第06話 ~『彼女』の追憶~

 『彼女』の『記憶』は、陰鬱とした沼地から始まる。

 日中でも濃厚な霧に覆われ、時折瘴気が吹き上がる『死者の沼地』は、下級位階の不死者(アンデッド)の巣窟だ。

 『彼女』もまたその内の一体、それも最下級の屍喰鬼(グール)だった。

 ボロ布を申し訳程度にまとっただけの、みすぼらしくやつれ果てた亡者。最下級の屍喰鬼に、意思や名前など無い。

 だた日々を果てしない飢えのみに突き動かされ、獲物となるべきモノを求め沼地をさ迷い歩く。

 獲物としたのは、生きるモノ全て。

 彷徨いこんで来た野犬であり、沼の中を蠢く地蟲であり……時として冒険者であった。

 多くの場合は返り討ちにされたが、呪われた死者の沼地の魔力は際限なく彼女を蘇らせた。


 冒険者の熱い血潮は、その頃から最高の美味だ。

 鈍く尖った爪はあまりの不潔さに、傷つけられた者を麻痺させる。

 そうやって身動き取れなくなった冒険者の首筋にかぶりつき、至上の甘露で喉を潤す。

 その瞬間だけのために、飢を癒してくれるその瞬間のためだけに彼女は闇の中をさ迷った。



 ある時、彼女は一人の子供と出会った。

 その子供は長衣(ローブ)……魔術師系冒険者の特有の装備を身にまとっていた。

 その時の彼女では、その様な事象を理解できない。

 爪を突き立てやすそうな獲物が現れたという意識すら持たず、彼女は獲物へと襲い掛かった。


 だが振るおうとした爪は、突如現れた無数の糸に腕ごと絡みとられた。

 後になって理解できたが、それは<絡みつく糸>という魔法だ。

 無数の魔力で出来た糸を作り出し、相手の身体に絡みつかせ、行動を阻害できる。

 糸の強度自体は強くない為強力な魔獣等を捕らえることは出来ないが、相手の動きを鈍らせたり足止めなどには意外に効果がある。

 <創造魔術>の初歩魔法であるこの魔法は、魔術師めいた少年…夜光が低い位階の頃に好んで使ったものだ。


 その屍喰鬼もまた、<絡みつく糸>の魔法に囚われていた。

 魔力で出来ているためか、糸は沼地の湿気を吸う事無く屍喰鬼の動きを奪った。

 衝動でのみしか行動できないため、糸を切る事もせず、結果暴れに暴れて全身に糸を絡みつかせた結果、見事に捕らえられていた。


 それでも少年へと襲い掛かろうともがく屍喰鬼を前に、少年は一本のナイフを取り出す。

 そして……己が腕にナイフを突き立て、溢れる血潮を屍喰鬼の口元へと滴らせた。


「僕と一緒に来ない? 代償は僕の血だよ。君の無限の飢えを、僕の血で癒してあげる。だから、ね?」


 その血は、彼女が飲んだことも無いほど美味であり、その声と同時に魂にまで染み込んで行く様だ。

 あれほど感じていた飢えが、陽光に照らされた朝霧のように消え去っていく。

 更に、飢えを満たした何かは、彼女の中に広がっていく。

 その瞬間、彼女は存在してより初めて、『満たされた』。

 いつしか暴れることをやめ、彼女は不死者独特の空ろな顔を少年へと向けていた。

 その様子に、一つ頷くと、少年は彼女へと手を差し伸べる。


「……一緒に来る?」


 ニコリと微笑む少年へ、その屍喰鬼は確かに頷いた。



 それは、後にマリアベルとなる彼女にとって、最も大切な記憶。彼女が『生まれた』夜の記憶。






 万魔殿の地下。吸血鬼(ヴァンパイア)の真祖(アンセスター)たるマリアベル・デアルグ・ブラッディアは、彼女専用の部屋、そのベッドの上で甘い思いをかみ締めていた。

 手には、主から与えられた長衣。

 仄かに香るのは、肩口に染み込んだ血の残滓と彼女の主の香りそのもの。

 その全てが、初めての出会いの記憶を呼び起こさせ、彼女は多幸感に包まれていた。


「ご主人様(マスター)の匂い……あぁ……ますたぁ……」


 うわ言の様に呟く様は、想い人に恋焦がれる少女のようだ。

 実際の所、マリアベルにとって、夜光は親にも等しい存在だ。

