託されたもの

「荷物はこれで全部ですか?」

 ビジネスホテルの前の駐車場に車を止め、菜緒子のスーツケースを後部座席から下ろす。

 菜緒子は、はい、と頷いた。

「ありがとうございます」と、荷物を受け取ろうとする菜緒子を制し、「お部屋まで運びますよ」と、糸原は笑みを浮かべた。

「何から何まですみません。……本当に、糸原さんがいなかったら、私……今頃途方に暮れて路頭に迷っていました」

 菜緒子は眉を八の字にして、頭を下げた。

「こちらこそ、菜緒子さんが来てくださって、大変心強い限りです。やはり、家のことは、身内でなければ勝手が分かりませんから」

 その言葉に菜緒子の表情がようやく緩む。

 菜緒子の性格を考えれば、周りに迷惑をかけていて申し訳ないという気持ちが強かったのだろう。

「お役に立てたのであれば、光栄です」と嬉しそうに笑った。

 糸原は小さく頷き、「中に入りましょうか」と、ホテルに足を向けた。

 促され、改めてホテルを見直した菜緒子が、「随分立派なホテル……」と感心する。

 そうですね、と糸原も頷いた。

 去年、元々あった建物を改装して作られたこのホテルは、白と茶色のモダンな外壁が特徴的で、古い街並みの中にあっても、際立つことなく周りに溶け込んでいる。

 その洒落た外観もさることながら、ビジネスホテルにしては珍しい天然温泉の大浴場と、朝食バイキングの豊富さで、地元でもかなり人気の高いホテルだ。

 いつもなら、宿泊当日の予約はほぼ望めないのだが、お盆休みが過ぎたということもあって、若干の閑散期に入っていたらしい。運良く一週間の予約を取ることができた。

「菜緒子さんは、温泉は好きですか?」

「温泉?」

 菜緒子は首を傾げ、「ええ、好きですけど……」と不思議そうに答えた。

「実はこのホテル、天然温泉の大浴場がついてるんですよ」

「ええーっ、そうなんですか?」

 菜緒子は驚いて目を見開いた。それから、「それは嬉しいです」と呟く。久しぶりに、いつもの菜緒子らしい明るい表情が顔を覆った。

「長旅で疲れているでしょうから、せめてホテルでは寛げるようにと思いまして。あと、ここ、病院から近くて、便利なんです」

 今日は車で送って来たが、病院へは徒歩圏内で、明日の葬儀場にも近い。

「本当にお気遣い、ありがとうございます」

 菜緒子は再び深々と頭を下げた。

 いえいえ、と糸原は手を振り、それから「行きましょうか」と、菜緒子と二人ホテルの中へと歩を進めた。

 ロビーには他の客の姿はなかった。ガランとして、寂しげな佇まいだ。

 手持ち無沙汰そうにしていたベルボーイがこちらに気付き、近寄ってくる。

「ご宿泊でしょうか?」との問いに頷くと、彼は荷物を受け取り、フロントへと案内した。

糸原は、菜緒子の代わりに宿泊手続きを済ませ、ルームキーを受け取った。

「お部屋までご案内します」とベルボーイが申し出るのを断り、菜緒子と二人、エレベーターへと乗り込んだ。

 ガラス張りのエレベーターからは、街灯の灯り始めた街並みが臨めた。

 それがカゴが上昇すると共に足元に広がるミニチュア世界となり、代わって、この街のシンボルである石掛山がひょっこりと姿を覗かせる。

 夕陽が山の端にかかり、燃えるような夕焼けの中、それはくっきりとした稜線を見せていた。

