コインランドリーランド

たろう

宮内翔太 【コインランドリーランド】

 洗濯機が壊れました。

 夏場、三十六度、湿度は最好調。

 完全にやってしまった。

 今朝のワイドショーでたまたま特集されていた『実はすごい! 洗濯機の内側汚れ』を見て、簡単に感化されてしまった。

 そしていざ、分解掃除を始めたらネジが一本どころか五本も足りない。訳が分からない。

「………どうすんべぇ」

 目の前にバラバラに置かれたかつては洗濯機であった容器と洗濯槽の二つが、もう元には戻れぬ怒りをあらわにしてなのか、太陽の光を倍にして反射させてくる。

 申し訳ないが修理業者を呼ぶお金もないので、しばらくはこのまま放置しておこう。もう、手を加えて余計なことをしたくはない。

 それになにより、この暑い中もう何もしたくはない。頬を垂れるどころか、保湿に保湿を重ねてうるるんと過剰な汗が全身に、そして服にしみ込んで最悪な心地になっている。

 その中で動けなどと、もうただの拷問でしかない。

「うわぁうぅぅ」

 決して自分で発したとは思いたくもない声が疲労やらやるせなさから、喉仏の関門を見事に通り抜け漏れ出してきた。

 情けないことが二乗で増えていく虚無感に、その場にゆっくりと座り込み、一人暮らしにはやっぱりやけに広いよなこの部屋など見渡しているとみるみる陽が落ちていき、少し洒落づいた夕日の明かりが、ほんの少しばかり部屋を照らし始めていた。

「汗くさっ」

 今年一番の暑さと湿気を糧にだらだらと流れた汗を、しっかりとしみ込ませたシャツの襟袖から漂う報われない努力の臭いにぼやきながら、こんな大人になるなんて、など自分にすら聞こえない声でおまけをつけてみたりした。

 それからすべてに対して無気力が勝ってしまい、しばらくの間、もう元には戻らないロミオとジュリエットのような洗濯容器と洗濯槽を、何も考えずにずっと眺めていた。

 体感時間にしたら一時間程たったくらいか、ふと、あぁ、動こう。と、思い出し、足元に置いてあったスマホをつけてみると時刻はすでに十七時を示していた。これが、冬場ならもうすでに日は沈んで、寒さに身を丸めているころ合いだろう。

「とりあえず、風呂………じゃないな」

 立ち上がりすぐ横にある風呂場に目をやると、途中に洗濯籠が置いてある。そこには、カゴいっぱいに入った洗濯物が汗臭さとともに鎮座していた。

 それはもう堂々と、その自信を分けてほしいくらいにはどっしりと構えていた。

「洗濯だなぁ」

 洗濯機が壊れた今、衣服を綺麗にするためには風呂場で手洗いかコインランドリーへ行って洗うしか手はない。

 正直、風呂に入った後に外へ出るのは、個人的に夏だろうが冬だろうが嫌だった。だが、この汗臭い状態で外へ出るのも非常に嫌だ。つまるところ、外へ出たくはないのだが、カゴいっぱいの汗臭い洗濯物を放置することも性分柄できないでいた。

 だって嫌だもん。が、包み隠さない素直な感想だ。

 その結果、自分は一度、風呂に入ってコインランドリーへ行き戻ってきたらまた風呂に入ると、いう惜しみない手間と時間をかけることを決意した。

 が、その前に目の前に広がる惨状をどうにかしなければならない。なにせ、哀れな洗濯機はいまだに分解されたまま放置されているのだから、一旦、片づけなければなくなった五本のネジがさらに増えて六本になるかもしれない。そんなのはもうやる気が起きないとか以前の問題な気がする。

「いれとけば問題ないよな?」

 元鞘にしまっておけば片づけた気分になるのは人類共通だと信じている。とりあえず、そこそこある洗濯槽を洗濯容器の中に戻し蓋を閉めた。

 すると、どうだろうか。今にでも洗濯できそうなほどには直ったと錯覚と満足感を得られたじゃないかと、無意味なゴールテープを切ってしまった。

 なにせ、本番はここからなのだ。行動に賭ける時間も出費も考えたくないし出したくもない。閑古鳥が恩返しの鶴のように機で布を織って置き土産をした後に、飛ぶ鳥跡を濁さず消えていくレベルで感動の別れを演出してくれるほどには、今自分の手元にお金はない。だから、本当を言えばコインランドリーすら行きたくはないが、衛生面はしっかりとしなければ最低限な文化的生活ができないので必要出費として苦虫をかみ砕いている。

 きっとこれも一部に有益な情報の一部に該当すると勘違いをし、洗濯機を分解清掃しようとした自分の因果的結果か、そもそも今朝のワイドショーがそんな特集をするのがいけないかのどちらかに違いない。できれば後者であってほしいと心から願う。

 など、考えながら本末転倒な苦労をしみこませた夏の汗をシャワーで流し始める。

「やんばい、やる気が」

 シャワーを浴びていたらあまりにも気持ちよくすっきりしてしまうものだから、疲弊した心が緩みだし、コインランドリーではなく布団の上へ行くようにと誘惑してきている。

 負けじと抵抗したいのだがシャワーを浴び続けている今の自分は、我が子を前にした父親の財布のひものように緩み切っている。素直に負けだ。

 誘惑に従おう。浴び終わったら布団へダイブする。だって、時間はまだあるし………大丈夫、仮眠だから。

 そんなだらしない誘惑に従い始めたらより心が緩くなった気がした。

「一時間ぐらい寝ても平気だな」

 いつの間にか、どこにもない余裕をそっぽから引っ張り出してきて正当性を持たせようとしている自分がいた。

 これはさすがにシャワーの強さだと言えど水には流せないほどに、怠惰がひどく子べりついてしまっているようだ。

 だが、逆らえるわけもないシャワーを終え、夏場には厳しいドライヤーで髪の毛を乾かしパンツを履いて、そのままシャワーを浴びる前につけておいた冷房の効いている部屋にある、敷布団へ倒れ込んだ。

 至福すぎる。ダメな大人になってしまいそうだと思ったらもうすでにダメな大人だったため、試合前に決着がついてしまった。

「あぁ、あー」

 そのまま横になっていると、今日一日の疲れがどっと襲ってきた。ダメな奴だこれ、と本能が訴えかけてくるも本当にダメなので逆らう気すら起きない。

 もういっそコインランドリーは、明日の仕事終わりでもいいのではないか? など、考え始めてしまっている。

 その証拠に右手に持っていたスマホが、疲労と睡魔にやられたことに手からすり落ちて、ぽすっと音と少しばかりの埃をたてた。

その後、あれ、お布団ってこんなに気持ちいいっけ? を考えながら静かに思考は止まっていき、気づいた時には何とも言えない気持ちともうすべてどうにでもなれという、投げやりな考えとともに思考が完全停止した。

 それから仮眠といっていい睡眠をとり、時刻は二十時を過ぎたころ合いになってしまっていた。

「めっちゃ夜じゃん」

 布団の横にあったスマホで時間を確認し二十時が目に入ると、とんでもない後悔と、やってしまったなーでも行かなきゃなぁ、という怠けの気持ちが込みあがってきた。

 しかし、前向きに考えればの話なのだが、真夏日の日照時間に外出を避け多少なりとも誤差ではあるが涼しくなった夜間に時間をずらしたともいえるのではないか? など、考えていると少しばかり行動力を取り戻した気分になれた。

