20年後の君へ
@hack_2011
第1話 時を越えて
第一章 待望のわが子
静寂に包まれた正午の男子トイレ。ちゃぽん、ちゃぽん、と水の音だけがやけに大きく辺りに響き渡る。
薄暗い電気がぼんやりと光を帯びた男子トイレの個室にその男はいた。
お腹が痛いわけでも、排便をしたいわけでもないが、その男は男子トイレの個室に彼是10分ほどは鎮座している。
普段であれば、トイレに人が入ってくるたびに一つしかない個室を占領していることを気にしてしまい、すぐにでも排便をし、個室を出るはずであったが、この時ばかりはそんなことなど正直どうでもよく思えていた。
彼はただひたすらにじっとスマホの画面を凝視し、誰かからの連絡を今か今かと待ちわびているようであった。
静寂の時間が続く中、再びちゃぽんと水道の水が落ちた瞬間、その男のスマホがぶーっと振動した。男は慌ててスマホの連絡アプリをすぐに開き、待ちわびていた連絡を確認した。
スマホの画面にはたった一言の文字が浮かび上がっていた。
「陽性だったよ。」
男はこの一言を目にするや否や、大きくガッツポーズをし、トイレに設置されたアルコールに腕をぶつけていた。
「いってぇ~、けどよくやったよ。やった、やった!!」
男は興奮気味に独り言を呟き、刹那、目尻が熱くなるのを感じていた。
そうして、男はスマホの画面に視線を戻し、連絡の送り主へと返事をしていた。
そうして彼はスマホをポケットにしまうと、便器のレバーを押込み、個室を出て、
隠しきれないほど、にやけた顔で再び仕事へと戻っていった。
蝉の鳴き声が響き続けた灼熱の昼が終わり、少しだけ気温が下がり始めた頃、この家の主人である
興奮状態にあった彼は車を降りてすぐ、鍵を閉めることすら忘れて、玄関にある大きな緑色のドアを開けた。
がちゃん
中に入ると、玄関に靴を脱ぎ棄て、小走りにリビングへと駆け出し、リビングへ繋がるドアを開けた。
目の前には18帖ほどの吹き抜け天井のリビングが広がり、トントンとまな板をリズミカルに叩く音が辺りへと響いていた。
そこにいた一人の女性の方へと凪斗は駆け出し、力強く抱きしめていた。
「わっ、凪君、どうしたの!?」
女性は小柄で瘦せ型、綺麗な艶のある黒髪のショートボブで、クリクリの眼をまん丸に見開き、凪斗を眺めていた。
「楓!やったね。これでついに俺たちも母親と父親デビューだ!!」
凪斗は嬉しそうな顔で再び強く楓を抱きしめていた。
「凪君、気が早いよ。まだ、陽性の判定をもらっただけだから。」
「それでも凄いよ。俺たちが今まで陽性判定もらったことなんて一度もなかったじゃないか。まあ、自慢できることではないけどさ。」
「そうだけど・・・喜びすぎたらダメだった時が・・落ち込むよ?」
そう言って楓は凪斗の顔を心配そうに見つめていた。
「凪君、私よりも落ち込むんだもん。なんか可哀想で・・」
「確かに毎度毎度、俺は落ち込んじゃうけど・・・今回はなんか俺、大丈夫な気がするんだ。なんか変に自信があるというか。」
「ふふ、なにそれ。」
楓はそう言うと、凪斗に抱きつかれながら再びまな板に置かれた野菜を切り始めた。
「今日はカレーかな?」
「うん、キーマカレーにした。」
「楓の得意料理じゃん。楽しみ。」
「その前にまず手洗い、うがいだよ。コロナだってあるんだから、感染症には気を付けてね。」
「へいへい~。」
そう言って凪斗は鼻歌交じりに洗面台へと消えていった。
「ふふ、凪君子供みたいに喜んでる。でも、ほんと・・・この子が私たちの希望よね。」
楓は小さくそう呟いていた。
森川凪斗と森川
結婚生活は順風満帆でお互いの気持ちを尊重しあえる二人には喧嘩をすることもなく、ただ二人で協力しあい、仲睦まじく暮らしていた。
しかし、一年が経ったころ、お互いに気にしていたことがあった。
それは子供が授かれないことであった。彼ら夫婦は妊娠を狙い、性行為を何か月も行ってきたが、この一年の間には上手く子宝には恵まれなかった。
二人で話し合い、不妊治療を専門に行う病院に治療に通うことにしてみた。
それから三年の月日が経過し、そうして今日、やっと初めてついに楓の妊娠報告を受けた凪斗であった。
正直な話、今日ばかりは仕事が全く手につかず、13時に予約してあった病院の診察が気になりすぎて、12時55分の時点で男子トイレに籠っていた凪斗であった。
念願のわが子に二人の顔は今日ばかりは笑顔があふれ、にやけた顔が傍目からでもわかるような状態であったが、そんなことは気にしない。
だって4年も待ち望んだ第一子、妊娠の報告、嬉しくないわけがない。
洗面台から帰ってきた凪斗はキッチンへと向かい、夕食の準備を手伝うのであった。
そうして、月日は流れ、妊娠報告を受けたのがつい昨日のように感じる中、既に楓は妊娠五カ月となっていた。
この頃には、既につわりも終わり、安定期と呼ばれる期間に突入していた。
まだ油断はならないが、安定期に入ってしまえば、流産のリスクもかなり減るらしく、この時期を境に親しい友人や職場へと妊娠の報告をすることが、一般的らしい。
彼ら夫婦もその頃に、社会の常識とやらに従い、お互いに報告をした。
友人や職場の同僚達は思いのほか喜んでくれて、自分達の子供が自分達だけじゃなく周りを幸せにする存在であることにも凪斗達は気づいていた。
「とりあえず、皆喜んでくれて良かった。職場とか報告するのってなんか気恥ずかしいというか、緊張するというのか、とにかく肩の荷がおりたよ。」
そう言って水を飲む凪斗の隣には楓が座っていて、お腹を優しくなでていた。
「うん、私も報告するの少し緊張したけど、皆喜んでくれたから安心した。」
「安定期にも入ったことだし、気が早いかもしれないけど、ベビー用品とか買わないとな~」
「もう!?少し気が早いんじゃない・・」
「楓もどんどんお腹が大きくなって動きにくくなるんだから、今のうちに買っといた方がいいんじゃないかな。早くても損することはないよ。」
「う~ん、確かにそれもそうか。今度の週末あたりに一度買いに行ってみる?」
「うん、いこいこ!!」
絵に書いたように幸せな時間が二人の間には流れていた。
凪斗はこの時間が永遠に続くような気がしていた。
そうして、毎日、毎日産まれてくるわが子を想像しながら、楓と二人仲良く暮らしていった。
しかし、彼ら夫婦の辿る道は決して簡単なものではないことを、この時の二人はまだ知らずにいた。
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