「素敵……」

 その景色に見惚れて、菜緒子が誰に言うともなく言葉を漏らした。どこか寂しげで、郷愁をも感じているように見えた。

 糸原も菜緒子に合わせ、無言でガラス越しの景色を眺める。じっくりと石掛山を見るのは久しぶりだった。

 そこにあるのが当たり前で、特段それを気にかけて過ごすことはない。しかし、ふとした拍子に、その存在に気付かされる。

 石掛山も、部長も――

 ポーンと、物思いから呼び戻すように、目的の階への到着を告げる電子音がなった。

 エレベーターを降りて、右に曲がると、割とすぐの所に菜緒子の部屋はあった。

 糸原はカードタイプのルームキーをパネルに翳し、ドアを開ける。

 途端に菜緒子が、「可愛らしいお部屋」と嬉しそうに歓声を上げた。

 部屋の中を覗き込んだ糸原も、確かに、と頷いた。

 部屋はシングルながら、割と余裕のある作りで、白を基調としたアンティーク調の家具で統一されている。

 部屋の隅には小さいながらも猫足の丸テーブルと椅子が備わっていた。テーブルの上には、シックな色合いのバラとコスモスを使った初秋を感じさせる小さなアレンジメントが置かれていた。

 糸原が見ても、思わず可愛いと言ってしまいそうになる部屋構えだ。

 菜緒子はまず、窓を覆うレースのカーテンを開けた。途端に、先ほどまでエレベーターから眺めていた石掛山が窓の全面に姿を現す。

「素敵っ。まるで絵画でも飾っているみたい」

 確かに、窓枠が額縁のような装飾になっていて、窓から臨める景色が絵画のように見える。

 菜緒子は嬉しそうに部屋のあちこちを眺めて回った。

「荷物、ここに置きますね」

 糸原は、バゲージラックにスーツケースを乗せ、菜緒子に声を掛けた。それで、彼女は我に返ったようだ。

「すみません、私ったら……」

「いいんですよ。お気に召して頂けたようで何よりです」

「ええ、とっても気に入りました」

 菜緒子は無邪気に微笑んだ。

「それでは、明日は九時くらいに迎えにきますね」

 そう言って、部屋を退出しようとしたところを菜緒子が呼び止めた。

「あ、待ってください。

……糸原さんにお渡ししないといけないものがあるのです」

「私にですか?」と、糸原は首を傾げた。

 ええ、と菜緒子は頷く。それから、スーツケースを開け、おもむろにA4サイズの茶封筒を取り出した。

 糸原は茶封筒を受け取り、裏表を確認する。

「これは?」

 封筒は、糊で封がされていて、宛名も差出人も書かれていない。

「つい先日、和之さんから預かったものです」

「部長から預かった?」

 糸原は眉をひそめた。

「ええ。お盆で帰省してきた時に、『僕に何かあったら、糸原くんに渡してくれ』って」

「何かあったら……」

 まるで何かあることを予見していたようだ。

「縁起でもないし、糸原さんになら、和之さんが直接渡すといいじゃない、と言ったのですが……。どうしても、って頼まれて。仕方なく預かったのです」

 糸原は手の中の封筒を無言で眺めた。

今すぐ中身を確認したいが、菜緒子の前では辞めておいた方がいいだろう。それに、糸原の自宅に送らなかったことを考慮すれば、由佳にも見せ無い方がいい代物なのだろう。

 一体、何が入っているのだろう?