「行くかぁ」

 程よく体力も戻り、そこそこの気力を取り戻し終え、ランドリーバックに詰めた水の泡と化した努力の結晶がしみ込んだ衣類を持ち近所のコインランドリーへと向かう。

 確か、近所に古びた昔ながらのコインランドリーがあったはずと、アパートを出て五分ほど周りを見渡しながら捜し歩いていると、電灯に虫がふよふよと羽音をたてながらたかっているすぐ横に、『さいとうランドリー』、と白看板に昭和テイストで書かれたポップな看板が目に入った。

 営業しているか不安だったが、二十四時間営業と入り口のガラス戸に描かれているのを見て安心する。

 それにしても、見た目は築五十年と言われてもなんら疑わない木造建築で一戸建て、幸せな老夫婦が余生を思い出とともに過ごしている、そんな温かみを感じる。

「おじゃましまーす」

 ガラス戸をガラガラと横にずらしお店に入ると、洗濯機が四台に乾燥機が三台ほど並んでいるこじんまりとした設置台数だ。

 お店の雰囲気は、よくドラマや映画などで昭和を題材にした日常ものにでてきそうな優しく温かい老舗のようだ。中央には待機するためであろう大きめのテーブルが一つと椅子が四つほど置かれている。

「ん? なんだこれ」

 持ってきていたものを洗濯機に入れ動かし始め、このまま家へ帰って待機するのも面倒だったので椅子に座ってテーブルに目をやると、何冊かのノートと筆記用具が置かれていた。

 そのノートの表紙には『声と交流』と書かれており、きっとよくある旅ノートの様な地域交流の一環なのだろう。暇つぶしにはちょうどいいなと手を伸ばした瞬間、進入禁止と書かれた店右奥の扉が、バタンッ、と大きな音を立て開いた。

「くっ、やるじゃないか! あいなマン」

「わっはっは! 怪人おじいちゃんおいつめた」

 自分の置かれている状況が呑み込めない。いや、本当に理解が追い付かないではなく、理解がはじまらない。

 甚平がよく似合う白髪交じりの五十代だろう初老の男と、タオルをマント代わりに着けフライ返しをあたかもアニメとかでよく出てくる魔法ステッキのように扱う幼い女の子が、進入禁止の扉からヒーローショーの如く飛び出してきたのだ。

 もしかすると、コインランドリーと間違えてどこかアミューズメントパークに入ってしまったのかもしれない。そう、現実逃避したくもなる。

「追い詰められたのはどっちかな! ここはコインランドリーだ! 人質になる人間は山ほど………」

 初老の男性が自分を見た瞬間、洗濯機以外の時間が止まった。おかげさまで洗濯機の稼働音の実が小気味よくなり渡っている。

 やばい、お気に入りの服が混ざっている洗濯物を犠牲にしてでも全力で家に帰りたい。

「誰だ、おめぇ!」

「もう、おじいちゃん早くつづけよ………」

 男性の奥にいた女の子も自分の事を陰からひょこっと顔をのぞかせて見てくる。

「ふしんしゃだ!」

 確認されたと同時に女の子に不審者認定をされたようで、めちゃくちゃ大声で騒がれ始めた。しかもだ、瞬時に男性が女の子を抱きかかえ自分から守るようにしはじめた。

 これじゃあ、完全に自分が本物の不審者になってしまうじゃないか。そう思っていた矢先、ガラス戸がガラガラっと音を立て開くとスウェット姿の女性がスマホをいじりながら入ってきた。

 もしかしたら、アニメやドラマだとこういった出会い方が運命的なのかもしれない。だが、悲しいことにこれは誤魔化しきれないほどに嫌味たっぷりな現実だ。

「………」

「………」

 入口から動かない女性が、ガラス戸をゆっくりと閉めるもその間ずっと自分と目が合ったまま、ここ数年で一番気まずい空気が流れるが夏にはこの背筋が凍るヒヤッとした空気がちょうどいいなぁなど、現実逃避気味に考え始めていた。

 しかし、この状況本当にどうすればいいのか。考えれば考えるほど、わからなくなっていくし、理解したくないと現実逃避し始めるわで、思考放棄したいにもほどがある。

「えっと、とりあず座ります?」

 何かしなければならないと、よくわからないまま自分は横にある椅子に座るよう女性に勧めていた。

「あー、じゃあ」

 お互いに牽制するわけでもなくただひたすらに気まずさだけが残る微妙な空気のまま、目線を離すことなく女性が椅子に座ると、向かいの空いている二席に男性と女の子も黙ったまま自然な流れで座った。

 なんだこれ、コインランドリー内とは思えないほどに空気が絶妙に微妙過ぎる。

「あ、私、洗濯まわしていいですか?」

「あ、あぁ、どうぞ」

 どうしようもなく気まずい。さっきからずっと気まずいとばかり考えてしまっている。だって仕方ない、どうしようもなく気まずいのだから。

 というかだ、テーブルの向かいに座っている男性と女の子はいったい誰なんだ? 女性は利用客だとして間違いないだろうが、この二人はチンドン屋かなにかの類なのか? だとしても、進入禁止の扉から出てきたってことはこのランドリーのなんらかな関係者なのだろう………か?

 もしかして、店主なのか? それでいて女の子は孫か子供のどちらかなのか? 疑問符であふれかえってしまう。

 そんな中、女性が洗濯機を動かしはじめ再び椅子に座ると、ずっと自分の事を見続けてくる。

「えっと、何か?」

「不審者なの?」

「違います」

 女性が表情一つ変えずにストレートに聞いてきた疑問へ、自分の生きてきた中でおそらく一番早い返答でラリーを返す。

「なんだ、違うのなら早く言ってくれ」

 その自分の言葉に、反応したのは女性ではなく向い目の前に座っている初老と思わしき男性だった。男性はそのまま、違うってよ、と女の子に説明すると何故だか表情が明るくなり立ち上がったと思えば、自分の横に歩いてきた。

「うたがってごめんなさい」

 女の子は頭を下げしっかりと謝ってくれた。

 なんて素直ないい子なんだろう。もしかすると初対面の自分を見て驚いたあまり不審者と疑ったのが言葉にでてしまっただけなのかもしれない。今ならこの女の子の言動がすべて許せてしまうほどには心が浄化されている。

「全然気にしてないよ。大丈夫、大丈夫」

 その場を和ませようと自分は笑ってみせてみると、今度は女性が反応してきた。

「優男じゃん」

 久々に優男なんて聞いた気がする。

 というか、今さっきまではあった壁がなくなって距離が急に近づいた気がする。ギャルか? ギャルなのか?

「そりゃ、子供のすることだし」

「しいなおねちゃん! この人いい人かもしれない」

 女の子は女性に懐いているようで、膝の上にちょこんと座りながら話しかけている。女性もいつもの事なのか、特に気にすることなく、そうだねぇ、と返事をしていた。

 なんだ、この女性はここの常連なのか? それともこの男性と女の子と家族化親戚か何かなのか? やけに親しいな。それに忘れていたが、不審者呼ばわりしてきた二人はここの何なんだ? 洗濯物ももってなさそうだし、そもそも進入禁止の扉から出てきたし、コインランドリーの経営者的な人なのか?

