第26話 確保
この奇声は全員の目を覚まさせた。
すぐさま立ち上がり、森谷は襖へ駆ける。背後からは続く数人の足音が聞こえる。どこから聞こえたのか──と足を止めるが、先ほど森谷が聴取部屋として使用した部屋から一ノ瀬が飛び出してきた。すこし遅れて春江も顔を覗かせる。
「いまのは⁉」
「風見がいる部屋の方からだッ」
一ノ瀬が廊下を挟んだ向かいの襖を開け放った。
瞬間、足元に倒れ込んだ影があった。濃灰色のスーツを乱して畳にころがったのは来巻。その傍らで宙に足をばたつかせるは、風見だった。彼は首を締めあげられて必死に抵抗をつづけている。頸から伸びる手。あれは。
──原田。
「は、原田さんッ」
すかさず森谷は、原田の腕にかじりつく。
しかし百九十を超えるその体躯は森谷のアクションなどびくともせず、蚊を払う手つきで森谷を振り払った。尋常ではない力にふっ飛ばされて畳にころがる。おそらく来巻もおなじ流れだったのだろう、森谷の着地地点は先ほどまで来巻がころがっていた場所であった。
来巻は頭を振りながらゆっくりと立ち上がっている。ふっ飛ばされた衝撃で頭を強く打ったようだ。森谷もおなじく。後頭部がずきずきと疼く。
「っクソ」
ゆっくりと上体を起こした。
原田はなおも風見を締めあげる。父ちゃん坊やの小柄な若き刑事は、口の端からよだれを垂らし、顔色を紫に変えてもはや失神寸前である。
──させてたまるか。
と、森谷はからだに鞭を打って立ち上がろうとした。
瞬間。
「動かないでッ」
声がした。
直後、顎から鼻頭にかけて風を切った。
一瞬なにが起こったのか分からず、森谷の視線は自然と上に向けられた。
無意識に風の行く先を見た。
目の前で、下段から跳ね上がった木の棒が原田の腕を下から打った。
その衝撃に原田がよろける。拍子に、風見の頸が開放され、畳に落ちた。
「風見さんッ」
森谷が這い寄る。
白目をむいているものの、息はある。森谷は首をよじってうしろを見た。
木の棒の先、刺股の先端部を握る白い手。
──あ。
「……ふ、藤宮さん」
「森谷さん下がって!」
神那は先ほど跳ね上げた刺股の柄を振り下ろし、原田の横腹を突く。原田はぎゃあとさけんで派手にころがった。が、ふたたび身をよじって起き上がらんと上体を起こす。来巻と一ノ瀬が敏捷な動きで原田に飛びついた。
「このッ」
二人がかりでも原田の動きは止まらない。
口端からよだれを垂らし、歯を剥いてふたりを撥ね飛ばした原田がぐるりとこちらを見た。充血した瞳はぎょろりと神那に向けられる。とっさに森谷が神那の前に庇い立つ。直後、
「いい加減にしろッ」
と、背後から飛び出た影があった。
──恭太郎!
声をかける間もなく、恭太郎は長い脚を突き出して原田の顔面に飛び蹴りした。原田は向かいの壁にどうと叩きつけられ、ビクビクと小刻みにからだをふるわせてようやく動きを停止した。
恭太郎は臆する素振りなどひとつもなく、堂々と仁王立ちを決める。
「姉上に手を挙げられるとおもうな。ど阿呆め!」
「助かったわ。大丈夫すか」
と、森谷が所轄刑事たちに視線を送る。
惨憺たる有様であった。風見はすっかり伸びてしまい、来巻と一ノ瀬も背中や腰を強く痛めたようで、よろよろと起き上がっている。
「面目ない──」
「取り急ぎ、原田さんは公務執行妨害で現逮。二十一時三十二分、原田幸三逮捕」
一ノ瀬は腕時計を確認、腰を押さえながら原田の手に手錠をかけた。
場に静けさがもどる。一同は顔を見合わせ、安堵とも緊張ともとれる息を吐きだした。
風見が目を覚ますのを待つあいだ、一同はふたたび大広間へと戻っている。
原田の奇声を聞いたあともこの場に残っていた睦実夫妻と心咲だが、森谷が戻るなり睦実が駆け寄ってきて事の真相を問い詰めた。しかし、乱闘騒ぎを実際に確認したとはいえ、それまでの経緯について唯一知るのは風見しかいない。来巻は斜向かいの事件現場で物証をさがしていたというし、一ノ瀬もまた別室で春江の聴取をとっていたのだから。
とりあえず落ち着いて、と森谷は面倒くさそうに睦実を押さえる。
「おおよその被疑者は捕まえました。安心してください」
「ほんとうか? クソ、だれだ。ここにいないのは、まさか原田さんが……」
「いえ。容疑者と決まったわけとちゃいます。結論は急がないように」
「どっちでも同じことだろ! 原田さんか、やっぱり遺産の取り分が気に入らんかったんだろうか──あの人は一番母さんの面倒を見ていたってのに、遺言書にゃひと言だって書かれちゃいなかったし……」
「睦実さん、すこし休まはったらいかがですか。隈がひどいですよ」
「嗚呼、ひどくもなるさ。まったくなんて夜だ」
といって、睦実はふらふらと妻のもとへど戻ってゆく。
──なんて夜だ、はこっちの台詞や。
森谷は泣きたい気分である。
なんだって休暇をとるとこうも面倒なことに巻き込まれるのだろうか。いったい自分が何をした。いますぐ同僚に電話して一晩中愚痴を聞いてほしい気分だった。
どっかりと畳に腰を下ろす。
するとどこからともなくお茶が置かれた。白い手。神那だ。
「森谷さん、ご無事でよかった」
「おあ。あ、藤宮さん! いやホンマ。さっきは助かりました。あれ薙刀術でしょう? めちゃくちゃかっこよかったス」
「いえ、その──無我夢中で」
「あれで? ばっちり決まってはりましたよ。なあ、総一郎」
と、後ろを見上げる。
総一郎は、はるか高い位置からじとりとこちらを見下ろしている。
この従兄は昔からべらぼうに背が高い。座った状態で見上げると首を痛める勢いだ。さらにはこの痩身ゆえ、まさしくもやしのような男である。
「いいとこ見せられてよかったじゃないか、シゲ」
「エ? いや。いや、そういうんちゃうやんかお前。ていうか原田さんヤバかったな、えらい強うて。あない武闘派な感じの来巻さんと一ノ瀬さんがコロンってころがされてまってよ。オレなんぞ子犬がじゃれついたくらいのモンやったんちゃうか」
「それにしたってずいぶんな豹変ぶりだったね」
「ええ、ほんとうに──原田さん、ついさっきまではとても温厚な方でいらしたのに。いったい何があったんでしょう」
「…………」
それを知るのは風見だけだろう。
彼に事情を聞かぬかぎりは、何があったのかを推察することもむずかしい。
神那が淹れた茶をひと口。胃の腑が温まったことで冷静を取り戻したところで、一ノ瀬がバタバタと大広間に入ってきた。森谷を見つけて耳元に顔を寄せる。
──風見が目を覚ましました。
と。
なぜ自分に、とはおもったがこの混乱のなか、ひとりでも多くの人手が必要なのは、同業者としてもよくわかる。森谷は神那に茶の礼を言い置いて立ち上がった。
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