 重さや形からして、何かの書類のようではあるが。

「糸原さん?」

「あ、すみません。ちょっとボーっとしてしまって。……菜緒子さんは、封筒の中身は確認されましたか?」

 いいえ、と菜緒子は首を横に振った。

「糸原さんに、と言われましたから……。糊で封もしてありましたし、他の人には見られたくないものなのかな、と思いまして」

「そうですか」

 部長は、菜緒子のそういう誠実な性格を信用して、これを託したのだろう。

「分かりました。わざわざ、持ってきて頂き、ありがとうございます」

 糸原は、菜緒子のその誠実さに頭を下げた。

「いいえ。何かあったら、ということが現実に起こってしまって……。──本当に、残念です」

 菜緒子は心底悔しそうだ。

 本当にその通りだ、と糸原も思う。いつもの部長のタチの悪い冗談だったら──

 だが、現実として部長は亡くなってしまった。

「──ここ、レストランも中々評判なんです」

「えっ?」

 糸原が唐突に話題を変えたので、菜緒子は困惑気味に彼を見た。

「お腹が空いてると、あまりいい考えは浮かんで来ませんよ」

 すっかりしんみりしてしまった菜緒子を励ますよう、わざと明るい口調を作る。

「今日は明日に備えて、たくさん美味しいものを食べて、温泉に浸かって、ゆっくり休んでください」

 ニコリと微笑んで見せる。菜緒子もつられて表情が明るくなる。

「ありがとうございます。そうさせて頂きます」

 深々と頭を下げる。顔を上げた菜緒子の目の端には、涙が滲んでいた。

「本当に、糸原さんがいてくれて助かりました」

 手の甲で、目の端を拭い、菜緒子は精一杯、微笑んだ。



 ホテルから病院へ戻り、霊安室の様子を窺ってみる。既に弔問客の姿はなく、辺りはひっそりと鎮まり返っていた。

 霊安室のドアの前では、警護の警察官が一人、椅子でうたた寝をしていた。起こすのも可哀想に思い、糸原は静かに小児病棟へと向かった。

 反対に、小児病棟は子供たちの声で賑やかさに溢れていた。午後も七時を過ぎると、子供たちが就寝前の準備を始め出すからだ。洗面室の前には歯磨きの順番を待つ列ができていて、楽しそうにお喋りしたり、小突き合いの喧嘩をしたりしている。