「そうだねぇ。大人の余裕がある人だねぇ」

 女性はそう言いながら初老と思わしき男性をニヤニヤしながら見ている。きっと、男性には大人の余裕ってやつがないのだろう。そうに違いない、そうだそのはずだ、でなければ自分を、なんだかんだ一番不審者扱いしていたことも納得できる。だから、そうであってくれ。

 そう思いながら女性と一緒に男性を見ると、大人二人が見ているからか女の子も男性へと目線を向けた。

「あいなまでお爺ちゃんをそんな目で」

 男性の悲しむ表情は完全に祖父のそれでしかなかった。自分も子供のころに、祖父母が同じ感じだったなぁ、などつい思い出し感傷に浸ろうとしたが状況が状況なので、感傷にダイブして浸ることができなかった。

「おじいちゃん、ごめんなさいする?」

 事の発端は、今まさに男性へ謝罪を促している女の子なんだけど子供だからなぁ、で納得できてしまうあたり子供って肩書は最強なのかもしれない。

「あいなが言うのならばっ」

 男性は苦虫を噛み潰したように自分を見てくる。

 実際、謝られても特に怒りも何もないせいかそこはかとなく流してしまいそうで怖い。それこそ謝罪よりも、いまだによくわからないまま散らばっているこの状況をいち早く自分は整理したいので、自己紹介的なものが欲しいとすら思っている。

 というか、よく考えてほしい。真夏日の夜に蒸し暑い中、洗濯機が壊れコインランドリーへ来たら急に見知らない女の子と男性が扉から飛び出してきて。間髪入れずに不審者扱いを受け現状いまここだ。それはそれはもう、謝罪よりも先に欲しいのは情報だろう。そしてよく自分は、混乱しつつも冷静に対処できているなと関心すら覚えてしまった。

 なので今、自分は謝罪をされてもきっと許すことがないことを許すことができても現状把握をできるか? と聞かれたらきっとそれは、そう。

「申し訳なかった」

「無理に決まっている」

 夏なのに凍えるように涼しい。

「あ、いや、その」

 考え事の一部が思わず口に出てしまいやたらとお堅く断ってしまった。

 別に悪気があったわけじゃないんだからね、とアニメにでてくる可愛い女の子ならば言って難を逃れることができると思うが、二十代後半のうだつがそもそもないような平凡な自分が発したら、より空気が凍ってしまう。

「あのー、そのー」

 間髪入れない自分の断りに女性はずっと笑いをこらえているのであろう、肩を小刻みに動かしている。男性はといえば、こちらも肩を小刻みに動かして入るにはいるのだが、年甲斐もなく目元がうるうると涙が充填されており、今にも泣きだしそうだ。

「す、すみませんでし………たぁ………」

 ものすごく気まずい中、男性へ謝罪すると女の子が女性の上に座ったまま自分を指さしてきた。

 アニメやドラマの見過ぎだろう。ものすごく怖い。きっと、標的か何かにされて腹部の一点のみを一撃で刺されその日は動けなくなってしまう的なことをされるかもしれないと、ほんの一瞬だけよぎった。

「おにぃさん、えらい!」

 女の子はむしろ褒めてくれた。いっぱいお菓子かってあげたい。

「おじいちゃんもえらい!」

 女の子が次に男性も褒めると、涙で溢れだしそうだった目元がついに決壊を起こし、涙がドバドバと流れ出してきていた。

「あいなぁ!」

 男性が勢いよく立ち上がり女性の所まで早足で向かうと、そのまま膝の上に座っていた女の子を抱きかかえながら、ほっぺたをすり合わせ、かわいい孫世界一、あいなは天才だ、だの孫馬鹿具合を発揮しており、なんだかほほえましく思えた。

 それからしばらくは男性がひたすらに女の子をほめ続けているのを横目に、終わった洗濯ものを乾燥機へ移したりしてそれとなく過ごしていた。

 そういえばこの空気に流されそうになっていたが、自分は今この状況においてもなお、周囲にいる人間の名前を誰一人と知らないし、もうどこか諦めていた。そんなこともあり、読めずにいた机の上においてあるノート『声と交流』に手をとると女性が声をかけてきてくれた。

「そういうノートいいよね。交換日記みたいで」

「へー、中身そんな感じなんすね。どんなんなんだろうって気になってて」

 話しながら何冊かある内かた適当に一冊をとる。全五冊ほど置かれている中で、割と新しめの第四号で、少しだけ埃がかぶっている以外は特に古めかしさもないキャンバスノートだ。

 中身をぱらっと見てみると女性が言ったように、このご近所さんの交換日記のようなフランクな内容ばかりが目立つ。明日の昼スーパー卵特売、岡田さんと十七日に佐々木さん家に集合、などなどランドリーの利用者以外も掲示板変わりに使っているみたいだ。

「うわぁ、マジで交換日記というか掲示板というか何でもありなんすね」

「でしょー」

 旅行先などで見るノートとはまた別の良さがあり、人の温かみとつながりがより深く伝わってくるそんなノートな気がする。その中でパラパラとめくって見ていると突然一ページ丸ごと使ったどでかい書き込みが出てきた。しかも、内容がかなりプライベートなことがたった一言で書かれており『婚約なくなった! 騙されてた!』と、力強く荒々しくも丁寧に、相川四菜、など本名付きで刻まれていた。

 うおぉすげぇなぁ、とか思いつつそのページを見ていると女性がクスッと笑い出した。

「それ凄いよね」

「ひときわ目立ってますからね」

 見開きの次ページにはぎっしりと、励ましの言葉が様々な人から書かれているのを見る限り、この相川四菜という人物はかなりノートの利用者たちから好かれているであろうことが容易に想像できる。そう考えると、この相川四菜を騙し破局させた相手は、所しらぬ間に多数の敵を作ってしまったのかと思うと、少しだけ気持ちがすっきりする。

「それね、私なんだよね」

 女性はためらいなくそう言った。薄々というか女の子からこの女性が、しいなおねぇちゃんと呼ばれていたしなんとなくは想像していており、やっぱり触れないべきだし人違いだったらかなり申し訳ないよなと、人として当たり前の配慮をもってこのページをこのまま過ぎ去ろうとしたが、当の本人である女性が触れてきては話が別になる。いや、なってしまうというべきが正しい気がする。

 しかし、どう声をかけていいのか人生経験と恋愛経験が平凡並みでしかない自分からしたら高すぎる壁であり、本来であれば回れ右をして遠ざかっていくところなのだが、お生憎様とばかりに今回の高い壁は自動追従機能がついているようで、自分が向く前方へ瞬時に移動し立ちはだかってくる。これが、犬や猫とかだったらもうメロメロに心をとかされ人としての形相を保っていない状況なのだが、壁はどうあがいても常人にはペットとして認識することはできず、不法投棄もやむを得ずといった具合だ。

 以上を踏まえて、どうするべきかなど二十代後半アラサー半身浴状態の自分には荷が重すぎると考え、そこはかとなく当たり障りのない相槌を打つことにした。

「あー、なるほど。………ちょっとタバコ吸ってこようかな」

「じゃあ、私も」

 適当に相槌を打って逃げようとしたら、女性には餌だったのかクリーンヒットをしてしまい、一緒にタバコ吸うことになってしまった。

「斎藤さん。ちょっと外でタバコ吸ってくるので、愛奈ちゃん来させない様にお願いしまーす」

「あいよー、いってらっしゃい」

 女性は男性に声をかけたのち、自分と出入口横に設置してあるお菓子の缶詰を改造したであろう灰皿まで一緒に来た。コインランドリー内は冷房が効いていたせいで忘れていたが、今は夏だ。とんでもなく蒸し暑い。夜は夜風が涼しいなど言ったりはするがそんなわけがない真夏日の夜だ。

「そうだ、暑かったんだぁ」

 女性も忘れていたようで、片手で仰ぎながらぺけっとに手を入れもぞもぞとタバコを探し始めていた。自分はそれを横目に、あー電子タバコ忘れたぁ、なんて思いながら持っていた紙巻きたばこに火をつける。

