今宵の月は

 ――誰かの泣いている声がする。

 お下げ髪の、幼稚園くらいの女の子。

 あれは確か……ゆうちゃんだ。

 幼い頃、母の入院先で知り合った子だ。

 母方の祖母の家に預けられることになって、お別れを言ったから泣き出したんだった。

「ゆうも一緒に行く」って効かなかった。

 あんまり泣くから「大きくなったら迎えに行くよ」ってプロポーズめいたことを言ったら、笑顔になって泣き止んだ。

 ――だけど、今日は泣き止まない。

 俺が約束を守らなかったから怒っているのかもしれない。

 その泣き声はだんだんと大きくなって。まるで電子音のように変化していく――


 そこで糸原晴人はハッと目を見開いた。

 隣室のリビングでスマートフォンの着信音が鳴っていた。

 どうやらあの音が夢の中の泣き声と混ざったらしい。きっと長い時間鳴っていたのだろう。

 糸原はまんぜんとした意識の中、早く電話に出なければと焦る。

 しかし、寝ぼけたままの身体は思うように動かない。

 もぞもぞと布団の中で踠いているうちに「糸原です」と聞き慣れた声が電話に応じた。妻の由佳の声だった。

 ――どうして……

 糸原の意識は急激に現実へと引き戻される。その勢いのまま、ベッドから上半身を引き剥がした。

  どうして隣で寝ていたはずの由佳がリビングに?

 彼女が寝ていた右隣を見ると、カーテンの隙間から差す細い光が誰もいない空間を照らしていた。

 糸原は両手で顔面を拭った。ヘッドボードの置き時計には『AM2:18』と表示されている。

 ──勘弁してくれ……

 小さく溜息をつく。それから引き継ぎの看護師の言葉を思い出した。

 確か六〇三号室の直哉くんが少し調子が悪いと言っていたな……

 もしかしたら容態が悪化したのかもしれない。

 そう思って聞き耳を立てるが、隣室にいる由佳の声はくぐもっていて、内容までは聞き取れない。着信音は自分のものだったから、自身のスマートフォンへの着信だったのは間違いない。

