手紙
神楽耶 夏輝
前編
僕は、震えていた。
昼下がりの春陽が、程よく差し込む窓辺で、ソファに座り暖かな春の訪れを感じながら、あろうことか僕は文字通り震えている。
この震えの正体は一体……。悲しみか、喜びか、僕自身にもそれはよくわからなかった。
「あなた宛てに手紙が届いているわ」
つい先日、1回目の結婚記念日を終えたばかりの妻が、一枚の封筒を差し出したのは30分ほど前の事だ。
白い上質な封筒にはきっちりと糊付けがされている上に、ボールペンでバツ印まで付いている。宛名に書かれている受取人『鹿島亮介』以外は絶対に見てはいけない、とでも言いたげに。
裏面に書かれている送り主の住所や名前に、見覚えはないが、全てが丁寧な手書きである。
連絡手段としてはSNSが主流のこの時代に、手書きの手紙とは……。
不可解なその手紙に、心を乱された僕は、ペーパーナイフも使わず、封をビリビリと指で破いた。
いびつに開いた口から二枚の便せんを取り出す。
そこにもやはり、丁寧なボールペンの文字がびっしりと詰まっていた。
≪突然のお手紙、大変失礼いたします。私は山吹陽太と申します。
見ず知らずの者からの手紙に大変困惑されているかと存じます。
ですので、端的に申し上げます。
熊野弥生の夫、と言えばピンと来てくださるのではないでしょうか?
弥生とは職場で知り合い、結婚したのは5年前の事です。
思えばその頃から、彼女はどこかおかしかった。当時は天然だと思っていましたし、そこが可愛かった≫
僕は、はっと顔を上げた。
熊野弥生。忘れたくても忘れられないその名。
彼女は、中学の同級生で僕の初恋の相手だ。
元はと言えば、彼女からの手紙が始まりだった。いわゆるラブレター。
まだ恋を知らなかった15歳だった僕は、その一通の手紙に心底翻弄させられたのを昨日の事のように覚えている。
〝私は亮介が好き。ただそれだけ伝えたかったの″
彼女からの手紙には、そう書かれてあった。
好きな女の子のタイプなんて訊ねられれば、少年ジャンプに連載されている漫画のヒロインしか思い浮かばない。そんな僕は結局好きになってくれた女の子がタイプ。
つまり、熊野弥生が僕の好きな女の子のタイプになったのだった。
しかし、彼女は天然というイメージからは程遠い。
剣道部で、凛としてて、男勝りで、頭がいい。
それでいて、髪は天然の茶色で、全体的に色素が薄い。
まるで、細い線で描かれているかのように、消え入りそうな儚さを持ち合わせていた。
高校生になったら付き合おうね。そんな約束を交わしたのに、別々の高校に行った僕たちが、付き合う事はなかった。
別々の高校という環境は、僕たちにとって、とてつもなく大きな壁だったように思う。
彼女は、高校に入学して間もなく、他の男と付き合った。同じ学校の男を好きになったのだ。
僕はそんな彼女を追いかけ続けた。
好きで好きで、仕方がなかった。弥生しか見えていなかった。
食事は喉を通らなくなり、勉強は手に付かない。絶対にいないと解っている校庭に、彼女の幻を見ていた。
高校2年で、初めて持たされた携帯電話で地元の友達と繋がり、弥生のメールアドレスを聞き出す事に成功。
迷惑などかえりみず、何度も身勝手にメールを送った。
『僕の事、好きだっていっただろ? なんで? どうして?』
10回に一度『ごめん。もう、亮介じゃない』と返信が来る程度で、メールはいつも僕の一方通行。
黒く塗りつぶして記憶の奥底に埋めていた。思いだすのもしょっぱい、と言うよりは、イタい。
タイムカプセルよりも深い穴の底に沈めたはずだった、誰にも掘り起こされたくない過去である。
≪先に申し上げます。弥生は去年の3月に亡くなりました。ちょうど一周忌を終わらせた矢先で、この手紙を書いています。≫
心臓をぎゅーと握りつぶされたような痛みが、胸から全身に広がる。喉からせり上がる絶望感。今年32歳という年を迎えて、誰かに聞かれたらもう一度掘り起こしてもいいかなと思えていた過去。
人生で初めて僕にラブレターをくれた。人生で初めて、僕を好きだと言ってくれた僕のヒロインが、まさか死んでしまったなんて。
もしかしたら、いつかどこかでばったり会ったりなんかして……。そんな風にドキドキしてた僕は、なんて呑気だったんだ。
どうあがいても、どこへ行っても、もう二度と不意にばったり出くわしたりなどしない。僕の初恋の人。
≪亡くなる前の3ヶ月間、彼女は度々『リョウスケ』と、あなたの名前を呼んでいました≫
僕の脳内はクエスチョンマークで一杯になった。彼女の僕に対する思いは高校入学からおよそ数ヶ月で終わっていたはずだ。少なくとも夏休みにはもう、彼女の隣には他の男がいた。
それなのに、なぜ?
≪弥生は、若年性アルツハイマーでした。私との結婚生活を続けながら、まるで時の旅にでも出るかのように、時々中学生の女の子に戻るのです。その度にラブレターを書いていました。その姿は恋する少女そのもので、私は毎日胸を掻きむしる思いでした。
その手紙の宛名は『鹿島亮介』。
その手紙を、あなたに受け取って欲しいのです。最後に弥生が残した、あなたへの手紙を≫
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