 ふぅ、とひと息ついても女性はポケットをがさごそと探していた。絶対に忘れているパターンだ。それを裏付けるかのように表情もきっとマンガとかだったら、うげぇ、などと表現されそうなほどにはげんなりしていた。

「あの、メンソール大丈夫だったら一本どうぞ。紙巻ですけど」

「因みに味は?」

「レッドなんで、えっとー、アップルっすね」

「いただきますっ」

 タバコとライターを渡し、女性も無事にタバコを吸い始める。カチッとカプセルをつぶす音が妙に響く川の前で、案外、洗濯機の音も外に出れば気にならない程度には聞えないんだなと感心しつつ、虫の音とともにタバコをゆっくりと吸う。

 若者のたばこ離れだなんだ言われている世の中だが、こういったなんでもない時間に少しだけの印象を付け加えることのできる最高の演出道具というべきか、まだまだその魅力に憑りつかれた若者は、表に出ないだけでたくさんいる。

「変な場所でしょ? ここ」

「まぁ、急に不審者扱いされたりびっくりしましたけど」

「ごめんねぇ。きっと、いつもあの時間に私が行くからさ間違えちゃったんじゃないかなって。前も同じようなことがあって、斎藤さん、あ、あのお爺ちゃんがさ、めちゃくちゃ謝っててさぁ」

 どうやら、今回だけの事じゃないらしい。

「そんでさ、今日も少し遅く来たらこれじゃん。あー、またかぁとか思っていたら愛奈ちゃんが前から覚えたのか空気読んでくれて助かったぁって」

「遅く来たらこうなるって、遅刻厳禁みたいっすね」

 少しだけ笑いながら真夏の夜、夜風の通りが少しだけよくなってきたがまだまだ湿気がぬぐい切れない空気の中、ゆったりとした時間が続いていく。

「本当にね。私ただの常連なのに」

「その割には結構仲良さそうでしたけど?」

「色々お世話になったからね。あのノートのこと以外にも」

 女性のどこか憂いの晴れない表情を横目で見れば、本当に色々あったんだなと察することなど容易だった。そうこう話しているとタバコはもう終わり、灰だけが残り灰皿へ捨ててもう一本に火をつける。その際に、女性にも一本手渡し、またゆっくりとした時間が流れ始める。

「だから居心地いいんだよね。あなたはどう?」

「今日来たばかりなんでわからないですけど、少なくとも今は家の洗濯機が壊れているので、しばらくはこの時間此処へ通いそうです」

 苦笑いの口元を煙で隠し、目元の皴をいつもより深く刻む。

「じゃあ、私ともよく合うかもね」

「かもですね」

 安物でもいいから早く新しい洗濯機を買わないと、日々こんなにも騒がしいコインランドリーへ通う事になるのかぁ、と少しばかりの覚悟をしつつも、それはそれで楽しいのかもしれないと不思議と前向きな自分がいることに驚いた。

 もし、あの時だらけて寝過ごしてしなければ、外観でこのコインランドリーは使用しなかったかもしれないし、利用していたとしてもこの女性の利用時間外なこともあり、あの二人が飛び出してくる事がなかったのかもしれないと考えると、本当に不思議な縁でしかない。

「そういえばさ」

 女性は最後の一吸いを終え、少しだけ深く息を吐き、たばこの残り香を惜しむように煙を捲いた。

「あなたの名前は? 常連になるんだったら名前ぐらい知っとかないと」

 こちらを見て、少しばかり口角があがっている。女性にこの表情をされると男は弱い。

「宮内です。宮内翔太」

 自分の名前を言い、女性に手を向ける。

「まぁ、さっき知りましたけどお名前は?」

「そりゃあ、相川四菜です。よろしく。それとこれ、つまらないものですが………」

 ポケットからカラカラと音をたてながら相川さんは、ブレスケアのタブレットを取り出し、蓋を開けた。

「ほら、手でして」

 相川さんは、差し出した手の上に三粒ほどタブレットを置き、自分でも一つ口の中へ放り込む。

「たばこ二本分と初めましての挨拶分」

「ゴチになりますっ」

 そういって三粒いっきに口へわんぱくに放り込む。夏の暑さも相まってか、ミントの清涼感がとてもたまらない。口の中だけ避暑地で涼みながら森林浴でもしている気分だ。

 夜の暑さもだいぶやわらぎ夜風が、我先にと通り抜け始めてくる時間帯になってきた。時間はスマホでいくらでも確認できるのだが、今だけは見たくない。このゆったりと少しだけ気だるい真夏の星空を堪能しつつ、ちょっとばかりは大人な空気に似合いもせず浸っていたい。なにせ、今さっきまでチンドン騒ぎに巻き込まれていたのだ。ひと休みといえば皆が皆、納得してくれるに違いない。

「だいぶ、涼しくなってきたっすね」

「昼間が暑すぎるだけで十分にまだ暑いよ。めちゃくちゃ蒸してる」

 蝉も泣き止まぬ夏の夜は、昼間の暑さのせいで涼しいと勘違いしてしまっているのか、それとも単に相川さんが暑がりなだけなのか、互いがそれぞれ違う景色を見ながら、合わない体温を申し訳なく摺り寄せるように気だるく話は続いていく。

「そういえば、えっとー、相川さんはいつぐらいから来てるんすか?」

「ねぇ、宮内君は何歳?」

 質問を別の質問で返されてしまった。近年スマホの人工知能でさえ、申し訳ございませんと、一言いれてくる時代なのに、聞いていないとばかりに上書きされてしまった。

「僕っすか、二十六ですけど」

「なんだ、タメじゃん! 宮内」

 いるよなぁ、同い年と知った瞬間に恐ろしいほどにテンション上がるやつ。相川さんも例にもれずというか、上位にはみ出している気がする。テンションのあがり方がエグい。

 急に、こっちを見て目をキラキラさせてきた。

「タメなら、さん付けとかやめろよ。相川でいいよ。因みにいつ生まれ?」

「十一月だけど」

「よし、じゃあ十月生まれの私が年上だな。言う事聞けよ」

「はいはい、相川おばさん」

 相川のあまりのテンションのあがり方に若干戸惑いつつも、まぁ、この先このコインランドリーで会っていくのだから、別にいいかと渋々納得する。

「次言ったら、たばこ一箱ね」

「せめて本単位でお願いします」

「絶対にまた、おばさんって言う気じゃん」

「すご、正解」

 無表情で驚きながら相川に人差し指を向けてみる。そうすると、それに応えてくれるかのように、ドヤ顔で返してくれるあたり、やっぱりノリがいいなとしみじみ実感する。

「因みに前払いはいける?」

「どれくらい、いこうとしてるの?」

「とりあえずカートンで」

「ごめんだけど、まとめて払いでお得なシステムはないんだわ」

 どうやら、お得になるキャンペーンもやっていなかったらしい。これじゃあ、まとめて渡しといて数をちょろまかすこともできないな。もしかすると、相川は中々に頭の回転が速いのかもしれない。

「ちょろまかそうと思ったのに。せめてサービスライターくらいは欲しかった」

「正直に言ったからって別にサービスとかないから。ほら、正直者はバカを見るってよく言うでしょ」

 してやったりと、目を細めいたずらっぽく笑う相川の顔は、随分と幼く見えたような気がした。ついさっきまでの相川はこう、少しまるっこい綺麗というよりかはきっと可愛いとされる部類の顔立ちなのだが、もしかするとそれも影響しているのかもしれない。