 身体を九十度ひねり、床に足を着く。立ち上がろうと腰を浮かせたとき、リビングへと繋がるドアがゆっくりと開いた。

「……あ、晴人さん、起きていたの?」

 ベッドから起き上っている糸原に気づき、由佳が尋ねる。

「今、起きた」

 糸原はベッドに腰を下ろし直し、答えた。

「着信音が聞こえたから」

「そう」

 それならよかった、と由佳がつぶやく。

「由佳は?」

「え?」

「ベッドにいなかったから。調子悪い?」

 由佳が寝ていた側の布団からは人の体温らしきものは感じられなかった。つまり電話が鳴るよりも前に起きていたのだろう。

「そういうわけじゃないの。ちょっと……」

 由佳は曖昧に言葉を濁すと、そういえば、と思い出したようにスマートフォンを差し出した。

「ニノ方さんから急ぎの電話だったの。後にする?」

「……ニノ方?」

 その名前に眉を顰めた。

 今日の当直はニノ方だったはずだ。やはり患者の容態が悪化したのかもしれない。

「いや、出るよ。ありがとう」

 糸原の答えに、由佳はスマートフォンを手渡す。それから、へッドボードの明かりを点け、「リビングに居るから」と寝室を出ていった。

 その後ろ姿を見送り、糸原は電話の保留を解除した。

「……すまない、待たせな」

「あ、糸原さんっ。こちらこそ、夜分遅くに申し訳ありません」

 電話の向こうのニノ方からは丁寧な口調ながらも焦りが感じられた。

「だれか容態が急変したのか?」

 だからそう思って尋ねる。

「あの、そうではないのですが……」

 戸惑いながら、ニノ方は続けた。

「はっきりしたことはまだ分からないのですが……あの、笹本部長が……」

「笹本部長?」

 笹本部長とは、糸原が勤める西城中央病院の小児科の部長だ。糸原とニノ方の直属の上司でもある。

 しかし、今日は公休だったし、当直でもない。その笹本の名前が出てくることに糸原は違和感を覚えた。

「あの、本当に、まだきちんとした情報ではないのですが……」とニノ方は続けた。

「部長の自宅から、警察に通報があったそうです」

「通報?」

「ええ……で、そのあと、救急車の出動要請があり、今、こちらの病院に向かっているとのことです」

「状況は?」

「重傷者一、心肺停止者一です」

「心肺停止?」

「はい。重傷者は大学病院に運ばれるようで、うちには心肺停止者が運ばれてくるそうです」

「……部長なのか?」

 糸原は声をひそめて尋ねた。

「はい、おそらくは……成人男性とのことなので、部長の家族構成から考えて、そうなのではと……」

「……わかった。これからそちらへ向かう。ニノ方は到着しだい、確認を頼む」

 わかりました、と答えるニノ方の声が心許なかったが、糸原は電話を切った。今は下手な励ましよりも一刻でも早く病院に駆けつけたほうがいい。

 素早くベッドから立ち上がり、リビングに続くドアを開けた。

 途端、コーヒー特有の甘い香りが鼻をくすぐる。どうやら由佳がコーヒーを淹れてくれていたらしい。その香りにもやもやとした眠気が一気に吹き飛ぶ。

「出かけるの?」

 糸原に気づいた由佳が尋ねた。

「ああ。笹本部長に大事があったらしい」

「笹本さんに?」

 由佳は怪訝そうに眉をひそめた。

 どうやら、彼女も患者の容態の悪化を告げる電話だと思っていたらしい。

 しかし、それ以上を尋ねることはなく、そう、とうなずき、淹れ終わったコーヒーを慣れた手つきでマグボトルへと移す。

 糸原は寝室に戻り、クローゼットの中から適当にTシャツとジーンズを取り出した。それらに着替え、薄手のパーカーを羽織る。その間に、由佳はリュックの中へと財布やスマートフォン等の小物を詰め込み、着替え終わった糸原にマグボトルと一緒に手渡した。

「ありがとう」と礼を述べ、慌ただしく玄関へと向かう。

 由佳も糸原に倣い、玄関に付き添う。

「なるべく早く帰るようにはするけど、いつも通り診察もあるし、戻りは夕方になると思う」

 スニーカーに足を通しながら言う。

「わかりました」と由佳は小さくうなずいた。

「……でも、もし、詳細がわかったら、忙しいでしょうけど、連絡してください」

 その言葉に、キーボックスに伸ばした手を止めた。チラリと一瞥すると、由佳は不安げな表情で、唇をキツく結んでいる。

 それもそうだ、と糸原は思う。

 笹本は早くに両親を亡くした由佳にとって、兄のような存在だった。その彼に大事があったと聞いたのだから、本当なら一緒に付いてきたいところではあっただろう。

「部長のことは心配ないよ」と糸原は務めて明るい声で言い、由佳を抱きしめた。

「大丈夫だから」

 優しく背中を撫でる。

 由佳も糸原の腰に腕を回し、身体を押しつけた。ギュッとしがみつく由佳の柔らかな感触が愛おしい。ずっとそうしていたいところではある。

 ──部長のことがなければ。

 糸原は名残り惜しく、由佳から身体を離した。

「何かわかったら連絡する」

「うん」

「だから、今夜はゆっくり休んで」

「はい」と由佳が小さく笑った。

「いってきます」

 ドアノブに手をかけ、振り返る。

「いってらっしゃい」と由佳は穏やかな笑みを浮かべ、手を振った。

 

 マンションの駐車場からは、いつもより大きくて赤い月が見えた。ちょうど真円を描いている。

「そうか、今日は満月か」

 月の光を見つめ、つぶやいた。

 ──満月の夜は犯罪が多いというけれど……

 そんな迷信もあながち嘘ではないのかもしれないと思えるほど、今宵の月は怪しく冷たい光を放っている。惑わされてしまう人間も多いことだろう。

 糸原は視線を車へと戻し、キーレスエントリーのボタンを押した。ピピッという音とともに、ハザードランプが点滅する。

 その点滅に合わせて、浮かび上がる人影が見えた。

 人影は、一回目の点滅時にはマンションを仰ぎ見、二回目の点滅時には、糸原に焦点を合わせてきた。

「誰だ?」

 糸原は、身構えると同時に目を凝らした。身長は車より少し高いくらい、ヒョロヒョロとした細い輪郭で頼りなげである。もし襲いかかってきたとしても反撃は可能だろう。ただ、その人影の目が異質で、糸原は恐怖を感じた。

 ──目が赤い……

 暗がりの中でその目は赤く光っていた。人相は確認できない。

 ……人間、なのか?

