があったんですか? まさかまた、政治家が命を落としでもしたんですか?」
「まあ、そんなこともあったなあ。だがグラフを見てみろ。今回の感情の揺れは『陰』のものじゃあない。『陽』の方だ」
ヴィルヘルムはグラフ画面をタンブラーで指した。見ると、『陰』感情を表す青色の数値は通常通りの高さを推移しているが、『陽』感情の数値が現地時間の午前中から急激に高くなり、正午を回った現在も以前高い値を記録している。
「すると何ですか、今日は日本でなにか良い出来事でもあったんですか? ワールドカップはこの間終わったでしょうに」
「なあ、今日は何月何日だ?」突拍子もなくヴィルヘルムが言う。
「そりゃ、二月十四日ですね。そんでもって時刻は午前四時分を回ったところだ。そろそろエナジードリンクを注入しておきたい頃合いですが、向こうは正午を回った段階ですね」
「そう、今日は二月十四日。日本じゃ『バレンタインデー』で大騒ぎなわけさ」
「バレンタインデー、ですか? 日本にカトリック教徒はそんなに多くないでしょう」
「多くはないな。だが、あの国じゃ聖ウァレンティヌスの恩恵にみんながあやかってるのさ」
「そりゃまた……よくわかりませんね」ポケットから眼鏡吹きを取り出し、微細なヒビの入ったレンズを吹きながらヴィクターは首を横に振った。
「あの国の宗教的な寛容さをなめちゃああかんぜ。昔中国にモンゴル帝国ってのがあっただろう? あの国がユーラシア大陸に東西八千キロの大帝国を築き上げた要因の一つに、宗教への不干渉がある。あの国はもともとシャーマニズムが根付いていた上にキリスト教やら仏教やらヒンドゥー教やらイスラム教やら、そういうのが入り込む機会がまあ少なかったわけだ。遊牧民族だし、官僚制の大国家が形成される要素が少なかったわけだな。
そういうわけで、チンギス・ハーンに始まるあの帝国は、征服した先の宗教やら文化やらは現地の人たちに任せていたのさ。郷に入っては郷に従えとはよくいうが、その逆を行ったんだな。それもあって、被支配者層の宗教上の不満が募りにくかった――と良く言われているのよ。速い話が、どの宗教にも優劣なんてものはなく、平等に扱われていたのさね」
「それと同じようなことが、日本でも起きていると?」
「起きているというか、ヤツらむかしからそういう
「それは……何と言いますか、元来のバレンタインデーとか、聖ウァレンティヌスに対する冒涜にすら思えて仕方ありません」
「まったく、ヴィック、お前は随分と過激な原理主義者じゃあねえか。起きている事象を事実として受け止めるのは、研究者の務めだぜ」
「それとこれとは別でしょう。これは風習とか信仰に関する、個人的感情の問題です」
「頭のかてぇやつだなあ……。ま、いつか、日本に行ってみろよ。愉快な国だぜ」
やれやれ、とヴィルヘルムは肩を竦めた。ヴィクターはコーヒーカップを傾けるヴィルヘルムを見ながらいかにも腑に落ちないといった顔をしていたが、やがてモニターに向き直った。感情エネルギーの変化の幅が閾値を超える予兆が見られたため、人為的な修正を行う必要が出たのである。
彼は日本の特派員JP028を呼び出した。
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