17
ミユキと名乗っていた女性の本名は入江美雪。通報者の入江尚志の長女で、その入江尚志は以前から御手洗母娘と面識があった。
その重要な情報がもたらされる前に、県警は大混乱に陥っていた。ひとつは御手洗誠が到着したこと。もうひとつは捜査本部から御手洗智代が姿を消したこと。付き添っていた女性刑事の証言によると、トイレに行くと言ったきり戻ってこず、気付けば三十分が経過していた。貴重品が入ったバッグがなくなり、スマートフォンはそのままだった。
すぐに防犯カメラを調べたところ、ひとりでタクシーに乗る智代の姿が映っていた。誰かに連れ去られたのではないものの、被害者の母親に行方をくらまされるという大失態に、蔵吉刑事部長は怒り心頭に発した。
「タクシー会社に問い合わせて行き先を特定しろ! しかし、何だって母親が警察の目を盗んで逃げ出すんだ? 娘を誘拐した犯人から脅迫を受けた形跡はないのか?」
蔵吉の矢継ぎ早の質問に、渡は内心の動揺を隠して答えた。
「母親のスマートフォンはこちらで預かっていました。メッセージが送られてきたのなら我々が気付くはずです」
「警察の中に犯人と通じている者がいるのではないだろうな? 母親にしかわからない形で脅迫メッセージを送りつけたのかもしれない」
「その可能性も否定できません。御手洗智代は何かに急かされるようにタクシーを拾っています。捜査会議と御手洗誠氏の出迎えで捜査員の数が減った隙をついたのでしょう」
「だから、それはなぜだ?」
「理由に関してはわかりかねます。捜査員を投入して行方を捜しています」
てきぱきと手順を説明する渡にも、なぜ智代が自ら姿を消すような真似をしたのか、全く見当がつかなかった。幼い少女を誘拐した犯人の素性に行き当たり、ようやく解決の糸口が見えたところだというのに。
そこに県警の鑑識課員である戸坂がやってきた。慌ただしく出ていく捜査員とぶつかりそうになりながら、渡がいる机の前で立ち止まる。
「まだ鑑定の途中ですが、気になることがありましたので報告に来ました」
そう言って、戸坂は一枚の書類を取り出した。
「あの家の間取りです。玄関を入ってすぐのところにリビングがあり、その奥に浴室とトイレがひとつずつ、そして寝室が四つあります。採取された指紋や私物の状態から、嶋武治と馬場怜司で一室、緒方佳純とミユキで一室、眞木祐矢はひとりで一室を使っていたとみられます」
「あと一室余ることになるな。家宅捜索の現場にいた女性ではないのか」
「吉村めぐみは近所に住む看護師でした。高齢の両親と一緒に住んでいて、眞木たち住人の体調を気遣ってよく家に来るそうです」
「では、本当にあの家の住人ではなかったと」
「ええ。四つ目の寝室に残されていた衣服は若い男のもので、明らかにそこで寝泊まりしていたとわかる痕跡がありました。指紋に前科前歴はなく、身元を特定する郵便物等も見つかっていません」
戸坂の報告を聞き、渡は「またか」と言いたくなった。あの家には一体何人、素性不明の若者が居候していたのだろう。
本日最大の頭痛が到来しそうなところに、通話を終えた辰巳が戻ってきた。
「うぐいすの郷に行っている速水からです。通報者の入江尚志には御手洗母娘との面識があり、本人もそのことを認めました。念のため県警に任意同行し、これから詳しく話を聞く予定です」
それを聞き、渡の脳裏に捜査本部でのやり取りが思い出された。
「事件関係者のリストを見せたとき、御手洗智代はこの中に知っている人はいないと言った。だがあそこには入江尚志の名前があった。通報者と被害者の母親が、互いに互いを知らないふりをした……」
「もし二人が親しい間柄だったのなら、それを隠そうとした理由は御手洗議員の存在ではないでしょうか。よい夫、よい父親のイメージを押し出す議員にとって、妻が娘を連れて他の男に会っていたという事実は致命的です。非難されることを恐れて他人のふりをしたのではないでしょうか」