 姿かたちは、確かに人間のそれである。しかし、目が赤く光る人間なんて聞いたこともない。

 人影は糸原の姿に気づくと、一歩、足をこちらに向けて踏み出した。それから、一歩、また一歩と、足を引きずり、ゆっくり近づいてくる。その動きが、苦しげに、助けを求めているように、糸原には見えた。

 人影が近づくにつれ、それが何かの言葉を発しているのもわかった。

「……っい……さ……」

 はっきりとは聞き取れないが、人間の発する言葉のように聞こえる。しかし、人影はあと数歩、糸原に手が届こうかというところで、ピタリと動きを止めた。

 そして、宙を仰ぎ、辺りを見回す。やがて或る一点を見つめ、思い直したように踵を返した。それから、二メートルはある駐車場のフェンスをひとっ飛びで超え、暗闇に消えていった。

「……何だったんだ、あれは?」

 人影を呆然と見送り、糸原は独りごちた。今起きたことが、現実なのか、幻覚でも見ていたのか、判別ができなかった。

 糸原は真偽を確かめるため、人影が立っていた場所に移動した。

 まず、人影がそうしていたようにマンションを仰ぎ見る。

 糸原の部屋は駐車場に面しているので、もしや自分たちの部屋を見ていたのか、とも考えた。しかし、夜の闇ではマンションの外観をかろうじて確認することはできても、十二階の部屋を探し当てるのは難しい。それに何よりあれの目的が、自分だったという確証もない。

 ──考えすぎか……

 部長の件で少し神経が過敏になっているのかもしれない。糸原は軽く息を吐き、足元へと視線を落とした。

 よく見ると、自分の周りのアスファルトだけ色が濃い黒になっている。

 ……雨?

 いや、雨は降っていなかった。なのに、地面が濡れている。それは、さっきの人影の足取りと重なって点々と続く。

 ──それにこの匂い……

 夏の湿った暖かい夜風に乗って、鉄の交じった生臭い匂いを感じた。

 ──血液の匂いだ。

 仕事がら、それは容易に判別できた。

 ──あの人影か?

 あれは怪我をしていたのか?

 血液の量を考えるに、かなりの深傷だと判断できる。

 しかし、立ち去る時の動きは俊敏で、到底怪我をしているようには思えなかった。

 ──わからないことだらけだ。

 まんじりとその場に立ち尽くす。やがて、深い溜息とともに糸原は首を横に振った。

 あれの目的は分からないが、こちらに危害を加えるつもりならさっき出来たのは確かだ。しかし、あれはこの場を立ち去った。

 つまり、こちらに危害を加えるつもりはないということだ。

 で、あればだ。

 今、優先すべきは部長のことだ。

 糸原はそう結論づけ、病院へと向かうことにした。

 車のドアを開け、助手席にリュックとマグボトルを放り投げる。それから運転席に滑り込み、ドアを閉めた。スターターボタンを押すと、夜のしじまを破りエンジン音が辺りへと響き渡る。

 糸原はヘッドライトを点け、ゆっくりと車道へとハンドルを切った。へッドライトに照らされて大正浪漫づくりの喫茶店が浮かび上がる。

 ここ西城市は、江戸時代には城下町として栄えていたため、古い建造物が数多く残されていた。

 現在は国立大学を有する学園都市となったが、城下町特有の複雑で細い道路はあちらこちらに張り巡らされていて、袋小路や一方通行の道も多い。地元の人間でも迷うほどだという。

 大学進学で引っ越してきた糸原も、車の運転に慣れるまでにはかなりの時間がかかった。

 病院までの道のりは交通標識を無視すれば五分ほどで着く距離である。しかし、その距離でも廻り道をしなければならない。どんなに急いでも十分はかかってしまう。いつもなら気にならない時間も、今日は苛立ちを覚える長さだ。

 ふと、信号待ちをしている脳裏に、先日の部長との遣り取りが蘇った。

 

