26

 利峰署の廊下の椅子で待つ間、眞木はうとうとと浅い眠りに落ちていた。隣のリクはじっと前を見据え、背筋を伸ばして座っている。そんな対照的な二人のもとに桜庭と速水、それに亜須香がやってきた。

「眞木さん」

 リクがつついて起こすと眞木は慌てて立ち上がった。桜庭は先に立って廊下を進み、二人を会議室に案内した。テーブルとパイプ椅子が数脚あるだけの殺風景な部屋である。桜庭は照明と暖房を点け、眞木とリクに座るよう促した。

「ありがとうございます」

 眞木は会釈して腰を下ろしたが、リクは立ったままでいた。警察を丸ごと信用したわけではないとその態度が暗に示している。桜庭は眞木と向かい合う席に座り、ちらりとリクの顔を見た。

「俺は約束を守った。証拠品を提出してくれ」

「ギリギリだったじゃないか。あれだけ念を押したのに」

 リクはポケットを探り、さっきとは別のハンカチに包んだものを取り出した。慎重な手つきでテーブルに載せ、ハンカチを開く。露わになったそれを速水と亜須香が覗き込んだ。

「指輪……?」

 その言葉どおり、ハンカチの上にあるのは指輪だった。シンプルなデザインのリングに小粒のルビーが並んでいる。その一部に黒ずんだ染みがついていた。

「結婚記念日のプレゼントとして贈ったものだ。千尋の所持品にも自宅にもなく、変だと思っていた」

 沈んだ声の桜庭に、亜須香が何事か思い出したように言った。

「張り込みの日、家を出るとき渡したって言っていた、あの……?」

「そうだ。歩道橋に呼び出されたとき指にはめていたんだな。抵抗した千尋はこの宝石の部分で相手の皮膚を引っ掻いた。犯人はそれを奪い取って歩道橋の下に投げ捨てた。あとで回収するつもりだったんだろうが、たまたまそこにいたリクくんが拾ったというわけだ」

 桜庭はあえて犯人の名を口にしなかった。今ごろ取調室で田所と邦子と向き合っているはずだ。そこで語られる供述を冷静に受け止められるかどうか、桜庭はまだ自信がない。

「桜庭、俺や桧野はまだ釈然としていないんだ。いきなり電話をかけてきて、説明もなくカラオケ店に急行しろとか無茶なことを言い出すし……。ま、おかげであいつ、犯人が捕まったわけだけど」

 速水も名前を出さず、居心地悪そうに会議室の中を歩き回った。つい先ほどまで同じ署の刑事だった仲間が桜庭の妻を殺した犯人だとは信じたくないのだろう。

「県警本部を出る前、眞木くんに無理を承知でお願いしたんだ。リクくんがあのカラオケ店に潜伏しているかもしれないという話を利峰署でしてもらった。あいつが本当に犯人であれば必ず行動を起こすはずだ。そこまでは予想どおりだったが、まさか眞木くんを人質に取るとは思わなかった」

「それぐらいの覚悟はしていました。ミユキやリクのことを正直に警察に話さなかった僕にも非があります。証拠品を取り戻すことが一番の目的だったんですから、僕のことは気にしないでください」

 眞木は桜庭に向かって落ち着いた口調で言った。速水は頭を掻きながら桜庭に目を戻した。

「二人が協力関係にあることも知らず、あいつはまんまと罠にはまったってわけか。どの辺りからあいつを疑っていたんだ?」

「ああ。それはな……」

 桜庭は自分のポケットを探った。そしてビニール袋に入ったものを取り出すと指輪の横に置いた。それは小さなピンク色のお守りだった。

「千尋が歩道橋から転落したとき所持品の中にあったものだ。千尋はこれをいつも鞄の内ポケットに入れて持ち歩いていた。念のため鑑識に保管されているハンドバックを確認したら、やはり鞄のポケットの中に入れたままになっていた。だったらこれは誰のお守りなのかと疑問が湧いた」

 千尋の妊娠がわかってすぐ、二人で安産の御利益がある神社にお参りに行った。そこでお揃いのお守りを買ったのだが、いくら妻のためとはいえ夫が持ち歩くのはどうかと思う、と千尋は呆れていた。