 そういえばと改めて相川を見てみると、雑なポニーテールのように結ばれた黒い髪の毛に、百七十ほどある自分の身長の肩まではある女性としては平均的で、体型もだるッとしたスウェットを着てはいるが、だらしない訳ではなさそうだ。つまりあれだ、そうとても平均的な仲良くなりやすい異性って感じのド真ん中的女性だ。

 ………いや、まてよ。もしかして今ものすごく失礼なことを考えてないか? 初対面の女性に対して。

「なに、じっと見てきて」

 アニメや漫画の女性はこの場合ジト目をしてくる展開が多いのだが、現実はそう甘くはなく、相川は鋭い眼光で睨んでくる。蛇に睨まれた蛙なんて言葉があるが、まさしくその言葉を体現したかのような構図が出来上がってしまった。

 ヒヤッと背筋に涼しい悪寒がはしってくるあたり、もしかすると今の夏には丁度よく涼しくなれそうだ。だが、その場合きっと冷やすのは体ではなく肝なのだろう。

「特に別になにも見てないけど?」

「なに? 初対面の女の体をいやらしい目で見てたの?」

 男は大概いやらしい目で女性の体を見るような気がしなくもないが、相川の表情がさらに険しくなったので言うのはやめておこう。鬼の形相とはまさしく今の相川の事だろう。眉間にしわが寄り始め、怒りの念が背後からにじみ出てきている。将来結婚して子供を授かったら、鬼嫁になるに違いないだろう。

「何の感情もなく見てた」

「なんか、それもそれで嫌だな」

 鬼の形相をなくした相川は腑に落ちない様子ではあるが、腑に落ちてくれたらしい。どうやら命は助かったようだ。

 そういえば、ただタバコを吸いに外へ出ただけなのに随分と話し込んでしまっている。しかも、話し込んでいる相手から逃げたいがためにタバコを吸おうとしていたのだからおかしすぎるものだ。

 少しだけ風通しがよくなった真夏日の夜、少しだけボロついたコインランドリーを背もたれに、こうして同年代と話し込むのも中々に悪くはないどころか、相川の話をする聞く能力が高いからか、ポンポンと話が弾みながら進んでいく。異常なまでに心地よい。どうせならどうせならと、相川とずっと話していたい、きっと飽きないと新しいおもちゃを買ってもらった子供の様な気持ちまで出てきている。

「あっ、愛奈ちゃんがこっちみてる」

 そんな気持ちとは裏腹に、お店の中で女の子が手を振って、たばこ組二人を手招いている。見ていてものすごくほっこりする。今だけは保育士にでもなれそうだ。

「呼ばれたし戻るか」

「そろそろ、またエアコンの風にあたりたかったし丁度いいね」

「確かに僕も」

 戻ろうとした雰囲気だったが、なぜか相川がこっちを見てニヤニヤしている。

「なに?」

「いや、宮内って自分の事、僕って言うんだ」

 確かに成人男性で一人称が『僕』という人は出会ったことがない。きっと、僕以外は俺と言っているに違いないから絶滅危惧種なのだろう。

 実際、僕も自分以外で使っている人を聞いたことがない。きっと、相川の周りにもいなかったのだろう。その、物珍しさからか目を輝かせている。口元はいまだにニヤついてはいるが。

「そんなどうでもいいだろ。ほら、戻ろう」

「そうだね、僕ちゃん」

 違った、絶対に違った。相川は物珍しいからニヤニヤしていたわけじゃない。おそらくさっき、おばさん呼びしたことに対してのちょっとした反撃をしたかったのだろう。それを証拠づけるかのように、相川はどこかしてやったり感が表情にでてしまっている。

「次から、たばこ一本な」

「お買い得セットは?」

「その時の気分で」

「時価相場かぁ。プロ意識高いね」

 いったい何のプロ意識なのかと聞きたかったが、おそらく意味なんてない反射のみで言っていることなのだろうと察した。こういった会話の時は相川の様なノリと反射スピードがなによりも大事なのだ。

 そんなことを話しながら店内へ戻ると、乾燥機はすでに仕事を終えており店内は機械音すらなく、どこか寂しい空気に包まれているはずだったが、女の子が相川へ駆け寄って抱き着いてきており、微笑ましい空気で包まれはじめた。

 それにしても本当に相川になついているんだなと、つくづく思う。

「しいなおねちゃん、何話してたの?」

「えっとねー、大人なお話」

 どこから出てきているのかわからないほどに優しい笑顔で、あながち間違っていないことを相川は、女の子の頭をなでながら話している。

「うわ、おねちゃん。えっちだ!」

「えー、どうしてかなぁ」

 女の子はませているとよく聞くが、実際目の当たりにしたのは初めてだ。

「だって、おとなのおはなしって」

「お勉強のお話だよ」

 相川のその言葉を最後に僕は、ぷっ、と笑いが出てしまった。確かに、大きな括りで言えば人生勉強のような話をしたかもしれないが、いや、すみませんとばかりに我慢せずにはいられなかった。

 しかも、相川は少しひきつった笑顔で女の子に話していたのがまたこうツボに入ってしまい我慢をしようにもできなかった。そんな、相川が一瞬僕を鬼の形相がごとく睨んでいたのはきっと気のせいか、本当だとしたら照れ隠しの一環に違いない。

「すごい!」

 女の子はたやすく信じた。将来がとてもじゃないが不安で仕方ない。

「大人だからね」

 なんとか難を脱した相川が、ほっとしているのが手にとるように見える。僕自身もあの立ち位置に居たら、まったく同じようなことになっていたに違いない。

「ねぇ! えっと………」

 女の子は、どうしてか僕の所へ視線を移して話しかけてきた。言葉に詰まっているのか話が進まないなと困惑していると相川が耳打ちで、名前、と言ってくれたので、そうか、自己紹介していなかったなと、なんとも言い難い自分なりの笑顔で話し始める。

「宮内です。宮内翔太」

「はい! なぎはらあいなです!」

「よろしくね、愛奈ちゃん」

 この子は、斎藤じゃないんだな。とか思いつつ見ていると、愛奈ちゃんは僕に見えるように左手で四と見せてきた。可愛い。これが子供の可愛さなのか。そりゃ、大人は子供が欲しくなるわけだ。だって、よく知らない他人の子ですらこんなにも可愛いのだもの。自分の子供になったら言葉にできないほどかわいいに決まっている。

「これ!」

「四才かな」

「ぎりせいかい!」

 愛奈ちゃんは満面の笑みでそういうが、何がギリなのだろうか。

「そ、そうか。ギリ四才なんだ。すごいね」

「そう! ぜんぶぎり!」

 今さっきよりも、眩しいくらいの輝かしい純真無垢な笑顔で愛奈ちゃんは言うが、もし本当ならば、四才にして人生全ベットのハードな道を歩んでいることになる。

 だがさすがに、そんな事はないだろう。きっと、あれだ。子供が新しい言葉を覚えた時にやたらと使いたくなるあの現象だろう。そうじゃないと、愛奈ちゃんはとんでもない茨なんて生ぬるい世界をこれから生き抜いていかなくてはならない事になる。