「都議会議員の妻と前科のある介護職員の関係か。少なくとも御手洗智代が夫に黙って旅行に出たことは間違いない。捜査本部に保護してから落ち着きがなかったのは、夫に対して後ろめたいことがあったからだろう」
渡がそう推測を口にしたとき、今度は捜査本部の捜査員が入ってきた。ほとほと困り果てた顔をしている。
「失礼します。御手洗議員が早く責任者に会わせろとおっしゃっていますが……」
「ああ。会議中ということでお待ちいただいているからな」
今のこの状況を知れば議員は驚くどころか激怒するだろう。だがありのままを伝えるしかない。渡がちらっと視線を投げると、蔵吉はしぶしぶ立ち上がった。
「辰巳、眞木祐矢の聴取は桜庭の担当だったな。あの家にはもうひとり身元のわからない若者がいる。家主のあの男が知らないはずはない。入江美雪の素性に関しても、本当は知っていたのではないかとの疑いがある」
「わかりました。すぐ伝えます」
桜庭は会議室の中ほどで八重樫と話をしている。辰巳が頷くのを確認し、渡は蔵吉を促して会議室を出ていった。
数分後、辰巳の指示を受けた桜庭は、廊下で市ノ瀬と亜須香の二人と鉢合わせた。
「お疲れ様です。家宅捜索の首尾はどうでした?」
「まだ何とも言えないな。家の住人を呼んで取り調べている最中だ。そういえばしばらく姿を見なかったが、二人揃ってどこに行っていたんだ?」
「あれ、聞いてなかったんですか。署長も水臭いですね。飯塚夏苗の不審死について調べていたんです」
という返答を聞き、桜庭は素直に驚いた。
「よく田所署長が許可したな」
「あとで責任を取らされるのが嫌だったみたいですよ。飯塚家の近辺で聞き込みを行なったところ、数日前から若い男の姿が目撃されていました。顔はよく見ていないが、量販店で売っているようなブルーのパーカーを着ていたと複数人が証言しました」
「またその男か……」
桜庭はため息をついた。歩道橋の現場にいたあの男が飯塚夏苗の周辺でも目撃されていた。数日前から殺害現場の下見に来ていたのだろうか。だとすれば相当な執念を感じるが、これが千尋の事件とどう繋がるのだろう。
考え込んでしまった桜庭に、亜須香が元気づけようと言った。
「さっき青柳課長から連絡があって、利峰署に飯塚英生さんが到着されたと聞きました。弁護士だけあって慎重な人みたいですけど、指紋の提出と聴取に応じてくださっているそうです。少しでも捜査が進展して奥様との接点が見つかるといいですね」
「そうなれば一歩前進だが、今はこちらも大変なことになっている。御手洗唯花ちゃんを誘拐した実行犯の身元が割れた。……のはいいが、今度はその母親、御手洗智代が姿を消した」
これには二人とも度肝を抜かれたように目を丸くした。
「えぇ? 何がどうなったらそんなことになるんです?」
「俺に聞かれても困る。とにかく今は誘拐事件の捜査に戻ってくれ。会議室に行けば辰巳課長補佐が経緯を説明してくれると思う」
「桜庭さんは?」
「俺はこれから事情聴取だ」
そう言って二人と別れ、桜庭はひんやりと冷たい廊下を歩いた。
二件の不審死と誘拐事件に関連性はないが、どちらも素性不明の若者が絡んでいる。ひとりは素性が割れた入江美雪という女性。もうひとりはブルーのパーカーを着た前科前歴のない男。こちらはまだ素性がわからないままだ。自分はこれからどう動けば……。
そのときポケットでスマートフォンが震えた。青柳課長だろうかと深く考えずに取り出すと、画面には「公衆電話」と表示されていた。
公衆電話……。
一瞬ためらったが、桜庭は画面を指でフリックし、スマートフォンを耳に当てた。
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