「こら、喧嘩はダメだぞ」

 糸原が声を掛けると、子供たちは一斉に糸原に向かって話し出す。

「あ、いとはらせんせー」

「喧嘩じゃないよっ」

「先生、今日当直なの?」

 糸原はそれに歩きながら答え、ナースステーションへ向かう。

 ナースステーションを覗くと、当直の看護師が数名いた。しかし、肝心のニノ方の姿は見えない。

「ニノ方、知らないか?」

 近くにいた若い男の看護師を捕まえて尋ねる。彼は、さぁ、と首を傾げた。

「ニノ方先生なら、六〇一号室にいるって言ってましたよ」

 年配の女性の看護師が答える。看護師長だ。

「六〇一号室……。何かあったのか?」

 瑞樹の容態に、何か変化があったのかと、心配になる。

 いいえ、と看護師長は首を横に振った。

「ただ、そこに居るから、何かあったらよろしくと……」

──またあいつは……

糸原は呆れて溜息を吐いた。

「すまないが、俺も六〇一号室で、休憩している。何かあったら、呼んでくれ」と、糸原はナースステーションを後にした。

 六〇一号室の前まで来ると、何やら楽しそうな声が漏れ聞こえてきた。

──主にニノ方の声だが……

 それでも、時折交じって聞こえる明るい由佳の声に安堵する。

 コンコンッ、と糸原はドアをノックした。

 すぐに、「はーい」と、由佳の声が返ってくる。それから、パタパタとスリッパで歩く音が聞こえ、ゆっくりとドアが開いた。

「あ、晴人さん」

 由佳は嬉しそうに微笑む。

 糸原もつられて、「ただいま」と、笑顔を作った。

「瑞樹くんは変わりない?」

 ええ、と頷いて、由佳は身体を少しずらし、病室の中のベッドに目を向けた。

「まだ目を覚ましてないわ」

「そうか」

 同じように病室の中を覗くと、ニノ方と目が合った。

「糸原さんっ。……菜緒子さんは、もう送ってこられたんですか?」

 のんびりソファーに腰掛けていたニノ方が、バツが悪そうに尋ねた。

 ああ、と糸原は無愛想に返事をし、病室の中に足を踏み入れる。

「菜緒子さん、ホテルは気に入ってくれたみたい?」

 椅子を勧めながら、由佳が尋ねた。糸原は由佳に座るように促し、自らは、ソファーにいるニノ方の隣に腰を下ろした。ニノ方は窮屈そうにキュッと身を縮こませた。

「ああ、とても喜んでいたよ」

 糸原の答えに、由佳は「良かった」と微笑んだ。

「特に、『天然温泉の大浴場付き』ってところがすごく嬉しかったみたいだね」

「そうよね。やっぱり、女子は温泉が好きだから」

「ほんと、そうだな」と糸原は笑った。

「ホテルの部屋もさ、内装が凝ってて、すごく可愛いいんだ。あと、菜緒子さんの部屋からは石掛山も見えたなぁ。きっと由佳も気に入るんじゃない?」

「うん、本当ね。話を聞いていたら、私も泊まってみたくなった」

「今度、……そうだな、結婚記念日にでも泊まろうか」

「本当? 嬉しいっ」

 糸原の提案に、由佳の顔が一気に華やぐ。

 頬を赤く染めて喜ぶ由佳に見惚れていると、ニノ方の視線に気付いた。

 ──すっかり存在を失念していた。

「どうした?」

 コホン、と軽く咳払いをしてニノ方に尋ねる。

「糸原さんって、由佳さんと話す時は、そんな感じなんですね」

 ニノ方は揶揄うような視線を糸原に向けた。

「そんな感じ?」

「ニコニコ、デレデレしちゃって。いつもの不機嫌な糸原さんはどこへやら」

「そうなの?」と、ニノ方の言葉に、由佳は糸原を見返した。

「晴人さん、病院では不機嫌なの?」

「そんなことは……」

「そうなんです。眉間に皺なんか寄せちゃって、『ニノ方』って、いっつも怒ってくるんですよ」

 否定する糸原の言葉を遮って、ニノ方は眉間に皺を寄せて不機嫌そうな表情で答える。糸原の顔真似のつもりなのだろう。

「病院では、じゃなくて、お前に対して不機嫌なんだ」

 糸原は呆れて冷たく言い放つ。

「糸原さん、ひどい……」

 ニノ方は傷ついたと言わんばかりの顔で、拗ねたように糸原を見上げた。

 そんな二人の遣り取りを見て、由佳はクスクスと笑い声を上げる。

 その声に、ハッとして、糸原は由佳を見つめた。そういえば、由佳は、いつも以上によく笑うな、と思ったのだ。

 身内同然の笹本が亡くなったのだ。

普通なら、悲しみにくれて、とても笑顔なんて見せられないと思うのだが……。

 しかし、由佳はそれとは真逆で、泣き崩れたり、塞ぎ込んだりしない。いつも通り、いや、いつも以上に、穏やかで笑顔でいる。

 ──それが由佳の弔い方なのかもしれない。

 死者に心配をかけないよう、死者の心残りにならないよう、明るく見送る。

 本当に、強い人だな、と糸原は感心する。

「あ、そうだ」と、糸原はソファーの前のローテーブルにビニール袋の包みを乗せた。

「なんですか、これ」

 ニノ方が首を傾げた。

「そこの定食屋でテイクアウトしてきた」

「どおりで、いい匂いがするなぁと思いました」

 鼻をひくつかせ、ニノ方が言う。

「お前も食べるか?」

「えっ、いいんですか?」

