第31話 火消し壺

 涙で足元がおぼつかない冬陽は、神那に添われて大広間へと戻っていった。

 床板を嵌め終えた恭太郎がどっせいと畳を戻す。奥座敷はなんの変哲もない座敷にもどった。ここに残った浅利父子、恭太郎、総一郎、一花、森谷は最後に一度合掌し、ようやく奥座敷をあとにする。

 大広間までの道すがら、将臣は首をかしげた。

「陽菜さんも奥座敷で育てられていたんですか。精神障がいといっても、冬陽さんの妹なら現代医学の力で治療できたでしょうに。昔ほど偏見や差別があるとはおもえないんですが……」

「おまえは甘えた環境で育ったなぁ、将臣。お山の修行だけじゃ人の世の過酷さは学ばなんだか」

「…………あいにく、おれの周りは身内を除けば常識的で良心的な人間性を持つ方ばかりなんです。類は友を呼ぶのかもしれませんね」

「たわけ。いいか、いくら社会が優しく変わろうとも、人間がそれに呼応せねば意味もない。都心に近ければ近いほど、時流の変化に敏感ゆえ適応能力も高いだろうがね。こういった山深いところでは、そうそう変化するのも難しいものだ」

「人と山じゃあ、流れる時間も違うでしょうからねェ」

 と、総一郎が、的はずれな回答を寄越した。

 しかし博臣は気に入ったようで、その通りだよと上機嫌にうなずく。

「相良家の人間というのは、みな大なり小なり、感情の発露が激しくなることがあるそうだ。宏美さんも睦実さんも、見ていてその気があったろう。見方を変えれば、個性のひとつにも捉えられる。とくに陽菜ちゃんは生まれつきそういった面が強く出ていたらしい。周囲──睦実さんたちにすら死産だったと伝えて、戸籍もないまま育てていたんだと。だからこそ事件後は、文字通り、なかったことにされたのだな」

「ひどい話」

 ムッ、と一花が下唇を突き出した。

 博臣は自身の頭をつるりと撫でる。

「童子守の秘密は、春江さん親子とミチ子さんのほかは、原田さんしか知らなかった」

「原田さん?」

 おもわずこぼれた。

 そうだ、と博臣が苦笑する。

「彼がいったいいつから、どこまでわらし様と童子守の関係性について知っていたのか、詳細は分からん。冬陽さんと陽菜ちゃんのことは知っていたそうだがね。ただ──彼のなかにひとつ、確固たる思いがあったことには間違いないだろうな」

「…………?」

「──童子守を護ることさ。彼はミチ子さんと冬陽さんを、ただ、護りたかったんだろう。奥座敷には秘密がありすぎる。秘密を知る者、つまりわらし様を生み出した童子守以外、だれひとりとして奥座敷に近づかぬように」

 護っていたんだ──と。

 いう言葉を最後に、博臣は閉口した。

 ホウ、と総一郎がちいさく息を吐いた音が廊下に響く。


 一方、来巻と風見によっておこなわれた原田の事情聴取によって、宏美の殺害後に返り血を浴びたためにシャワーを浴びたこと、淳実についても自らの手で崖下に落としたことが明らかになった。その動機はいずれも『わらし様を軽んじる発言をしたため』──。

 当然、容認できないとし、来巻たちはなおも動機を引き出さんとしつこく問い詰めたが、彼の供述は一貫して変わることはなかった。

 囲炉裏の間にて、制服警官の唐木田と葬儀社の井佐原に見守られていた淳実は、すべてが終わったころに目を覚ました。からだの不具合は感じられないとのことだったが、念のため夜が明けたらすぐに病院送致を決められた。彼は頭部への衝撃のためか、一時的に短期記憶を消失しており、転落についての証言は現状得られてはいない。が、うわ言のように

「わらし様だ──わらし様」

 とつぶやき続けるばかりであった。

 博臣曰く、おそらく彼は、口でこそ否定したものの、かつて何かしらのかたちでわらし様の存在を感じたことがあるのだろう──とのことだった。

 雨は夜通し降り続く。

 公務執行妨害に加え、あらたに殺人容疑と殺人未遂容疑によって原田を再逮捕とした警察であるが、夜中であること、さらには豪雨のなかでの下山は安全を確保することができないとして、ここ相良邸にて一泊することが決定。警察諸氏交代での見張りのもと、原田の希望により、彼は奥座敷で最後の夜を過ごした。


 ────。

 寝る部屋をうしなった心咲は、冬陽や神那、一花が泊まる部屋で寝るという。時刻は日を跨いだ午前一時。つい十数時間前に葬儀のためやってきた者たちはみな、割り当てられた各部屋にもどって就寝に入る。