 ふと、ここで好奇心というか、怖いもの見たさというか、悪知恵というか、すべてを含んだ出来心が生まれてしまい、僕は愛奈ちゃんにひとつの質問をしてしまった。

「ねぇ、愛奈ちゃん。四菜お姉さんは綺麗?」

「うん! ものすごくぎりきれい!」

 えへへ、と嘘偽りなく笑いながら愛奈ちゃんが言う姿に、思わず噴き出しそうになってしまい、顔をそらし口元を塞いで噴き出すのをこらえる。

 しかし、この子わかって言っているのではないかと思うくらいには、ギリの入れ所をわかっている。これが天然だというのであれば、とても末恐ろしい子だ。

「じゃあ、愛奈ちゃん」

 見ていないからわからないが、声色でわかる。めちゃくちゃ怒りを抑えている人がいる。一気に血の気が引き、笑いもどこかに消えていった。今度は恐ろしくて隣を向けない。

「宮内お兄さんはかっこいい?」

 まぁ、そうだよな。と思いつつも、相川の声色がどんどん怒りを抑えきれてなくなってきている。

「えっとねー」

 そういって、愛奈ちゃんはしばらく考え始めた。

 そりゃそうだ。なにせ、今日初めて会ったばかりの言ってしまえば見知らぬ赤の他人だ。すぐに反応できるわけないだろう。など、考えつつもかっこいいと言ってくれることに少しだけ期待している。もちろん、ギリ付きでだ。

「ぎりみやうち!」

 どこかに消えた笑いが、放浪の末に成長して戻ってきたおかげで、盛大に噴き出してしまった。しかも、相手を連れて顔を見せに戻ってきたおかげで相川も盛大に噴き出している。さすがに、ギリ宮内に対する準備はしていなかった。

「僕、ギリなんだね」

「うん! ぎり!」

 今日一番の穢れのない笑顔にとどめを刺されてしまい、僕と相川はしばらくの間、笑いが収まらなかった。

 なにせ、僕はこの子にとって本当の宮内ではないらしいのだ。きっと、情状酌量の余地在り的な感じな宮内なのだろう。もしかすると宮内を名乗るには、今から本当の宮内に会いに行って名乗りを得る許可をもらわなければならないのかもしれない。

「ねぇ、愛奈。おじいちゃんはかっこいい?」

 ここでずっと微笑ましく様子でずっと座りながら見ていた、男性が自分の事を指さしてニコニコしながら愛奈ちゃんに質問した。参加したかったのだろうが、よく聞くになったな。

「うん! ぎりおじいちゃん!」

 またしても満面な笑顔の愛奈ちゃんの言葉を最後に、僕と相川はしばらく笑いが止まらず、男性は開いた口が閉まらずにいた。

 それから、笑いが収まり平静を保てるようになるまで相川と互いに肩を支えあい、まるでスポーツ漫画の友情を確かめあうような姿勢になってしまった。

「なかいいね!」

 愛奈ちゃんはその時だけ、なぜかギリをつけなかった。やっぱり、わかって使っているのではないだろうか。末恐ろしい子である。

 更にここからしばらく時間が経ち、相川と僕はようやく笑いを収めることができ、互いが互いにかなり疲弊しきっていた。

「ちょっと、座ろう」

 相川の提案に、こくっとうなずき返しそのまま、なだれ込むように椅子に座る姿は、フルマラソンを完走した選手の様な貫禄は持ち合わせていた。

「まさか、この歳になって笑いつかれることがあるなんてね」

「本当に疲れた。私、明日も仕事なのに」

 もう時間は二十二時を少し過ぎた頃合い。こんな夜遅くまで笑えるとは、幸せ以外の何物でもないが、歳を重ねると相川の言う通りどんな類の疲れであろうと翌日に響くのがつらい。

 しかし、愛奈ちゃんはこんな夜遅くまで起きていてよいものなのだろうか? そう思っていたのは相川も同じらしく、男性へ声をかけていた。

「斎藤さん、斎藤さん。ショックを受けえるのはいいけど、もう夜遅いから愛奈ちゃんを寝かさないと」

 その言葉というよりかは、孫の名前に反応してだろう、ショックから瞬時に立ち直り、そうだったそうだった、と愛奈ちゃんを抱っこをする。

「ほら、愛奈。寝る時間だぞ。そろそろ、二人にバイバイしよう」

「はーい」

 愛奈ちゃんは素直ないい子だ。男性に抱っこされ、バイバイと笑顔で手を振ってくれた。

 子供が欲しくなってしまう。もう、1人はいてもおかしくない年齢がゆえにより、現実味を帯びてほしくなってしまう。まぁ、まずは相手を見つけるところからなのだが。

「はぁ、愛奈ちゃんカワイイ。マジで癒し」

 相川は愛奈ちゃんと男性の姿が見えなくなると、頬をつきながら深いため息を吐きスマホをいじり始める。

「あんな素直ないい子見ていると、子供ほしくなっちゃうよな」

「わかってるじゃん」

 そう言いながら相川は、連絡先コードが映ったスマホ画面を、ほいっと見せてきた。

「宮内、悪そうな人じゃないだろうし」

「相川よりかはな」

「ちょ、なにそれ。連絡先の名前、変なのにするわ」

 連絡先を交換した早々に、相川のスマホの中では僕は宮内翔太ではなくなるらしい。どうせ、変な名前といっても、僕ちゃん、あたりをつけるんだろうなと、検討は大体つく。

「じゃーん」

 かなりの速さで名前変更ができたらしく、スマホ画面を誇らしく見せてくると、画面には、僕ちゃん、と予想通りの名前が付けられたプロフィールが映っていた。

「相川、もう少しひねったりしろよ。わかりやすいなぁ」

 思った通り過ぎて、少しだけ笑みがこぼれてしまった。

「いや、流石に他の候補は失礼かなって」

「他って?」

「下僕、とか?」

「アニメにでてくるオタクが妄想した陽キャ女子高生みたいな発想だな」

 それな、と相川も思っていたらしく、また二人で笑ってしまった。もしかすると、相川と僕は、幾分かゲラなのかもしれない。少しの事で笑えるのだから幸せ者には違いないのだが、どうあがいても笑いつかれてしまうのが難点過ぎる。

「それだけ感覚が若いってことだね」

「いや、おっさんって事だろ」

 世の中に存在している作り物の若者たちは、そのほとんどがおっさんたちが生み出したものだと、前にテレビで見たことがある。

 つまり、この発想ができる相川はおっさんという事だ。

「せめて、おばさんで」

「ふっ、はいよぉ」

 両手をあわせて頼む相川を見て、思わず笑ってしまった。

 今日は思わず笑ってしまうことが多いな。数時間前までは真夏日の中、洗濯機を元に戻せなくなって絶望と面倒くささで気だるくなっていたとは考えられないほどに、今は楽しんでいる。

 初対面なのに相川とは何故か、砕けた見も何もない話ができる。とても不思議だ。おかげさまで時間がどんどん溶けていく。同い年だからなのか、それとも相川の人のよさなのか、きっとどっちもなのだろうけど、こんなに話し込むのは久しぶりだ。

「あー、もうこんな時間じゃん」

 相川がスマホ画面を見ながら言うので、僕も自分のスマホ画面を見るともう二十三時を過ぎていた。今さっき見た時は二十二時過ぎぐらいだったはずなのに、本当に時間が進むペースが速く感じる。