 糸原の問いに、ニノ方の目がキラキラと輝いた。本当に分かり易い男だ。

「今日は色々と世話になったからな。お礼代わりだ」

「ありがとうございます。お言葉に甘えて、ご馳走に与ります」

 さっきまでの不満は何処へやら、丁重に申し出を受け、ニノ方はニカッと笑う。

 糸原がビニール袋から弁当を取り出すと、「あ、鳥谷の唐揚げ弁当じゃないですか」と、嬉しそうに声を弾ませた。

「ああ。ちょうど前を通りかかったから」

「部長、ここの唐揚げ弁当、好きでしたよね」

 懐かしそうに言う。

「そうだな。『鳥谷以外の唐揚げ弁当は唐揚げ弁当じゃない』って言ってたな」

「そうなの?」

「そうなんですよ。でも、他のお弁当屋さんの唐揚げ弁当を食べても、『美味しい、美味しいって』言ってて」

「そうそう。結局、なんでも良いんだよ、部長は」

「笹本さんらしい」と、由佳は小さく微笑んだ。

 病室内は静けさを取り戻し、それぞれがそれぞれに部長の思い出に耽る。

「……本当に、部長は楽しい方でしたね」

 しんみりとニノ方が呟いた。

「ああ。それに、いいお手本だった」

 糸原も相槌を打つ。

「私ね、晴人さんやニノ方さんみたいに、笹本さんのお仕事の様子は分からないけれど……」

 うんうん、と話を聞いていた由佳が口を開いた。

「……今日一日病院にいて、色んな人に接してみて、笹本さんは本当に慕われていたんだなぁって、すごく感じたの」

 由佳は晴れやかな表情を浮かべた。

「──だから、なんか、すごく嬉しい」

「嬉しいって……。なんで由佳が?」

「だって、笹本さんは私のお兄さんみたいなものですから」

 誇らしげな顔で答えた由佳に、糸原は頭を抱えた。

「晴人さん?どうしたの?具合でも悪いの?」

 心配顔で尋ねる由佳に、糸原は苦笑を返す。

「まさか、逆バージョンを聞くとは……」

「逆バージョン?」

「いつも部長が言っていたんですよ。由佳さんは、自分の妹だからって」

 ニノ方が笑いを堪えて、フォローする。

「そうなの?」

 由佳は一瞬キョトンとし、それから「嬉しい」と呟いた。

 それは心から敬愛していた笹本もまた、自分を同じ様に思っていてくれたことへの喜びだなのだろう。

 糸原の胸の内も温かいもので満たされる。

「……うーん」

 不意に、ベッドから瑞樹の呻き声が聞こえた。皆、一斉にベッドへと目を向ける。

「瑞樹くん、大丈夫?」

 そう呼びかけて、由佳は瑞樹の顔を覗き込んだ。瑞樹は寝ぼけた様子で、ボンヤリと天井を眺めている。

「ごめんね。うるさかったよね」という由佳の声に、瑞樹はうっすらと反応を示した。

「──……っ…….」

 何か言葉を発する。あまりにも小さな声で、糸原には聞き取れなかったが。

「なに?」

 由佳が顔を近づけ、聞き返した。

「…………た」

 またしても小さな声で瑞樹が言う。しかし、今度はきちんと瑞樹の言葉を理解した由佳が、穏やかな笑みを浮かべた。

「瑞樹くん、なんだって?」

「お腹空いたって」

「お腹……」

 唖然として、一瞬押し黙る。が、直ぐに安堵からくる笑いが漏れた。

「そうだよな。お昼から何も食べてなかったもんなぁ」

 瑞樹が恥ずかしそうに、小さく頷くのが見えた。

「分かった。流石に唐揚げ弁当は無理だけど、レトルトのお粥も買ってきたから、準備するよ」

 そう言って、糸原は当直室に向かった。

 当直室に着くと、まず、ソファーにリュックを下ろした。

 それから、レトルトのお粥を備え付けの茶碗に移し、電子レンジにかける。

 その待ち時間に、菜緒子から預かった茶封筒をリュックから取り出した。

封筒を部屋の灯りに翳してみたが、一回り小さな長方形が見えるだけで、詳細は分からない。

 やはり何かの書類のようではあるが──

 糸原は思い切って封筒を開けてみることにした。

 デスクの上のペン立てからペーパーナイフを取り、封を切る。

 少し古ぼけた紙ファイルが見えた。

水色の紙ファイルとピンクの紙ファイルの二冊だ。表紙には何も書かれていない。

 糸原は封筒に入っていた順番通り、上に重なっていた水色の紙ファイルをめくった。

 ノートのコピーと思われる表紙が現れた。研究室などでよく使われるラボノートの表紙のようだ。何度も読み返しているのだろう。シワや擦れた痕があった。

 タイトルは少し滲んで見え難くなっているが、『ウィルス』という単語が辛うじて読み取れた。

 ページをめくると、インデックスページが現れる。タイトルを見る限り、やはり何かの研究記録であるらしい。

 更にページをめくっていくと、研究の詳細を記したページが現れる。ざっと軽く目を通して、糸原は愕然とした。

 サイン欄のところに、見知った名前を見つけたからだ。

 ──対馬武彦。

 由佳の父である。

 ピー、ピーと、レンジの終了を告げる音が、遥か遠くに聞こえた。

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