 最下級の不死者であり、有象無象の存在であった彼女に、マリアベルという名と生きる意味を与えてくれた。

 主の香りに包まれていると、共に過ごした数多の記憶が溢れだす。

 吸血鬼(ヴァンパイア)化の儀式(イベント)や先代デアルグ・ブラッディアとの真祖の座をめぐった血闘を……そして、あの瞬間へと。


 3ヶ月前。全世界に響き渡った、あの世界の滅びを告げる声。

 あの瞬間から、彼女の内に芽生えたものがあった。

 彼女の主の言う、意思と言うべき物。

 そして、感情。

 それまでの彼女は、記憶や主の命に従う知性はあっても、意思や感情は存在していなかった。

 だが、世界に滅びが告げられた瞬間、彼女に有る物が確かに芽生えた。

 それは、恐怖。

 魔法や能力などによって引き起こされる精神ステータス等ではない、明確な滅びへの恐怖だった。


 恐怖は、それ以外の感情や意思への呼び水になった。

 生まれた意思や感情は、それまで蓄積した記憶と結びつき……爆発した。

 彼女の主たる夜光は、人の身でありながら、あらゆる魔を従える万魔の主であり、希代の魔術師だ。

 その彼を下級の頃から支え、彼とともにあり、無数の苦難と冒険を共有した……それはこの上も無く幸せな記憶だ。


 意思を持ってからの冒険も、素晴らしいものだ。

 滅びを迎える世界に対して、せめて生き残りを残そうという意思と慈悲に、『心』を得たマリアベルは震えた。

 それは、伝説級の最上位に位置する神々でさえ不可能な偉業そのものだ。

 マリアベルはその偉業の一助を担える事に誇りさえ感じていた。

 自身は所詮沼地で蠢いていた屍に過ぎない。

 それが、数多の冒険の末に力を得て、神々でさえ手を出せない『世界の滅び』の前に力を振るっている。

 まさしく、心が踊った。


 そして、偉業は成就された。



 偉大なる御技により極限まで広げられたこの世界(マイフィールド)は、本来あまねく全てが、彼女のマスターのもの。

 けれども彼女のマスターは、その領域の殆どを多くのモンスター達の生きる場として与え、自身はただの一城を望んだだけに留まった。

 その懐の深さは、吸血鬼の真祖となった彼女であっても到底及ばないほどだ。


 その偉大なる主からの褒美の品、夜光が実際に着ていた長衣を与えられ、マリアベルは驚きと同時に計り知れない喜びに我を忘れた。

 思わず無礼という思いすら浮かばず、長衣を貪ってしまった。


 …実際の所、彼女は設定に書き加えられた一文『夜光の血液』依存症では確かにあった。

 しかし、あまりの想いの強さに、思慕にも信仰にも似た方向へと有り様を変えようとしているのだった。




 世界が『外』が滅ぶとされた瞬間を過ぎ、それでもまだ自分達が滅んでいないと知って、彼女達は次の召喚を心待ちにしていた。


 この世界が救いの箱舟になる。その夜光の言葉を疑う訳ではなかったが、やはり不安はあった。

 せっかく主が苦心し作り上げた世界は、やはり『外』と同じく滅んでしまうのではないのか、と。

 しかし、小さな世界(マイフィールド)は滅びの運命を乗り越えた。

 彼女の主は知らないが、その存続が判った瞬間、全ての知恵と意識あるモンスター達は……天界の亜神や魔界の魔王達にいたるまで、喜びの声を上げたのだ。

 同時に、古き世界と運命を共にした多くの者達を悼んだ。

 多くのモンスターは己が生き延びる幸運への感謝を、彼女の主にささげた。


 マリアベル達、夜光のパーティーモンスター達もそれは同じだ。

 だからこそ、直接会い感謝の念をささげられる召喚を心待ちにしたのだ。



 故に召喚された瞬間、あろう事か彼女達の主が取り押さえられ、彼方此方に傷を負い、拷問まがいの所業をされる様を見た瞬間、マリアベルは激高した。

 あの見慣れぬ者達は、何があろうとも許さない。必ず報いを受けさせる!