 制服警官の唐木田は、葬儀屋の井佐原がいる大広間のとなり、葬儀会場に使用した大部屋でからだを休めるという。刑事である来巻、一ノ瀬、風見は見張り役が奥座敷前に待機し、ほかふたりは大広間で仮眠をとるということだった。

 さて、囲炉裏の間である。

 就寝前の最終確認として、春江が家のなかをめぐるというので森谷もついてきた。いちおう容疑者は逮捕されたが、念のための護衛もかねている。ひと通り見終えた最後に、ここ通り土間に面した囲炉裏の間へとやってきたのであった。

 春江は火箸で器用に炭を取り出し、火消し壺にいれてゆく。

 ぼんやり観察しながら森谷は大きく伸びをした。

「いやホンマに、えらい夜になってしまいましたね」

「ほんとうにごめんなさいね茂樹くん。とってもご迷惑をかけてしまって」

「いや、そんなのは。春江さんのせいとちゃうやないですか。こんなもんはもう──なんちゅうか、だれのせいでもないっちゅうか」

「でもやっぱり……相良の業なんです。きっと」

 ぽつり、と春江はつぶやく。

 火消し壺のなかにまたひとつ、炭が落とされた。

 二十数年前、森谷は初めてこの家に足を踏み入れた。あの日、まだ子どもだった自分にはこの家が抱える闇などなにひとつ見えなくて、ただ、虫に食われた足の痒さとからだに残った重だるい疲労感だけを感じていた。

 出迎えた女性は大きなおなかを支えて、涼し気な瞳を細めてこちらを見下ろした。

 ──茂樹くんというの。よろしくね。

 ──ほら、ご挨拶して。

 スカートから生えた生白い両脚の隙間から、まだよちよちとおぼつかない足取りでちいさな顔を覗かせた少女。

「ああ」

 森谷がつぶやく。

 火消し壺のなかにまたひとつ、炭が落とされた。

「あれ、冬陽さんやったんや」

「え?」

「オレらがお邪魔したあの日。春江さん、おっきなおなかで出てきてくれはって、あれついさっきまでは、てっきり冬陽さんがお腹にいてたと思うたけど──あれは、妹の陽菜ちゃんやったんですね」

「…………嗚呼。冬陽から聞いたんですってね、陽菜のこと。そう、あれは、そんな時期だったっけ。そう。そうねえ」

「お辛かったでしょう。陽菜ちゃん、亡くされたときは。その、経緯は聞きましたけど」

「……つらかった、けど。でも、でもだめね。私もやっぱり相良の人間なんだわ。あのとき、陽菜をころしたと母から聞いたとき、私は心のどこかで──然るべきことだとおもっていた。仕方のないことだと、おもってしまったような気がする」

「…………」

 春江は、最後の炭を壺へ落とし、蓋をする。

 森谷は虚空を見上げてから、背筋を伸ばした。

「原田さん。彼は、どういう経緯で相良の家に入ったんです?」

「え? ええっと。あの人は──私と冬陽が家を出るすこし前に来たんです。父がそのころに亡くなったものですから、当時うちの主人は単身赴任でおりませんでしたし、男手がないと何かと不便でしたしね。林業にもくわしい人がほしいって母がどなたかにお願いしたみたいで」

「へえ。ご縁ですねえ」

「ちょうど会社をやめたばかりだったそうです。ほんとうに真摯に相良家と向き合ってくれた人でした。母にも私たち親子にも優しくて──彼、軽度の発達障害だそうなんです。見えないでしょう? ほんとうに私たち相良の人間よりよっぽどしっかりして、心遣いに長けた方なんです」

「じゃあ陽菜ちゃんのことも知って?」

「……死体遺棄も手伝ったそうです。彼はどういうわけか、母の意見を第一に尊重していましたから、母に手伝ってとでも言われたんでしょうね。彼だけでした。相良の人間でもないのに奥座敷の秘密を知っていたのは」

「原田さんは──ミチ子さんが生涯守ってきたものを、守りたかったんでしょうなァ。わらし様が安らかに眠る墓場も、ミチ子さんが亡くなったいま唯一童子守の資格を持つ冬陽さんのことも」

「そう、ですね。母はほんとうに──わらし様たちのことも、冬陽のことも愛していましたから。……」

 といって春江は力なくわらった。

 その後まもなくして、お互いに自室へと戻った。時刻は午前一時半。森谷の体力はいよいよ限界を迎えている。部屋にもどるとすでに夢のなかへと旅立った恭太郎と総一郎が、健やかな寝息を立てている。

「はァ──ごっつ疲れた」

 ばたり、と布団にころがる。

 となりの総一郎がもぞりと身じろぎをした。

 こうして怒涛の一日は、ようやく終わりを告げたのであった。 

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