「盛岡に調べてもらうとこのお守りからは俺の指紋が出た。千尋の所持品にあったのは財布に入れて持ち歩いていた俺のお守りだった。ではなぜ俺も知らないうちにお守りが移動したのか。それで思い出したんだ。俺はあの日、家に財布を忘れてタクシーで張り込みの現場に向かった」

 利峰署に到着した桜庭はそこで財布がないことに気付いた。免許証もその中に入っており、これでは車を運転できない。困った桜庭は顔馴染みである盛岡がデスクにへそくりを入れていることを思い出し、メールで断ってからそれを拝借した。盛岡が金欠のとき桜庭が貸したこともあるのだからお互い様だろう。

 深夜、タクシーで張り込み現場に向かった桜庭は、そこで待つ亜須香と市ノ瀬に事情を説明した。いつもは車で来て、交代した者がその車に乗って帰ることになっている。

「免許証が入った財布を家に忘れてしまった。すまんがタクシーで帰ってくれ。署長の許可は取ってある」

 そういう話をした。そしてこうも言った。

「出がけに妻から気になることを聞かされて、考え事をしていたせいかもしれない。たぶん洗面所の棚の上だな。今日は記念日だっていうのについてない」

 千尋の死を知り、張り込み現場から署に戻るときは亜須香からタクシー代を借りた。そして財布が手元に戻ってきたのは、歩道橋で犯行声明めいたメモが見つかり、飯塚英生が勤める弁護士事務所に向かう途中のことである。

「そうだ桜庭さん。署のトイレに落ちていましたよ」

 運転席の市ノ瀬が何気なく言って、二つ折りの財布を差し出した。事件のことで頭がいっぱいだった桜庭は深く考えずに財布を受け取った。

「あのときは俺がうっかりして、トイレに落としたものを家に忘れたと勘違いしたのだと思った。だが千尋の所持品からお守りが見つかって、それが俺のだとわかったとき、あり得ない可能性に気が付いた。これが俺の財布から落ちたものなら、財布は深夜千尋のハンドバックに入っていたことになる」

 桜庭はそっとビニール袋の中のお守りに触れた。歩道橋から落ちたはずみで、ハンドバックの中身は地面にぶちまけられていた。そのため表面に薄く汚れがついている。

「千尋は俺に財布を届けようとしたのではないか。張り込みを交代したあいつなら、忘れ物を持ってこさせる名目で千尋を家から連れ出すことができた。そしてハンドバックから抜いた財布を、トイレに落ちていたと誤魔化すことも容易だった」

「そういえば市ノ瀬の奴、桜庭の後輩だからって奥さんに随分可愛がってもらっていたな。財布、もしくは免許証が必要だと言えば、奥さんは不審に思うことなく届けにくる。だが真冬の深夜だぞ? 断るか、あいつを家まで来させることもできただろうに」

「千尋は気が強く頑固な一面もあったが、俺の仕事を誰よりも理解してくれていた。自分の話で俺を混乱させたと思い、責任を感じたのかもしれない」

 市ノ瀬なら張り込み現場からの帰り道、防犯カメラのない公衆電話を選んで桜庭家にかけることも可能だった。実際、自宅の電話には着信履歴が残っていた。千尋が拾ったタクシーも含め、本格的に捜査すれば疑いようのない証拠が見つかるはずだ。

「あいつは異常な執念でリクくんの行方を捜していた。犯行現場を見られたこと、証拠品を持ち去られたことでかなり焦ったに違いない。君がどこの誰かもわからず、素性を明らかにしようと躍起になっていた」

 桜庭は薄いパーカー姿のリクを気遣わしげに見た。その意味をどう解釈したのか、リクは怒ったように言った。

「俺のことなんかどうでもいい。あいつが何食わぬ顔で歩道橋に戻ってきたのを見て、警察は信用できないと思った。眞木さんがあんたを信頼していることは知っていたけど、裏切らない保証はなかった。そしたら次は家宅捜索とかでみんなが連れていかれて……。もうわけがわからなくなった」

 リクは眞木の隣の椅子にドスンと座り、忌々しげに足を組んだ。速水はそんな二人と桜庭を交互に見比べた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る