 殺すことなら簡単だった。

 しかし、一瞬で苦しみが終わる安直な死など、絶対に与える訳にはいかない。

 不死者のマリアベルだからこそ、真の死は救いだということを知っていた。

 その為あの場では、その意思を奪うだけに留めたのだ。

 結果、その行いを後に主に褒められたのだから、正しい判断だったのだろう。

 もし仮に皆殺しにしていたら、この長衣も授けていただけただろうか?




 だけど……と、マリアベルは陶酔の中から抜け出す。


 先刻彼女の主は、あの無礼者達さえも暗示をかけただけで害さずに帰すといっていた。

 ……たしかに、マリアベルも理性では判っている。

 滅びたはずの『外』は、かつて彼女が生きた世界ではなく、聞きなれぬ呼び名の異界が広がっているらしい。

 そこに何があるか判らない以上、不用意に外を刺激する行いは控えるべきだと。

 だからと言って、何も罰を与えないと言うのは、夜光の言葉と言えど許容しきれない物があった。


「あの無礼者達を利用すれば、ご主人様が安全に動き易くなるのは確かですけれども……」


 夜光は、この世界を守るために、あえて自ら『外』へと向かおうとしている。

 マリアベル達は反対した。

 外を調べるだけなら、例えば彼女の配下の吸血鬼(ヴァンパイア)等の人にまぎれ易いモンスターでも十分だ。

 この世界の主たる夜光が直接出向く必要などありはしない、と。


 しかし彼女達の主は首を横に振った。


 『外』はどうやら人間種ばかりで、モンスターが存在しない世界であるらしい。

 そんな中でモンスター達が活動した場合、万が一素性が明らかになったら厄介なことになる、と。


 同時に、『コスト』の問題があった。

 『AE』の召喚モンスターは、呼び出す際や維持、待機状態でもある種の活動においては、『コスト』という何らかの代償が必要になる。

 それは例えば、マリアベル達吸血鬼では召喚主の血液であったり、リムスティア等の悪魔族等では魔力や精気であったりする。

 また、|炎の巨人(ムスッペル)等の強力なモンスターともなると、ある一定の土地でしか見つからない精霊の力が凝縮した結晶、精霊石がコストとして必要となる。

 強力なモンスターほどコスト多くなるため、うかつに活動させられないのだ。

 幸いこの小世界では、精霊石などのコストになる素材が自然生成されるため、内部でモンスターが活動するに問題は無い。

 だが『外』となると、安定したコストアイテムの確保が難しいと予想されるのだ。


 だから、と彼女の主は言った。


 コストがかからず、長時間活動できる僕こそが、外を調べに行くべきだ と。



 マリアベルは一つため息をつく。

 主が、ご主人様がそう決めたのならば、それを支えるのが彼女達パーティーモンスターの務めだ。

 夜光は以前と比べ、明らかに力が衰えている。

 その理由はマリアベル達モンスターにはよく判らなかったが、おそらくは世界が滅びた影響なのだろうかと思う。

 かつて偉大な無数の魔法で万軍の兵を焼き払い、山ほどの巨獣をチリに帰した偉大な魔力は、今は見る影も無い。

 しかし、そんな事は些細なことだ。

 有象無象の些細な危険など、彼女達が排除すればいい。


 幸い、夜光の現在のパーティーモンスターである彼女達は、コスト面の問題をクリアしている。

 召喚は特殊スキルでなされたため、最も負荷のかかる召喚時のコストはかかっていない。

 また、維持のコストは<万魔の主>の特性で何分の1かに軽減され、結果彼女達に必要なのは、主の健康を害さない程度の精気や血液、魔力などになっている。

 傍に侍り、主を支えていくのに何の問題も無いはず。

 そして彼女の主が、いつかかつての偉大な力を取り戻す事に、マリアベルは欠片も疑念を抱かなかった。


 ならばこれは、夜光率いるパーティーの新たな冒険だ。

 それも、意思を持ち、感情を通わせ得るようになって、初めての……



 そこまで考えて、再びマリアベルの心が陶酔に侵食される。

 親愛なる主と、未知の土地を旅する。

 それはどれほど心躍る出来事だろう?


 マリアベルはふと虚空に目を躍らせる。

 視線の先、無数の壁を隔てた先にある彼女の主の部屋に。



 今までに無い形の冒険を想いながら。

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