アニータ
深紅の液体が、ゆるりとグラスの内を回る。遅れた小さな水滴が、後を追うように下へ下へと落ちていく。
仄かに波打つそれを口に含み、飲み下す。
芳醇な味わいと香りが一気に広がる。
これが多くの資産家たちが追い求めた味か。
一言で言えば―――
「にっが!」
ぷえっと舌を突き出し、呻く。舌を取り出して洗いなおしたい気分だ。そんな俺の叫びを聞き、すっと横から水の入ったグラスが差し出される。
俺をそれを手に取り、口に残った葡萄酒の味を拭い去るように、一気に飲み干した。
「ふぅ、ありがとう、アニータ」
金髪を腰まで伸ばした使用人アニータは小さく頭を下げ、一歩下がる。
「お口に合いませんでしたか?」
感情の伺えない声音でそう尋ねる。寒風のように鋭く、色の見えない喋り方からは、つららのような冷たさを感じるが、それが彼女の本心ではないことは知っている。
ただ、言葉に感情が乗らないタイプなのだ。多分、きっと。そうじゃないと、俺が傷ついてしまう。
「合わないね。なんか苦いよ」
酒好きが聞けば、眉を顰め、葡萄酒の価値を知っている物が聞けば、もったいないと膝から崩れ落ちるだろうことを口にする。
だけど俺には、ああいう貴族らしい趣味はない。
せっかくのエリスからの贈り物だが、みんなに飲んでもらおう。
「それよりも、エリスは何か言っていた?」
エリスは、俺の留守中に使いを寄越したらしい。俺が飲んでいた葡萄酒はその時、貰ったものだ。
ただ、葡萄酒を届けさせたとは思えない。きっと、以前話していた『教団』の調査に関してだろう。
「はい。外部より教団を招き入れた人間の正体が判明したそうです。ガードゥ・バブブという男だとか」
どうかお気を付けを、と感情の篭らない瞳で付け加える。
ガードゥ・バブブか。どっかで聞いたな、と思ったが、そう言えば教室で絡んできた赤髪だ。
「同級生じゃん。怖いなぁ、襲われたらどうしよう」
そう言うと、アニータははっ、とした顔をした。
「………私が護衛に付きましょう。お守りします」
そんなことを、至極真面目に言ってきた。ふん、と細い腕を構え、戦えるぞアピールをしてくる。
だけど俺は知っている。アニータに戦闘能力が皆無なことを。
魔力は一般人よりも多いが、それでも肉体性能はただの人。
戦いには向かない。
「非力な私ですが、盾になることぐらいは可能です」
「―――そういうのはいらない」
知らず、冷たい声だったのかアニータがびくりと体を震わせた。
俺の機嫌を損ねたと思ったのか、アニータが頭を下げた。
「あ、申し訳――」
動揺の滲んだ声。初めて聞いたその声に、俺も動揺してしまう。
「いや、謝らなくていいよ。俺が悪い」
普段、冷静な彼女の姿に罪悪感を刺激される。不快に思ったわけではない。
ただ、悲しかっただけだ。
「アニータは、長生きしなよ。道具として作ったわけじゃないんだからさ」
「はい」
納得したと言えない様子で、アニータは答える。彼女は俺の言うことに普段は逆らわない。少なくとも、言葉の上では。
彼女が俺の命令に逆らうとすれば、口には出さず、行動に移すだろう。
そんな予測できない不安定な在りかたは、他のホムンクルスたちにはない物で尊いと思う。それと同時に不安にも思う。
本当はこの都市に連れてくるも嫌だった。ふらりと俺の命令を無視し、死にそうで怖い。
きっと、アリスティア家の中で、一番死に近いのが彼女だ。
そうはなってほしくない。
「エリスはガードゥ・バブブを殺す気かな?」
少し暗くなった雰囲気を変えるため、声音を上げ、当たり障りのないことを問う。
「………最終的には。未だ不明点もあり、捕縛して尋問するとのことです。調査中らしく判明すれば伝えると」
アニータも、俺の調子に合わせ、何でもないように答えてくれる。
それに助けられる。
「エリスだけで大丈夫かな」
「コクガ様に協力するように伝えたことをお忘れですか?」
普段無表情なアニータだが、今は疲れたように眉根が下がっている。
そう言えばそうだった。普通に忘れてたよ。
無能な主でごめんなさい。
「………この都市は、危険です。エリーゼ半島のように何かがあれば御身を守る盾があるわけではないのです。普段のようにぽわぽわとふらつかれては困ります」
「………はい」
ちゃんと怒られた。思えば、俺の盾になるというアニータの言葉も、この地に対する警戒の高さからだろう。
この地にはアリスティア家の最大戦力であるゼノヴィアはいない。俺の身を守る城も俺の意のままに動く世界も存在しない。もうちょっとしっかりしなければ。
「そういえば、『大墓地』に行ってたのって……」
「とても、向こう見ずな行為だと思っております。もう少し、調査をしてからの方がいいのでは、と素人意見ですが言わせていただきます」
それでこの前、怒られたのか。軽率な行為だとは思っていが、そこまで危険だとは思ってはいなかった。
それは、自分の魔術も力量も判断出来ているからこその自信と決断だったんだが、それが分からないアニータには心配をかけた。
もう少し、気を使うべきだった。
「今度は、協力者もいる。危険はないよ」
ティーリアとガーベラと言う協力者も獲得した。二人とも優秀な魔術師だ。
彼女たちがいれば探索も簡単になると、俺はアニータに説明したが、すればするほど彼女の表情は険しくなっていった。
「……………日付が変わる前に帰ってください。門限です」
「何で!?」
□□□
「そういえば、都市側の動きは?この都市の人間は気づいていないの?」
何とか門限を取り下げようと言葉を重ね、さらにアニータの機嫌を損ねた後、俺は諦め、教団についての話を続けることにした。
「気づいてはいるようですが、情報は伏せ、少数の人間だけで事件を解決するつもりのようです」
恐らく、都市の治安を乱さないためだろう。この都市の戦力は俺にも読めない。もしかすれば、俺を超えるゼノヴィアクラスの戦力があるのかもしれない。
いや、確実にあるだろう。少なくとも、一人は。
俺の脳裏に浮かぶのは真っ赤な魔女の姿だ。
運命の魔女アルフィア。
何もかも見透かしたような魔女が、『教団』の侵入を見つけられなかったとは思えない。
討伐しようとすれば、出来るだろう。
だけどそうはしない。まるで都市の命運にゆだねるように沈黙を決め込んでいる。
「はあ、めんどくさ」
俺は作戦を立てたり、敵を探したりとかは苦手なのだ。
さっさとエリスが解決してくれないかな、と思っていると、異変に気付いた。
同じく、魔具を持つアニータもだ。
「客?」
「いえ。塀を乗り越えるお客様はおられません」
「サリマリたちに、『障壁室』に避難するように伝えておいて」
俺は影からローブを取り出し、羽織る。魔力は未だに全快していないが、何とかなるだろう。
俺は心配そうにこちらを見るアニータに微笑み、ひらりと手を振った。
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