第二十話 追憶 ~ダス・ルーゲウスとの出会い~
ある吹雪の降る夜。月と星の明かりは雲に阻まれ、街灯は灯されておらず、先の見えない闇に包まれている。
わたしの人生も、闇に包まれている。碌に外気の冷たさを遮ることのできないぼろぼろの服を着て、寒さに震えながら家の壁にもたれかかる。本来なら伝わるであろう壁の冷たさは、外気に触れ過ぎたのもあって何とも感じない。
最早何をする気も——頭に積もった雪を払う気力さえも無い。何日も食事を取っておらず、破落戸達に殴られ、弄ばれ、わたしに残っているのはこの右腕だけだ。
瞼が重い。体を動かすのも辛い。まともに考えることもできない。呼吸すらきつい。寒い。痛い。苦しい。
……わたし、ここで死ぬのかな……?
きっと、わたしの前で死んでいった人達も、こんな苦しみの中にいたのだろう。己の死の間際にそれを理解できたことが苦しく、しかしどこか嬉しくもあった。
……わたしも、皆と同じように逝けるんだ。ようやく……わたしも……
死にたくない——前まではそう強く思っていたのに、今では死すらも嬉しく感じてしまう。
もう生きる気力なんて無いのに、死ぬことすらできなかった、許されなかったからこそ、死は甘美な果実となった。
強風が吹き、その勢いにわたしは倒れる。激しく打ち付けられたのに、痛みは感じない。改めて、死がわたしのすぐ隣に来ていることを感じる。
「…………」
顔に何かが伝う感触を覚える。それはすぐに固まり——涙だと気付く。
……涙……何で……
「お——」
突然、声が聞こえてきた。低く恐ろしげで、吹雪もあってよく聞こえない。
「おい、お——」
横たわったまま目線を上げる——そこにいたのは、巨槍を携えた若い男性——といっても、十歳のわたしと比べたら断然年上だろうが——がいた。わたし程では無いが、彼の重厚で温かそうなキムもまたぼろぼろである。
前髪から獰猛な獣のような目を覗かせ、こちらを見下ろし睨んでいる。その目と服と巨槍——いかにも兇猛そうな外見だ。
……この人も……あの破落戸達と同じ……
「おい、お前どうした?」
彼は屈んでそう言った。反応が無かったから、わたしに声が聞こえるようにそうしたのだろう。
「…………」
しかしわたしは声を出すことができなかった——というよりは、音を出すことはできても、言葉として言うことはできなかった。
「……あぁ? 死んでんのか?」
そう言うと、彼は遠慮無く顔をぐっと寄せ、わたしの体の至る所をぺたぺたと触り——
「……死ぬ寸前、ってところか」
顔を離してそう言った。そして彼はわたしをじっと眺める。その顔は何かをじっくりと考えている、或いは思いを馳せているようで——
「…………」
暫く黙った後、彼は大きく溜息を吐いた。そしてわたしへと近付き——
「……!?」
わたしを持ち上げて担いだ。
……何……を……
「急に暴れるなよ、餓鬼が」
彼はそう言うが、当然わたしには抵抗する気力など残っていない。
「……ぁ……ぁぁ……」
しかしわたしは抵抗したかった。他の破落戸達と同じように殴られ、犯されるのが嫌だからじゃ無い。
でも、上手く言葉を発することもできず、心の中で届かぬ抵抗の声を叫ぶしか無かった。
ああ……駄目……そんなことしたら……貴方が……
目が覚めると、わたしは寝台で寝ていることに気付く。窓からは燦々と輝く太陽の光が差し込み、その眩しさに目が眩む。
体が重く、そして温かく感じる。体を起こそうとするが、碌に体を動かすことができなかった。
……何も……されていない……?
その事実に驚きと疑念を抱きつつ、体勢はそのままに周囲に目をくばり——
「あぁ、ようやく目ぇ覚めたか」
わたしを連れていった男が、わたしが起きたと気付いた。今はキムを羽織っておらず、何か作業をしているようである。
彼はこちらへと近付いてきて——
「——!?」
わたしの肩を掴んだ。思わずびくっと動揺するわたしに、彼は舌打ちを零して睨んでくる。
「いちいちビビッてんじゃねぇよ餓鬼が……クソッ」
その悪態に、わたしは感情を押し殺した。
こういう時に感情を露わにした際の末路は、身に染みて分かっている。
彼はわたしの体を持ち上げ、壁にもたれかけさせた。
「……ぁ」
そこで気付く——彼は自分のキムをわたしに羽織らせていたと。
そして彼はどこかへ行き——何かを持ってすぐに戻ってきた。手を注視して、それが椀と匙だと気付く。
「おら、さっさと食え」
ぶっきらぼうにそう言って、彼は椀と匙をこちらに差し出した。
突然の出来事にわたしは呆然とし——
「さっさと食えっつったろ」
語気を強める彼に、腕を上げようとする——が、力が入らない。手を動かしたくても、上手く動かせない。
「——だぁクソッ! おら口開けろ!」
痺れを切らした彼が怒声を上げて、匙で椀の汁をすくってこちらに差し出してきた。唐突に叫ばれたので再びびくりと体を揺らしてしまう。
わたしは微かに口を開け——そこに匙が差し込まれ、汁が流し込まれる。
熱々では無い、冷めて仄かに温もりを感じる汁だった。舌に乗り、滑って喉を通って胃に流れていく。
調味料の調整に失敗したのか、料理が下手なのか、やけにしょっぱくもあり、辛くもあり——
「…………ぁぁ……」
今まで食べたもので何よりも美味しかった。
突然、涙が溢れてきた。止まる様子は無く、ぼたぼたと落ちて布団を濡らす。
「……飯如きで何泣いてんだ……?」
そんなわたしを気持ち悪がるかのように、彼は言った。
食事に対して涙を流している訳では無い。
彼がわたしを助けてくれたからだ。
「死にたい」という強い思い、死の喜び——その一方で、ずっと消えたと思っていた「死にたくない」という思いは、実際は消えていなかった。今になってようやくそれに気付いた。
見た目こそ恐ろしいが、彼はわたしを助けてくれた。もう死ぬ道しか残されていなかったわたしの前に、「生きる」という道を作ってくれた。
わたしも生きていいんだと、示してくれた。今この状況で、ようやくそう確信できた。
「……まぁ、何でもいい。そういや名乗ってなかったな——ダス・ルーゲウス。自警団『ファレオ』所属だ」
ファレオ——話は聞いたことがある。魔術犯罪者を倒し、ゴーノクルの平和に大きく貢献している自警団——だった気がする。
……わたしもファレオに入れば、彼みたいに人を救うことができるのだろうか?
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