第7話 四日目
「昨日はすまなかったな」
翌朝。やはりスティルへの配膳は私に任された。ギンズはあの後、普段通りの爽やかな笑顔でスティルの部屋から戻ってきた。彼女を褒めそやして喜ばれた記憶しかないらしい。おめでたい奴だ。私と口論した事も忘れたのか、明日からはまたロクドトに任せてね、という彼女の言葉も素直に聞き、それを私とセンマードンに伝えてきた。
「いいよ。あれでチャラにしてあげる。凄いね、あの子。自分の言ってる事は全部正しくて、失礼な事なんて何一つ言ってないって顔で、正しくなくて失礼な事言ってくるんだもん。びっくりしちゃった」
昨日までは最初に出会った時に着ていた、争ったせいでか少し薄汚れた服をずっと身に纏っていたスティルだが、今日は真新しい服に着替えている。真っ白なワンピースに真っ赤なリボン。純粋無垢な少女性を体現したかのような格好だ。
「そういう格好をするから勘違いされるのではないか?」
「そういう奴を絶望のどん底に落とすのが楽しいの」
私には理解しえない趣味だ。
「それにこういう格好好きだし、似合ってるでしょ?」
彼女は立ち上がり、まんざらでもなさそうな顔をして一回転してみせた。スカートの裾がふわりと広がる。まぁ、似合っていない事もない。
「素直に言えばいいのに」
「う……むぅ」
「もう。昨日素直になればよかったって言ってたのは何なの? できないなら殺す」
「す、すまない……。その、似合って、いる。と、思う」
「歯切れ悪っ」
悪態をつきつつも、満足したのかスティルはソファに腰かけた。
「ねぇ、わたしがお願いしたものは昨日大体買ってきてもらったんだけど……ディサエルは?」
「それは買えるものではないだろう」
魔王が今どこにいるのかが分からず、昨日から捜索班を街に出しているのだ。すぐ見つかるのであれば苦労しない。
「ま、来る時は自分で来るもんね~。いつ来るかな。ずっと待ってるんだけど」
騎士団の誰かが魔王を捕まえられるとは微塵も思っておらず、それどころか魔王自らここに来ると信じて疑わないような口振りだ。
「キミは何故魔王がここに来ると思っているんだ? キミを置いて逃げたのに?」
「ん~? 別にディサエルはわたしを置いて逃げた訳じゃないよ。二手に分かれただけ」
「二手に?」
彼女は頷いた。
「もしかして、キミはわざと捕まったのか?」
またこくりと頷いた。
「何故わざわざそんな事を……?」
「だって、わたし達は二人でいたいだけなのに、あなた達がずっと追いかけてくるんだもん。当分は追いかけてこないように、ちょっと痛い目に合わせてやりたいな、って思ったの。でも、普通に懲らしめてもつまんないでしょ? だから趣向を凝らしてみようと思って」
これから悪戯を仕掛けてやろうと画策している子供の様な顔をしてスティルが言った。
「わたし達が信仰されていない世界に行けば、あのバカは自分が有利になると絶対勘違いする。現にわたしは捕まってここに囚われているから、あいつは余裕たっぷりでしょ? この世界でなら魔王も簡単に倒せると思ってるんじゃない?」
「ああ、そうだな」
「でも、それが全然倒せないどころか、むしろ自分が倒されそうになったとしたら? 絶対悔しがるよね。その様を見て楽しみたいの。わたし達は」
屈託のない笑みで言い切った。
「だからディサエルはその内絶対に来る。あのバカを倒す為に。あ、この事誰にも言っちゃ駄目だよ?」
「言った所で誰も信じないだろう」
「そうだよね~。その方がありがたいからいいけどね」
くすりと笑って彼女はソファに寝転がった。
「あ~あ、ずっとここにいるのすっごい暇なんだけど。この建物壊していい?」
「駄目だ。……暇を持て余しているのなら、キミの身体を調べさせてくれないか」
「あ、忘れてた、その事。うん。いいよ」
断られると思ったら二つ返事であっさりと許可が取れた為、この日は一日スティルの身体調査及び実験をして過ごした。スティルの調子が悪くなったから、と言えば一日中彼女の部屋に籠っていても怪しまれないのだから楽なものだ。恨むような目は向けられたが、もうどうでもいい。
彼女のプライバシーに配慮し詳細は伏せるが、体内でどの様に魔力が流れているのか、人間と神の身体機能の違い、本当に何をしても死なないのか等々、様々な事を調べさせてもらった。麻酔が効かないと言うから試しに打ってみたら本当に効かなかったし、そのまま身体を切り開いてもいつも通りに喋るものだから驚いた。彼女が消したと言っていた子宮もその通り無かった。
出したものを丁寧に入れ直して閉じると、開いた跡がすっと消えていった。元の通り、白く艶やかで無傷な柔肌だけがそこにはあった。指でなぞると滑らかな感触が伝わってくる。それがどうにも、憎らしかった。
(この器があれば……)
「ムルでも呼んであげようか?」
「……は?」
「あれ? ムルの事知らない? 原初の神の一柱。死を司ってる子」
「いや、それは知っている。急に言われても、意図が分からず返答に困るのだ」
「ああ、そう。あなたの妹の魂をわたしの身体に入れたそうにしてるから、ムルを呼んであげようかな~と思って」
「遠慮する。キミと妹は似ても似つかない」
「ふぅん。じゃあ、似てたらするんだね、“兄さん”?」
「……!」
瞬きすらしない内に、スティルの姿が変化した。肌は薄く色づき、腰まで伸びた髪は銀灰色に染まり、少し吊り上がった目は黄金色に輝き、平らだった部分には膨らみができた。見間違えるはずがない。私の妹の姿だ。
