28

 十二月十四日の午後十時前。リクは飯塚家のインターホンの前にいた。

 ギリギリまで指を伸ばすものの気が挫けて引っ込めてしまう。そのうち真冬の風が吹きつけ、薄着のリクは身震いをした。

 もう帰ろうと踵を返しかけたとき、家の中から激しく言い争う音が聞こえた。取っ組み合いの喧嘩でもしているのだろうか、何かが家具にぶつかる音と女性の悲鳴がする。どうしようかと思っていると、唐突に玄関のドアが開いた。

 大きなスーツケースを引く飯塚の後ろから、夏苗がよろめきながら出てくる。頭でも打ったのか気分が悪そうに額に手を当てている。しばらく待っていると夏苗がひとりで戻ってきた。相変わらずおぼつかない足取りで、ドアを施錠することさえ忘れている。

 あれが実の母親かどうか、そして自分のことを憶えているかどうか、確かめるなら今しかない。リクは勇気を奮い起こしてインターホンを鳴らした。だが夏苗は出てこない。少し待ってから二度目を鳴らしたがやはり反応はない。

 それならばと門の隙間を抜け、玄関の扉をノックした。返事がないのを確認してから、施錠されていないドアノブに手をかける。恐る恐る中に入り、後ろ手で扉を閉めた。

「あの、すみません……」

 そう声をかけ、靴を脱いで廊下を進んだ。一番近いドアが開いていたので覗き込むと、そこに夏苗が倒れていた。リビングの床に横たわり、頭を押さえて苦しんでいる。

「うぅ、誰か、た、たすけて……」

 夏苗の目が部屋の入口に立ち尽くす青年を捉えた。衝撃のあまり動けないリクに向かって必死に手を伸ばす。

「た、す……け……」

 死にかけた女性が助けを求める様子を、リクはただ黙って見つめた。これが自分の母親の末路かと思うとあまりに哀れだった。

「……す……け、て……」

 夏苗の手は虚しく宙を描き、それでも視線で必死に訴えてきた。こんなところで死にたくない。強い感情が伝わってくる。

 くだらないと瞬時に思った。母は一度でも息子の手を掴み、支えてくれたことがあっただろうか。むしろ息子が母親を支え、要らなくなったからとあっさり手を離された。他に支えてくれるものができたからだ。あの弁護士、飯塚英生がまだ若かったころ、公園で母と会う姿を何度も見たことがある。

 床に視線を落とすと、スマートフォンと千切れたストラップが転がっていた。誰か……飯塚英生に決まっているが、鈴の部分を掴んで投げつけられたのだろう。リクは少しひしゃげた鈴を拾い上げ、ポケットにしまった。親子の証となるものをこの場に残したくないという心理が働いたのだろう。

 夏苗が動かなくなったのはその直後だった。それからリクがどうやって家を出て、あの歩道橋に行ったのか記憶にない。気付いたときにはあそこにうずくまっていて、奇しくも桜庭千尋が殺される現場の目撃者となった。


「……俺はあの女が絶命する瞬間を見ていた。その場にいながら見殺しにした。当然罪に問われるだろう?」

 そのときの光景を思い出したのか、リクはぶるっと震えた。自分を捨てた母親の最期を見届ける。それがどれほど異常なことか、頭に血が上った状態では理解できなかったに違いない。歩道橋の下で我に返り、そのとき感じた恐怖はどれほどのものだっただろう。

「君の今の証言を正式に調書に取らせてもらう。家の外まで音が聞こえたということは、近所の人も何か聞いているかもしれない。おおかた関わり合いになるのが嫌で口をつぐんでいるんだろう」

 高級住宅地の住人のみならず誰しも厄介事に巻き込まれることを嫌がる。その前提のもと、今度こそ根気よく聞き込みをすれば何か出てくるかもしれない。あのときは人員が足りていなかったが今は違う。

「俺も実際に見たわけじゃないが、あのときの音は尋常じゃなかった。殺す気がなかったとしてもあの弁護士の夫が何かしたのは間違いない」

「青柳課長はずっと疑っていた。あの夫にはもう一度署に来てもらう必要があるな。容疑は殺人ではなく過失致死に留まるだろうが……」

「どっちでも構わない。あの女は最後の瞬間まで俺が誰か気付かなかった。俺には最初から父も母もいなかったんだ」

 シャランと音を立て、リクはテーブルに自宅の鍵を置いた。夏苗のものとは色違いの鈴のストラップがついている。夏苗のスマートフォンから千切れた鈴は先ほどカラオケ店で指輪の代わりにハンカチに包み、市ノ瀬の目を引くために使われた。

「こんなものとっとと捨ててしまえばよかった。俺が優柔不断だったせいでみんなを巻き添えにしてしまった」

 だがリクはリクで、夏苗は夏苗で、古びたストラップを大切に所持していた。本来ならばとっくに捨てていても不思議はない。夏苗は目の前の青年を息子と判別することはできなかったが、それでも心残りを感じていたのだろう。

「家族とはそういうものだ。心の中では嫌っていてもそう簡単に忘れられるものじゃない。原動力になることもあれば足かせになることもある。これからは一番守りたいものを大切にするんだぞ」

 桜庭は微笑みを返したが、そのときどっと疲れを感じた。千尋の死に始まり、後輩が逮捕されるという結末に最も衝撃を受けているのは桜庭だった。そのことにいち早く気付いた速水が進み出た。

「あとのことは俺たちに任せておけ。あいつの聴取は課長と署長が引き受けてくれる。現役の刑事が人を殺したんだ。厳罰が下るに決まっている」

「だがまだ動機がわからない。なぜ千尋をあんな目に遭わせたのか……。俺があいつをそうさせたのか? 速水、何か心当たりはあるか?」

「今はそんなことを考えるときじゃない。飯塚夏苗の件でこいつに事情を聞くんだろう? 空いた取調室があるから使っていいぞ」

 速水はやけに強い力でリクの肩を叩いた。リクは嫌そうに振りほどき、隣の眞木に向き直った。

「レイジに頼んで迎えにきてもらいます。先に帰っていてください。俺はしばらくここに残ります」

「今度こそ真実を話してくれ。僕のことは心配しないでいい。大丈夫だから」

 眞木は安心させるように微笑んだ。リクは何か言いたそうにしていたが黙って頷いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る