「じゃあ、お互い帰るか」

「うん、私も寝たいしね」

 お互いに、ダラダラと話しながら、とっくに稼働が終わっている乾燥機からランドリーバックへ衣服を取り込む。

「じゃっ、また」

「ねっ」

 ほとんど初めてのコインランドリーだったが、まさかこんな出会いがあるものかとしみじみ思いながら帰路へつき始めた。

「は?」

「へ?」

 なぜか、横に相川がいた。しかもお互いに、なんで? と目が合う。

 おかしい。僕は自分の住んでいるアパートへ帰ろうとしたんだ。けして、相川をストーキングしようとした訳ではない。

「おい、ストーカー」

「言うと思ったけど、違うからな。僕は帰り道がこっちなだけだ」

 予想通りの事を相川が、上目遣いで睨みがら言ってくる。

 上目遣いって普通、可愛いものじゃないのだろうか。こんなにも、恐怖を感じたのは初めてだ。メンチをきるのがうますぎないか? 下手したら、今ここでちびって余計な洗濯物が増えてしまうところだ。

「マジで、私も」

 睨み続けながら相川が言う。怖いです、相川さん。

 絶対に信じていない。しかも、出会ってから感じたことのなかった距離感の壁が今は急速に成長しているのがわかる。

「へぇ、じゃあ一緒に帰ろうよぉ」

 異性からの同伴のお誘いでこんなにも、断りたいものは他にないだろう。

 この誘いは、よく青春漫画などで見る甘酸っぱい物なんかでは決してなく、一緒に帰る提案をしつつ本当にストーキングじゃないのかどうかの監視の意味での、お誘いだろう。しかも、ずっと上目遣いで睨みを利かす器用なこともしている。半端ないです、相川さん。これでは、今日の夢に出てきてお布団の上に世界地図ができちゃうかもしれない。それくらいには本当に怖い。

「そ、そうだな。この時間に女性一人は、危ないもんな」

「本当だ、ねぇ」

 とんでもなく含みのある言い方で、相川はずっと僕の事を睨んできている。

 周りから見たら、上目遣いで見つめられているとでも思われるだろうか。そんな、いちゃいちゃ甘酸っぱい状況ならば最高に怖がらずに済んだ話なのに。

「それじゃあ、帰ろうか」

 相川は、当たり前なのだがとんでもなく警戒して無言のまま、僕の横を歩いている。ランドリーバックひとつ分。知り合って間もない人との距離ならばむしろ近いまであるが、今はものすごく遠く感じる。しかし、この距離感が僕の命を救ってくれているのかもしれないと考えると、ランドリーバックへ最大限の感謝を伝えなければならない。

「あ、ちょっと待って」

 ふと、自販機の前で止まった相川に呼び止められる。

「たばこのお礼に好きなの買ってあげる」

 あんなに警戒していたのに、根は真面目で優しい人なのだろうな。その性格がにじみ出ている気がする。

「お礼って、もう貰ったけど?」

 しかし、僕はもう相川からお礼をもらっている。煙草二本ぐらい、そもそも大して気にすることでもないし、別に相川から迫られて煙草をあげたわけじゃない。

「あれはその場のお返しで、今はお礼」

「屁理屈だなぁ」

 相川然り、こういった場面での女性の口のうまさにはいつも流されてしまう。

「いいから、早く選んで」

 はいはいと、つぶやきながら自販機を見る。

「じゃあ、これ」

「本当に?」

 相川が、小馬鹿にしたような目でこっちを見てくる。しかも、口元も抑えているし、絶対に笑いだしそうなのを我慢している。

「まぁ、確かに体型とかよくはないもんな」

「何が言いたいんだよ」

「はい、頑張れ」

 今までの気迫はどこへ消えたのやら、ほくそ笑みながら相川は自販機から取り出した、脂肪を気にするあなたへお勧めと謳い文句でたちまち人気になった『健康茶』を渡してくれた。

「………ゴチになります」

「私もなにか飲もう」

 夏の夜の暑さのおかげで、今さっき買ってもらったペットボトルがもう汗をかき始めている。それだけ、中身が冷えているのか、外が蒸し暑すぎるだけなのか。

「あ、それ」

「なに?」

「お前も健康茶じゃないかよ!」

「違いますぅ。これはジャスミン茶版だから、同じなようで同じじゃありません」

 ふと、相川の手にある健康茶を見ると、確かにパッケージは色合いやデザインが若干は違うものの、ちゃんとパッケージに『健康茶』と書いてあった。要するに、味が違うだけで同じである。そう、同じ健康茶であることは間違いない。

「また、屁理屈かよ」

「事実なんだよなぁ」

 頑なに同じ健康茶であることを認めたくはないらしい。何故だろう。というか、僕もなのだがお互いに実は体型を気にするような、俗にいうぽっちゃりボディではない。まぁ、大人の嗜みというか、年齢的にもあと少しで三十代に差し掛かるせいもあってか予防には念がない。おそらく、相川も同じなのだろう。

 そんな、相川は本当に喉が渇いていたのだろう。ごくごくと喉を鳴らしながら、見ていて物凄く気持ちよくなるぐらいの飲みっぷりを見せてくれた。一気に、五百ミリ容器の半分はなくなっていた。

「いい飲みっぷりだこと」

「でしょ。惚れんなよ」

 もしこれが、初対面じゃなく、何回も話したりしていた間柄くらいの仲だったら惚れていただろうなと思わず思ってしまった。なにせ、仕方がないことだ。さっきまでどこに隠していたのやらと呆れてしまうぐらいに、無邪気で満面な笑みをするのだから。お茶一本で、そこまでの笑顔出せるか、普通。

「そんな惚れやすくねーよ」

「くっそー。惚れてくれれば、ストーカーとして突き出せたのに」

「まだ、諦めてないのかよ」

 悪戯っぽく笑う相川に、本気で惚れそうになってしまった。惚れやすくないはずなのにな。これじゃあ、本当にストーカーとして突き出されてもおかしくなくなってしまう。まったく、隙も何もあったりしない。

 そんな、気分を少しでも誤魔化そうと、僕も一気に半分ほど飲んで冷たさをかみしめた。

「あー、冷てぇ」

 思った以上に冷えていた健康茶に感動すら覚える。この夏の暑さにはもってこいの冷え方だ。

「相川、ありがとな」

 いつの間にか相川からの睨みがなくなり、本当についさっきまで成長していた壁も、どこかへ消えていた。おかげさまで、その唐突にでてきた無邪気な笑みに惚れそうになりかけて、ストーカー立件されるところだったが。

「できる女だからね」

「やるじゃん」

 ノリの軽さが妙に合うおかげか、いちど話し始めてしまうと、そこそこの時間が経ってしまう。ノリの軽さが合わさるとこうも軽くなって弾みに弾むのかと、戦々恐々する。

「今度は、僕がお返ししないとな」

「お待ちしております、高級品」

 ありがたやー、と両手を合わせて、まるで僕を拝むようにしてくる相川を見て、なんら意味もなくツボにはまってしまったのか、僕は少しだけ笑った。

「高級品かぁ。焼肉とか?」

「しゃぶしゃぶで」

 おそらく、相川は遠慮なんて言葉とは無縁なのだろう。それか、他人の少しの優しさをも受け止める寛大な心を持っているのかもしれない。

「時間が合うときにでも、おごらせていただきますよ」

「じゃ、後で確認して連絡入れるわ。さ、帰ろ帰ろ」

 まるで、予定調和かのようにトントン話が進んでいき、僕は流されやすいのかもしれない。と、戒めのように心の中でつぶやいた。

「はいはい」

 戒めながらも、諦めと妥協も時には大事だとつい夕方ぐらいに洗濯機で学んだばかりなので、しゃぶしゃぶを奢ることを飲み込んだ。

 そこからは、半分ほど残った健康茶をランドリーバックに入れて、夜もだいぶ深くなったこともあり二人して少しだけ早く歩いている。

 しかし、夏に限らずにこんな時間に外を出歩くなんて、随分としばらくなかった。大抵は次の日が仕事で体力がどうだの、そもそも友人とは時間が合わずにチャットだけのやり取りをしていたり、趣味もお金と時間がなくてできなくなったり、色々とゆっくりする時間がなかったからすごく不思議な時間だ。

