第4話 恭太郎の朝
藤宮恭太郎は朝からすこぶる機嫌がわるかった。朝から、と言っても休日らしく惰眠をむさぼったせいですでに太陽は煌々とてっぺんに昇っているのだが、恭太郎からすればそんなことはどうでもいい。機嫌がわるい原因は姉にある。
姉──とひと口に言っても、恭太郎には姉が三人いる。
しっかり者の長男のみっつ下に生まれたのが長女神来。彼女は法医学教室というところに勤めており、日夜不審遺体を嬉々として切り刻む性質がある。そんなものだからいい年をしていまだ独り身なのだけれども、彼女自身がそれほど気にしていないから、恭太郎としても口を出すことではないとおもっている。
つづく次女にいるのが神那という。
恭太郎にとっては唯一愛しいと思える姉である。職業は保育士で、家族のだれよりもおっとりした性格でありながらその趣味は薙刀という。ちぐはぐなのである。三人官女のなかではいちばん地味だが、恭太郎に対していちばんやさしい彼女のことがだいすきなので、彼女が家を出て一人暮らしをすると聞いたときは、それはそれは泣きわめいたものだった。
最後の三女、神楽。
恭太郎の不機嫌の原因こそ、藤宮五人兄妹中いちばんのお転婆である奴にある。いちばん歳が近いこともあって顔を突き合わせればたいてい喧嘩。母譲りの気の強さと父譲りのおおらかさが最悪なかたちに合わさって、ああいえばこういう鼻持ちならぬ姉なのである。
──あのずぼら女。
と、三十秒ごとにはらわたがぐつぐつと煮え返ってきては床を鳴らす。
なんてことはない。彼女は現在フリーカメラマンの見習いとして、各地を飛び回る仕事についているのだが、昨夜遅くに飲み会を終えて帰宅した。その際に恭太郎の部屋の扉をガンガン叩き安眠を妨害したうえ、ブチ切れて応対に出た恭太郎のパジャマめがけておもいきり嘔吐するという、酔っ払いの定番行動を悉く履行したのである。
恭太郎の怒声によって屋敷の執事は飛び起き、ねむいなか風呂に入ることを余儀なくされ、挙句寝つこうとすると隣室から神楽のけたたましい笑い声──。
(もう限界だ。あいつころすか)
と、やわらかい掛布団を足で跳ね飛ばしてベッドから降りると、階下の声が聞こえて来た。ちなみに言っておくと、この家が防音加工不足なわけでは決してなく、恭太郎の聴覚が異常なまでに発達しているだけのこと。ゆえに昨夜の姉の奇行は、音に敏感な恭太郎にとってはもっとも苦痛ないやがらせだったわけである。
階下の声は、執事の爺やともう三人──聞き慣れた声がふたつと、知らない声がひとつ。どうやら神楽はいないらしい。聞き慣れた声の主をおもった恭太郎は、わずかだが気分が高揚した。
つるりと磨き上げられたアンティーク調の手すりに手を添えて、階段を降りる。
恭太郎の視覚はほぼ機能していない。盲目ではない。光は分かるし、右目ならばぼんやりと色やかたち、文字も分かる。ただ顔の造形やらなにやらが見えないというだけだ。これまで困ったことはないので恭太郎はすこしも気にしていない。
ただ、以前──まだ小学生だったころだろうか。長兄孝太郎の眼鏡を借りたことがある。装着して家族の顔を初めて見たときに湧き上がったあの時の感情は一生わすれることはないだろう。──日常的に眼鏡をかけるなど煩わしいからぜったいに嫌なのだけれど。
ダイニングルームから聞こえる話し声をたよりに扉を開けると、心地よい声が耳に飛び込んできた。
「それは大騒動でしたね、イッカさん」
この涼やかな声が誰かなど疑いようもない。久しぶりに帰省した──とはいえたしか二週間前にも帰ってきたし、住まいはここから電車で三十分もかからない──愛しの人。
「姉上ッ」
と、腕を広げた。
彼女はパッとこちらを見ると「あらあら」とゆったりした物言いでつぶやく。言うにつれて声色から口角があがったのが分かる。そのまま恭太郎のもとへ歩いてくると、綿のようにやわらかく恭太郎を抱きしめた。
「恭太郎さん、元気そうですね。昨夜は神楽さんがたいへんだったのですって? 爺やさんから聞きましたよ」
「まったくですよ。おかげで僕は寝不足だ。アイツは御大臣の高鼾だってのに!」
