満月に狂う君と

川端睦月

プロローグ

 火の爆ぜる音に意識を取り戻す。気づくと男は床の上に這いつくばっていた。

 いつもはひんやりと冷たい研究室の床が、今は熱せられた鉄板のように熱い。

 男は慌てて床から起き上がろうとして、自分の身体が動かないことを知る。何かが腰から下を押さえつけていて、ピクリともしないのだ。

 ならばと、状況を把握するべく辺りを見渡す。

 最初に目に付いたのは宙を舞う無数の紅い蛍の光。その美しさにしばし見惚れる。

 だが、男はその正体を知り、愕然とした。

 蛍の光だと思っていたものは、研究室を焼き尽くそうとする炎の放った火の粉だったのだ。

 男は死を意識した。

 既に炎は男の周囲を囲み、逃れる術はない。息を吸うと灼けた空気が肺へと流れ込んで、身体の中から焼かれているように思える。

 残された時間は少ない、と男は悟る。それでもあのことは伝えなければならない。

 ゴホゴホと激しく咳き込みつつ、男は首にかかったストラップを手繰る。その先にスマートフォンを見つけ、安堵する。画面に亀裂が入っているが、問題なく使えそうである。

 男はスマートフォンの電話帳を操作し、目的の名前を探した。

『大道』

 ほどなくその名前に行き当たり、迷わず発信ボタンを押した。間髪入れずに呼び出し音が鳴る。

 ――一回……

 ――二回……

 男にはとても長い時間に感じた。数回のそれのあと、ようやく通話が繋がる。

「私だ」

 男は相手の名前も聞かずに名乗った。

「……教授? どうかしましたか?」

 眠そうな若い男の声が、怪訝そうに問い返してきた。当然だとは思う。時刻は午前一時を過ぎているのだから。

「夜分遅くにすまないね、大道くん」

「いえ……」と答えた電話の相手が、少し都合悪そうに口籠る。

「……そこに、由佳がいるのか?」

 男の問いに、電話の相手は答えなかった。

「まぁ、いい」

 男はフッと口元を緩める。それから気持ちを切り替えるように一息吐いた。

「……あれは、失敗だった」

「あれ?」

 男の告白に、電話の相手は意味がわからず問い返した。

「……私の全てだよ」

「私の全て……」

 男の言葉を反芻して、電話の向こうで息を呑むのがわかった。

「それって……」

 問い返す電話の相手に、男は「すまない」と詫びた。目には涙が浮かんでいた。

「――ちょっと待ってください。失敗って、どういうことですか?」

 電話の相手が困惑した様子で尋ねる。しかし、男はそれには答えず、一方的に話を続ける。

「資料は耐火金庫に保管してあるから大丈夫だとは思うが……」

 ゴホゴホと咳きが漏れた。

「……教授? 大丈夫ですか?」

 気遣わしげな声が電話の向こうから聞こえる。

「サンプルは、どうかな……。助からないかもしれないな」

 その声を聞き流して男は続けた。ゴホゴホとまた咳が漏れた。

「教授っ。一体、何があったんですか?」

 電話の相手が苛立たしげに問いかける。

「――ちょっと、ヘマをやらかしたようだ。……研究室が、燃えている」

 少しの沈黙のあと男が答えた。

「燃えているって……」

 電話の相手が言葉に詰まる。次いで、

「なに悠長に電話しているんですかっ。早く避難してくださいっ」

 耳が劈けんばかりの声で叫んだ。

「ああ、そうしたいところ、なんだが……。動けないんだ」

 息が苦しい。意識も朦朧としてきた。声を出すのもやっとだ。

「動けない?」

「爆風で、吹き飛んだ、ロッカーが、……身体の、上に乗っかって」

 駄目みたいだ、と男は渇いた笑い声を上げた。

「それなら、僕が今すぐ行きますっ。……ああ、それより消防を――」

 電話の相手が息巻いた。

 しかし、いいよ、と男は言った。もう、いいよ、と。

「……それより、由佳のこと、よろしく、頼む……」

 そこまで言って、男は意識を失った。電話の向こうでは、教授、と必死に呼びかける声が虚しく響いていた。

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