「ねぇ、どうするの“兄さん”? 似た姿になったよ。ムルに頼んで魂を持ってこさせようか?」
「っ……」
それまでずっと手術台に横たわっていた彼女が起き上がり、私の腕を取ってきた。幼い頃、妹が私に頼み事をする時によくそうやっていた。
「や、めろ……」
「“兄さん”、どうしてあの時“私”の魔力が混ざっている事に気がつかなかったの? “兄さん”がそんな間違いを犯さなければ、“私”はまだ生きていられたのに」
彼女のままの声で、妹の姿に似た彼女が詰め寄ってくる。気がおかしくなりそうだ。彼女は手術台の上で膝立ちになり、私の腕を掴んでいた手は、今や私の肩をがっしりと掴んでいる。
「でもわたしの身体に“私”の魂を入れれば、生き返ったようなものだよね。“兄さん”はもう罪悪感で苦しむ必要は無くなるんだよ」
そう言って彼女は抱き付いてきた。人を惑わせる様な匂いが鼻をつく。
「やめ……」
「ずっと一緒にいようね、“兄さん”」
「やめろ!」
「わっ」
無我夢中で彼女を引き剝がし、手術台に押し倒した。
「どうしたの“兄さ」
「黙れ」
妹の姿をした彼女が薄ら笑いを浮かべ、黄金色の瞳で私を見る。私と同じ目だ。
「元のキミの姿に戻れ。不愉快だ」
「いいの? もう二度とこの姿が見られないかもしれないのに?」
「ワタシが見たいのは妹に変身したキミではない」
「でもあなたの妹の魂をわたしに入れれば、あなたの妹そのものになるよ?」
「……」
「ね? 魅力的でしょう?」
駄目だ。迷うな。魅力的だなんて思ってはいけない。そんな事を考えては相手の思うつぼだ。
「いいか。妹はワタシが死なせて、その後解剖もしたのだ。妹はあの時死ぬ必要など無かった。ワタシの愚かさのせいで死んだ。失敗の原因を調べる為に、既に無残な状態だった妹を更に分解した。ワタシが殺したのだ! 徹底的に! だからワタシには妹に会う資格など無い」
「でも、会いたいんだよね」
妹に似た顔が唇の端を吊り上げた。——妹はこんな表情をしない。
「会って話がしたい。抱きしめたい。謝りたい。頭を撫でたい。ただ何もせず隣にいたい。成長を見守りたい。……そうでしょ?」
「分かったような口を利くな!」
それ以上何かを言われるのが、心の内を見透かされるのが怖くて、私は咄嗟に彼女を弾け飛ばした。彼女だったものが、壁や床や、何よりも私の身体に、べちゃりと音を立ててぶつかった。
(……汚い)
だから殺したり殺されたりは嫌なのだ。
「だって分かっちゃうんだもん。あなたはとても分かりやすい」
身体が散り散りになったにもかかわらず、彼女の声がどこからか聞こえてくる。喋っている間にも、腕が、脚が、どこかの肉片が、ゆっくりと動き元の形に戻ろうとしている。
「人の事を馬鹿とか愚かとか言ってるけど、それは自分の弱さの裏返し。己の弱さを知られたくなくて、自分の愚かさに気づかずのうのうと生きている他人が許せなくて、それ以上に嫌と言う程思い知らされている己の愚かさが許せなくて、虚勢を張ってしまう。ずっとそんな硬い殻に閉じ籠っていても、疲れちゃうでしょ? あなたに加護を与える神の前でくらい、もっと甘えてもいいんだよ? ほら」
完全に元の形に戻った彼女が——とは言えまだ妹の姿のままだが——手を伸ばし、私の頬に触れてきた。
「そんな静かに涙を流してないで、素直に泣きなよ」
「っ……」
言われてから気がついた。頬を伝うものに。視界が滲んでいるのは怒りの感情からではなかった。
暫くしてから目元を拭うと——いや、素直に言おう。暫くの間、彼女に抱きしめられ、彼女を抱きしめながら泣いていた——、彼女の姿は妹のそれから元に戻っていた。穢れの無い白。純粋無垢な少女の姿。しかして穢された跡が“無い”という形で存在し、純粋無垢とは言い難い、何千年も生きる神の姿。
「……キミはその姿の方がいい」
「お、素直に言ったね」
「わざとやったのだろう。ワタシに思っている事を素直に言わせる為に」
「うん。いやぁ、あなたっていっつも気難しそうな顔してるし、全然素直じゃないから、なんかちょっとつまんないんだよね。昨日だって素直になればよかったとか言ってたくせに、全然素直になってないんだもん。わたしはもっと自分の欲望や感情に素直な人の姿が見たいの。その方が面白い」
「迷惑な趣味だな」
「いいの。わたし神様だから」
そう言って彼女は、月の光の様に柔らかな笑みを浮かべた。無茶苦茶ではあるが、そんな彼女にどうしようもなく愛おしさを感じた。
その後私は、自分の気持ちを素直に吐露した。彼女はそれを、時折相槌を打ちながら聞いていた。こうして素直に話すのは恥ずかしくもあったが、同時に蟠っていたものが解けていくような心地よさもあった。きっと私は、誰かに話を聞いて、慰めてほしかったのかもしれない。それを邪魔していたのは、他ならぬ自分自身の、つまらないプライドだった。だからと言って話を聞いてくれる相手は誰でもいいという訳でもなく、たぶん、彼女だから話せたのだと思う。泣いている私を馬鹿にしなかったから。彼女の姿に、妹の影を見ていたから。私の妹は、最も美しい女神の様に育ってほしいという願いを込めて、スティルと名付けられたから。
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