「こんな時間まで寝てて寝不足もなにもないでしょオ」
と。
横からさし込まれた声に、恭太郎は不服の目を向ける。
中学時代からの友人である古賀一花が、藤宮家のダイニングテーブルに並べられたクイニーアマンを無遠慮に食べている。彼女の辞書に遠慮の文字はない。かくいう恭太郎の方がよっぽど傍若無人ではあるのだが、この一花という娘は相手を脱力させてしまうような空気がある。
そのマイペースさに救われることもあるけれど、たいていはイラっとすることの方が多い。いまもまた、神楽に対する愚痴をこぼして神那に慰めてもらおうと画策していたところの茶々に行き場のない苛立ちを抱える。
「どうしてウチにいるんだ?」
「今朝起きたら、爺やの作ったクイニーアマンが食べたくなったの。だからここに来て爺やにお願いして作ってもらったってわけ」
「おまえの爺やじゃないぞ!」
「いいじゃんべつに。それにアンタの爺やでもないでしょオ。爺やいつもありがと!」
「かまいませんとも。イッカ様は坊ちゃまのたいせつなご友人ですからね」
「…………姉上ェ」
と、神那にむかって恭太郎は下唇を尖らせ、すこしかわい子ぶった。
末弟の考えていることはお見通しだが、そんなところもまたかわいいもので。神那はクスクスわらって恭太郎の腕をちょいと引いた。
「よろしいじゃありませんか、イッカさんにはいつもお世話になっているのですから。ところで恭太郎さんにもご紹介したい方がいるのです」
といってそのまま腕を引かれる。
爺や、一花、神那──そのほかにひとり、見知らぬ人間がいるのは分かっていた。しかしその人物は先ほどから息を殺したように押し黙って動く気配がなかった。どうやら恭太郎の顔貌に釘付けになっているらしい。ダイニングテーブルの向こう側、一花の対面に身を縮めて座っている。
神那が人物にむけて腕を伸ばした。
「相良冬陽さん。わたしの、薙刀道場でのお友達です」
「姉上のご友人ですか」
いつもの、他人に対する不遜な態度はどこへやら。恭太郎は人懐こい笑みを浮かべて冬陽に礼をした。
「お初にお目にかかります。藤宮の末弟、恭太郎と申します。姉上がいつもお世話になっております」
「まあ──神那さんから聞いていたとおり、とっても礼儀正しい子ですね」
と感心したように息を吐く。
なんとか細い声だろうか。あまりにも弱々しくていまにも消えてしまいそうだ。しかし礼儀正しいとは──きっとこの場に将臣がいたら「百面相も甚だしい」と笑い飛ばされるにちがいない。とはいえ自身の友人にそう紹介するほどには、神那も自身の弟に対しては盲目な信頼があるのだった。
一同を見た一花がおもむろに立ち上がる。
「あーおいしかった。あたしかーえろ」
「なんだ。もう帰るの?」
「もうって、あたしここに来てからもう三時間もいるんよ」
「三時間⁉ 九時からここにいたの」
「言ったでしょ。起きたときに食べたくなったから来た、って。もっと早く帰るつもりだったんだけど、ついさっき神那ちゃんたちが来たから喋ってたのー。それにね、冬陽ちゃんってば神那ちゃんに相談があるんだって。あたし遠慮しようとおもって」
「遠慮? おまえが?」
「なーによ。アンタも神那ちゃんにべったりしてないで、すこしは遠慮しないと嫌われちゃうわよ。じゃーね神那ちゃん、冬陽ちゃん。爺やもごちそうさま!」
といって、一花はためらいもなく藤宮家をあとにした。
その潔さに圧倒される冬陽であったが、空き皿を片付けるべく動いた爺やによって我に返る。
「あ──それで、その、相談なのですけれど」
「ええ。わたしに出来ることだったらいいのだけど、どういう内容ですか? 薙刀のこと──でもなさそうですね」
と、神那は胸の前で手を結ぶ。
声色から相手への心配が滲み出ている。対する恭太郎は、すこし冷めた目で相談者を見つめた。
──嗚呼。祖母、が
「祖母が、亡くなって──」
冬陽はかき消えそうな声でつぶやいた。
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