 たまには、こんな時間も必要なのかもしれない。おそらく、これからしばらくはコインランドリーへ通わなきゃいけないから、無理やりにでもこんなゆったりした時間はとれるだろう。

「それにしてもさ、いつまで付いてくるの?」

「本当にな。どこまで、一緒なんだか」

 もう、僕の住んでいるアパートが見えている。まさか、ここまで一緒とは思いもしなかった。

「あそこ、僕の住んでいるアパート」

「………は?」

 相川がなぜか少し切れ気味なのかはわからないが、困惑もしていることは確かだ。

 もしかしてこれはあれか? 実は同じアパート住んでいました的な、二十一時ぐらいから始まる少し大人なラブコメみたいな展開がはじまるのか? など考えてはいるが、全部で四部屋しかないアパートと呼んでいいかすらわからない古めかしいところだ。もし、同じアパートに住んでいたのなら嫌でも面識を持つ。現に、隣りのおじさんとは中々なお隣さん付き合いをしているし。

「あのさ、私の住んでいるマンション。あそこ」

 そう言いながら、僕と同じように指をさしたのは、最近建ったばかりのこぎれいの隣のマンションだった。

「………は?」

 くしくも、相川と同じ反応になった事はとても悔やまれる。

「マジで?」

「ここで私が嘘つく必要はないからね」

 いや、あるよ。と言おうとしたが、わざわざ隣のマンションと嘘つく必要はないなと、相川に、確かに、と同調する。

「相川、お前、金持ちだったんだな」

「最初にでてくる感想がそれなの?」

 相川がものすごく困惑した表情で僕を見てくる。

 僕だって、本当は他の事を思ったりはしたが、隣りのマンション綺麗だけどその分高いんだって。住んでみたいなぁ、と隣のおじさんと、昨日あたりに話していたこともあり、つい口走ってしまった。

「いや、昨日ご近所さんと話してたからつい」

「何を話し………もしかして、私の事を! ということは、やっぱりストーカー!?」

「違う違う。マンション建ちましたねぇ。家賃高いらしいですねぇって」

 どうしても、僕をストーカーにしたいらしい。

 そんなにストーカーみたいな顔とか雰囲気があるのかな、僕って。

「なんだ、普通」

「何を期待しているんだよ」

「え、因みにそっちは家賃いくらなの?」

 急に話を切り替えるのは、天下一品だと思う。偏見に放ってしまうのだが、相川だけじゃなく女性って急に話のかじ取りを、走り屋も真っ青なテクニックで行うときがあるから、ついていけなくなって事故ってしまうことが多々ある。こんなことをこのご時世に言おうものなら、差別だのなんだのと正義と厚化粧をした人たちにどやされてしまう。

「三万きっかりかな。和室と洋室があってトイレ風呂別で」

「めっちゃ安いじゃん」

「だろ。けど、そっちと違って築年数とか結構あるからセキュリティとかは怖いぞ」

「やっぱりそこかぁ」

 家賃の安さに一瞬、相川は目を光らせるがセキュリティなどを考えてすぐに現実と向き合う。

「そっちはどうなの?」

「そっちに比べればもちろん高いけどさ、そんでもないよ」

 新築であることやそれこそセキュリティなどを考えると高いとは思うのだが、相川を見るにそれら込みでもトントンぐらいなのかもしれない。

「八万ぐらいだよ」

 この地域では高級物件だった。しかし、新築と考えれば安いのかもしれない。

「たかっと思ったけど、新築だと考えたら安いか」

「でしょ。部屋も案外広いし、全部洋室だけど何部屋かあるし、トイレとお風呂はもちろん別だし。まぁ、いいかなって」

「いやぁ、でも羨ましい限りだよ。貧乏人には手が得ませんわ」

 お隣物件の家賃格差が、約三倍もあるとは思いもしなかった。

「カツカツだけどね」

 あはは、と苦虫を噛み潰したように笑う相川を見て、どこも苦しんだなと思い知らされる。

 そうこう世間話をしていると、相川の住んでいるマンションの前までたどり着いていた。

「なんで、マンション前まで着たのよ。宮内のアパートの方が手前でしょ」

 ここまでコインランドリーからほぼ一本道で来れるのだが、僕の住んでいるアパートの方が若干だが近いというか手前側なのだ。だからこのマンションまで来るには一度アパートを通りすぎなければならなかった。

「そりゃ、ほらあれよ」

「なに」

「女性がこんな夜に出歩くとか、短い距離でも怖いと思ってさ」

「なんだ、ストーカーじゃん」

 相川には、僕の言葉が伝わらないらしい。だけど、そんな相川の表情は今日見た中で一番屈託のない無邪気な笑顔をしていた。

 ずるいな、それ。

 惚れる惚れないを抜きにしても、表裏のない人の笑顔は惹きつけられる。

「じゃ、またな」

「また、コインランドリーでね」

「あいよー」

 相川がマンション内へ入っていくのを見届け終わると、どっと疲れが体を襲ってきたおかげで、さっきまで何とも思わなかったランドリーバックがやたらと重く感じる。

「早く寝よ」

 適度に汗をかいたおかげで、本日二度目のシャワーを浴びることが自分の中で確定し、シャワー後の気持ちい睡眠をまたとれると考えると、少しばかりは気が楽になって前向きになれた気がする。

 家に帰ったらまずは、冷房をつけて部屋を涼しくしよう。それでシャワー後に、うわーなにここ天国じゃーん、って開放感と罪悪感にまみれてそのまま寝たい。

「ん?」

 家に着き、玄関にランドリーバックを置いて、スマホを確認すると相川から、『ありがとうストーカー』と、チャットが来ていた。

「まだ言ってるよ」

 半分笑いながら『早く寝なおばさん』と返事を送ると、すぐに怒ったキャラクターのスタンプが返ってきた。

「ふぅ、シャワー浴びよ」

 適当にスタンプを送り、スマホを部屋に放り投げる。そしてそのままシャワーを浴びに浴室へと向かう。

 浴室前に設置してある、もう二度と動くことのない洗濯機を見て、今日こんなことをしなければコインランドリーへ行かずに、今まで通り一人で過ごしてもう寝ていたんだろうなと、思い更けてみるともしかすると悪くなかったのかもしれない。手痛すぎる出費には変わりないのだが。

 そう考えれば今朝のワイドショーの特集をたまたま見たのも、特別に思えてきて仕方がない。しかも、絶妙にやる気を起こさせてくれる内容が内容だっただけに、これもまた運命みたいなムズかゆく恥ずかしい、何かに背中を押し動かされていたかのかもと、年甲斐もなく考えてしまった。

 きっと、疲れてるんだ。今日はもう、早くシャワーを浴びて寝よう。

 そんな事を考えながら、脱いだシャツをいつもの癖でランドリーバックへ放り投げ入れてしまった。

「………あ」

 洗濯しなおしに、明日もコインランドリーへ行こう。そして、間違いないように会社帰りに新しいランドリーバックも買おう。

 なんとか最高に一日を終われると思ったら、やっぱり今日は踏んだり蹴ったりだ。

 そんな事を思いながら僕は自嘲気味に空笑いし、シャワーを浴びながら大きくため息をついた。

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