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 夫による妻殺し、妻による夫殺しはありふれた犯罪の部類に入る。縁あって結婚したものの、どこかの時点で相手の顔がこの世で一番見たくないものに変貌する。泥沼の事件を担当するたび、こうする以外に方法はなかったものかとつくづく思う。

 仮に飯塚夏苗の死が夫の手によるものなら、少なくとも千尋の死は連続殺人によるものではない。頭の端でそんなことを考えている自分に気付き、ぞっとした。電話で話しただけの夫に罪を着せ、それで自分を安心させようとしている。

「……落ち着け。考えろ。そう単純なことではないはずだ」

 時間差があったとしても夫の犯行とは限らない。第一、これが夫による妻殺しであるならば、歩道橋に置かれていたあのメモは一体何だったのか。飯塚英生が千尋を殺したと考えるのは無理がある。そもそも千尋の死亡推定時刻、飯塚は横浜行きの夜行バスの中にいた。

 だとすれば考え方は逆で、千尋を殺した何者かが夏苗をも殺したということか。いや順序としては夏苗が先になる。飯塚家の自宅で夏苗を殺した犯人がその足で歩道橋に行き、千尋を突き落として殺した……。

 その場合、次に問題になるのは動機だ。千尋と夏苗が顔見知りだったとは思えない。桜庭が知らないだけかもしれないが、高級住宅地に住む弁護士の妻と一介の刑事の妻にどういう接点が考えられるだろうか。千尋は昔の同級生と今でも連絡を取り合っていたが、夏苗は千尋より十歳は年上である。

 桜庭は地図を引っ張り出し、何か手がかりはないかと目を凝らした。千尋が転落死した歩道橋と、飯塚夏苗の遺体が見つかった自宅。その二つは以前も考えたとおり、片道十分ほどで行き来できる距離にある。

 無意識に後頭部の髪をかき回しながら、桜庭は昨夜の自分の行動を思い返した。零時少し前に自宅を出て利峰署に寄り、それから張り込み現場である飲み屋街に向かった。市ノ瀬と交代したのが深夜一時。速水から連絡があったのが八時過ぎ。それがあるまで千尋は家で朝寝坊を決め込んでいるものと思っていた。

 地図に目を戻す。今朝まで張り込みをしていた飲み屋街は、二件の遺体発見現場と同じ利峰署管内にある。桜庭の自宅はわずかに範囲を外れ、同一県内とはいえ隣の所轄のエリアにある。

 自宅から歩道橋までは車で十数分といったところだろう。歩けば当然もっとかかる。季節と時刻からして現実的ではない。千尋が自らあそこに行ったとすれば、やはりタクシーを使ったと考えるのが妥当だ。

 そこまで考えて、以前も抱いた問いがまた浮かんできた。千尋はなぜあの時刻、自宅から離れた歩道橋にいたのだろう。誰かに呼び出された? それともどこかに行こうとした? 十二月の深夜、しかも妊娠中の身だというのに……。

 ――わからない。

 次々に湧く疑問が袋小路に突き当たった。これ以上考えても答えは出てきそうにない。天を振り仰ごうとして、桜庭は自分が家を出る直前、千尋が「話したいことがある」と言っていたことを思い出した。

「大事な話だから、あなたの仕事が終わったあと話したいの」

 あのときはあまり気にかけなかったが、そういえば千尋は何を言おうとしていたのだろう。かなり勿体ぶっていたが、急いで伝えなければならない内容なら電話をかけるかメッセージを送ればいい。現代人にとってスマートフォンは財布や免許証より必需品なのだから……。

 と、そこまで考えたまさにそのとき、デスクに置いたスマートフォンが振動した。表示も見ずに耳に当てると、かけてきたのは亜須香だった。

「桜庭さん、今どこにいるんですか」

「悪い、まだ利峰署だ。被害者の夫が電話をかけてきて、その対応で忙しくてな」

 嘘ではないものの、桜庭は事実をやや誇張して言った。

「市ノ瀬さんから飯塚英生の自宅で遺体が見つかったと聞きました。千尋さんの事件との関連性は見つかりそうですか?」

「まだ何とも言えない。本来なら近所の聞き込みに回るところだが、俺ひとりじゃ到底手が足りない。こうしている間も人の記憶は薄らいでいく一方だというのに、県警本部はそれを後回しにしろというんだからな」

 そう言いながら、桜庭は千尋のファイルを持ってきたままだったことに気付いた。あとで鑑識課に返さなければ、と思いながらページをめくる。

「それで、誘拐事件のほうはどうなっている?」

「これから二度目の捜査会議です。捜査一課の辰巳さんが、桜庭さんを頭数に入れていいのか迷っているみたいでした。青柳課長に聞いたら「本人の判断に任せる」と言われたそうです」

 二階の会議室にいるであろう分厚い黒縁眼鏡の上司を思い出し、桜庭はそっと天井を見た。

「今から向かうと辰巳さんに伝えておいてくれ。詳しくはそっちで聞くが、何か有力な情報は得られたのか?」

「いえ、それがまだ……。被害者の居場所はおろか犯人の手がかりすら掴めていません。似顔絵の女性が実行犯であることは間違いなさそうですが、周囲からミユキと呼ばれていたという以外、詳しい素性はわからないままです」

 責任を感じているのか、亜須香の声は今にも消え入りそうだった。情報がない、わからない、という台詞は刑事にとって屈辱的なものである。

「それでも前進は前進だろ。後退しているわけじゃないんだから大丈夫だ。それよりさっき思い出したんだが、桧野に借りたタクシー代、まだ返していなかったな」

「そんなこと、経理に領収書を回してもらえばいいですよ」

「すまないな。昨日は出がけに妻から話したいことがあると言われて動揺していたんだ」

 情けなさそうに言ったところで、ページをめくる手が止まった。鑑識課や遺体安置所でも見た、千尋の所持品を映した写真が載っている。あのときはそこまで気が回らなかったが、頭が冷えた今、小さな違和感を抱いた。

「桜庭さん? どうしました?」

 亜須香の声が聞こえ、はっと我に返った。

「ひとつ用事を片付けてから行く。会議には間に合わないかもしれないが、そのときはお詫びしますと伝えてくれ」

 一方的に話を切り上げると、桜庭はファイルを小脇に抱え、刑事課を飛び出した。行き先は鑑識課だった。

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