 *


 ねえ、糸原くん、と眼鏡の下に穏やかな笑みを浮かべ、部長が言う。

 はい、なんですか、と弁当を突つく手を止め、糸原は応じる。

「由佳ちゃんは元気にしてる?」

 猫背気味の背中をさらに丸め、両手でコーヒーカップを包み込みながら、部長が尋ねた。

「由佳ちゃんって……他人の奥さんを馴れ馴れしく『ちゃん』づけするのは、どうなんですかね」

 突然の妻の話題に軽く顔をしかめる。しかし、部長は悪びれる様子もなく続けた。

「だって由佳ちゃんは、僕にとって妹みたいなものだから」

「それはそうでしょうけど」

 そうなのだ。由佳と部長は糸原より付き合いが長い。なにせ由佳の小学生の頃の初恋相手が部長なのだから。

 糸原は白髪の交じった、人の良さそうな部長の顔を複雑な表情で見つめた。

「……元気ですよ」

 素っ気なく答えて、卵焼きを頬張った。

 ふんふん、と頷いて彼は続ける。

「それって、愛妻弁当だよね」

「……まぁ、そうですね」

「いいよね、新婚さんは」

「何言ってるんですか。部長だって毎日手作りの弁当じゃないですか」

「いや、僕のはね、子供の弁当のついでだから」

「それでも作ってくれるんだから、立派な愛妻弁当ですよ」

 そう言うと、部長は満面の笑みを浮かべ、「あ、やっぱり、そう思う?」と嬉々として尋ねてくる。単に惚気たいだけなのだ。

「……そういえば、君んとこ、そろそろ結婚記念日だよね」

「よく他人の家の結婚記念日を覚えてますね」

 半ば呆れ気味に言う。

「そりゃ、由佳ちゃんは、僕の妹みたいなものだから」

 お決まりの台詞を言って、はははっ、と豪快に笑った。その大きな声に、食堂の視線が一気に二人へと集中する。

「部長、静かにしてください」

「ああ、ごめん、ごめん」

 周囲に軽く会釈をして、部長は糸原に向き直った。

「確か、結婚して三年目になるんだっけ?」

 本当によく覚えている、と糸原は感心した。

「そうですね」

 そうかそうか、と部長は頷く。

「それじゃ、そろそろ子どものことも考えているの?」

「それ、今のご時世だと、セクハラですよ。人事部に言いつけますよ」

 少しやり込めてやろうと、冗談めかしていう。またまた、と部長は笑った。

「相変わらず、糸原くんはドSなんだから。由佳ちゃんにも、そうなの?」

「! ……そんなことっ……」

 逆にやり込められて狼狽えることになる。大声と共に立ち上がり、周囲の視線を集めてしまう。糸原は軽く会釈をして、椅子に座り直した。

 部長はニヤニヤと意地の悪い笑顔で糸原を見つめた。

 まったく、と糸原は眼前の男を見返す。

 臨床研修時、最初に配属されたのが小児科だった。それが運の尽きだったのかもしれない。当時主任だった部長に良いようにこき使われ、最終的には彼の下で小児科医を目指すことになった。

 元々子供は好きだったし、外科よりは内科の方がいいと思っていたから、不満はない。なにより部長から学んだことは多かった。医者としての知識に限らず、患者との接し方や円滑な人間関係の築き方、酒との付き合い方など──

 父親とは疎遠な自分に、本来なら父親が教えるべきことを教えてくれたのが、部長なのだ。

 だから、なんだかんだで頭が上がらないし、憧れの存在でもある。

「……一応、考えてはいますが。こればかりは授かり物なので」

 そう言ったが、実は一年前から不妊治療を行っていた。由佳は妊娠はするが、流産を繰り返すという不育症であった。なので今は仕事を休職し、治療に専念している。

「そうだよねぇ。子供は授かりものだからね」

 部長がうなずく。はい、と糸原も応じた。

「それはそうと、糸原くん」

 急に部長が真剣な顔をした。

「──由佳ちゃんのこと、よろしく頼むね」

「なんですか、急に……」

 突然、改まった口調で頭を下げられたから、糸原は面食らう。

「いやいや、心配してるの。兄だから」

 しかし、頭を上げた部長はいつものおちゃらけた顔をしていた。

「ほら、由佳ちゃんって強がりだから、辛いことがあっても隠すでしょ」

 さすが長い付き合いだけあって、よく知っている。それはそれで、癪に障るというものだ。

「彼女のこと、守ってあげてね」と言う部長の言葉に、「言われるまでもないです」と買い言葉気味の台詞を返し、不敵に微笑んで見せる。

 うん、と部長は満足そうに頷いた。

「頼んだよ。……僕は家族のことで手いっぱいだからさ」

 そう言った部長の顔が寂しげに見えた。


 *


 ──あれは、どういう意味だったのだろう?

 あの時の部長を思い出し、今さらながらその意味を考える。

 なぜ、急に由佳を話題に出したのだろう? 家族で手いっぱいとは、何かトラブルがあったのだろうか?

 いろいろと思考を巡らせているうちに、糸原は目的地へと着いた。

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