幼女さん、それ以上はいけない サイドストーリー置き場
さくさくサンバ
バレンタインデー
『おねえちゃん』から『おとうと』へ
年に一度、が意味を持つのはいつからだろう。
友達の一人は今年こそがその節目の年らしいし、別の友達なんかはもうずっと前から、今日という日は特別なものであるらしい。
今日、2月14日、つまりチョコレート会社の陰謀ってやつ。お父さんがそう言っていたもの。
背の高いテーブルに頬杖つくには、うちで一番大きな椅子を使わなくっちゃいけない。
もうすぐ中学生だというのに、私の身長はちっとも私の期待に応えてくれないのだ。
チョコでも食べたら伸びたりしない?
しないよ、って言ってる気がする。私は唇を尖らせる。それは裏切りもの二人に対してだ。
「もう五時なんですけどー」
随分暗くなった窓の外を見ながらぼやく。
私は今、人待ちをしている。
テーブルの上には、ボウルとヘラ、型抜きを用意していて、台所にはお湯もばっちり。
つまりそういうことなんだけど、肝心要の材料を買いに行かせた『おとうと』がまだ戻ってこない。
すぐ近くのコンビニで板チョコ五枚買うだけに何分かける気なのか。
私がいよいよ退屈に欠伸をしそうになった時、ようやく玄関からチャイムの音が響いた。
椅子から勢いよく降りて迎えに行く。玄関を開けてやってすぐ、目の前になにやら突き付けられた。
「見てくれこれ! バレーボールのチョコ! すげぇだろ!?」
『おとうと』が小さな手で握っているのは、バレボールのチョコ、らしい。ぶっちゃけ、しっかり握っているからほとんど見えない。
「へぇ、すごいね!」
「だろ!? だろ!」
私が同調するとくしゃくしゃに破顔する。そんな満面の笑みを向けられると、心からってわけじゃないから少しバツが悪い。
『おとうと』は廊下をじりじりゆっくり歩きながら楽しそうに丸いチョコを手のひらに遊ばせている。ポケットから取り出し、一つ、二つ。
「ちょっ……っと待ったぁ! あんたそれ何個買ったの!?」
四つ目が出てきたところで私は大きな声で呼び止めた。
「五個!」
わぁ、じゃあ、いま取り出したので最後なんだね。よかったよかった。
「よかなぁい! あんた板チョコはちゃんと買ったの? そのバッグ、ちゃんとチョコ入ってるんでしょうね?」
『おとうと』が愛用している青いポシェットを指差して言う。
「四枚買ってきた! バレーチョコは五個だ。こっちのがすげーから」
私は額を抑えて沸々と湧き立つ感情を押し留める。園児の言うことだ。むしろ四枚は買ってきたのだから立派にお使いを果たしたと言ってあげられなくもなくもない。
「はぁ……私にも一個ちょうだい、その丸チョコ」
それでチャラにしてやろう。てか私のお小遣いだしね。最近、お使い事に自信を持っているというから『おとうと』に行かせてあげたが、そうした自分の判断のせいでもあるし。
「やだよ! これ俺のだ!」
やっぱ思い切り頬をむにむにと両手で挟んで摘まんで赤くしてやった。
モノを揃える段からそんな一悶着があったわけだけど、とりあえず作業にかかる。お父さんが帰ってくる前には、冷蔵庫に仕舞ってしまいたい。
陰謀、を私に伝えるついでに、お父さんはかなり真剣に言っていたから。
「だからおまえにはチョコを作る……渡すなど十年早い。いいか? 陰謀に飲み込まれてはいけないよ。わかるかい?」
当然私は「わかったー」と言った。もう少し再現するなら「ワカッター」って感じ。娘の声の抑揚の違いにも気が付かないなんて、失敬しちゃう。
「なぁなぁ、俺もエプロンする」
「……あんたそんなこと言って、手伝うつもりはあるの?」
「ねえ! 俺、エプロン着たいだけだ! あれかっけーから!」
私がチョコをパキリパキリと割っていくことすら見ているだけの『おとうと』は、そのうちいつか結婚でもしたら苦労させそう。なんて自分勝手に育ってしまったのか。
「それに手伝って失敗するとぶん殴られるし!」
勝手に、育ったんだよ? 私は何もしてない。うん。……だってクッキー生地を全部う……ぅううううんな形にするんだもん! ほんっと最低だったアレは!
先週のことを互いに根に持っている私と『おとうと』だから、手を出さないというのは賢明な判断ってやつではあるかもね。
「ほらこれ。汚さないでよ?」
「まかせろ!」
『おとうと』用の小さなエプロンを渡してやる。うちに来る頻度が頻度だけに、お父さんがなぜか私のと一緒に買ったのだ。セット価格だったかららしいけど。
チョコを更に細かく砕きながら、リビングのソファの上でエプロンをマントにしている馬鹿に注意する。
「エプロン、踏んづけてこけないように気を付けなよ」
「おう!」
と珍妙なポーズを決めている。カーテン閉めといてよかった。別に開けてても家前の道路から見えちゃうとかないけど、気分的に。
「なにレンジャー?」
「俺レンジャー! みんなで俺レンジャーやってんだ! いま!」
どうも『おとうと』の通う園では謎の集団が流行中らしい。
「あんたあんま先生に迷惑かけてないでしょうね」
同じ園には私も通っていた。もう記憶は朧気だけれど、優しそうな顔をした先生が思い浮かぶ。
「まーたんせんせいも俺レンジャーだぞ! 一番下っ端の俺レンジャー!」
本当に、どうか盛大な迷惑だけはかけていませんように。あと、先生は頑張ってください。
湯煎で溶かす間は、なぜか『おとうと』が興味津々だった。一秒おきにスプーンで突っついては「おぉー……」なんて感激している。変なやつ。
「なにが面白いの?」
「こいつどんどんぐにゃってく。俺も負けてらんねぇ」
スライム人間でも目指しているのか。
程よくチョコが溶けると『おとうと』は興味を失ってテレビの前に戻っていった。そしてすぐ子供向けアニメの劇場版に夢中になっているから、チョコのことなどもう忘れたのかもしれない。
今日、今年のチョコ作りは来るべき時のための練習だから、レシピを見ながら色んなことを試してみる。
ミルクを混ぜたり、クッキーに塗ったり。もちろん最低限の手を加えるのは忘れない。
いつか、こんな作業を、私も浮き立つ心でやる日が来るのだろうか。
ふにゃりと笑って「今年も作ってあげるんだ」と言った彼女のように。
ツンケンとした口調で「た、たまには? 作ってやってもいいかなって思って?」と言っていた彼女のように。
私もいつかは、心を一緒に、チョコレートに溶かす日が来るのだろうか。
「静かだ……なんか……きもちわりぃ」
とりあえず今年は怒りは込められそう。ソファの背から顔だけ出した『おとうと』に言い返す。
「うっさいぞ! テレビ見てなさいよね」
「おお、いつもどおりだ。よかったよかった」
何がよかったものかと思いつつ、私はチョコを型に流し込む。たった一つ用意しておいたハート型。それなのにまったく全然、ハートな気分じゃないじゃない。
一通りチョコ作りを終えた後、片付けをしながらさっきの続きを考える。
つまりそう、私の未来だ。あるいは、今、であるのかもしれない。
私は私の母を知らない。
顔は知っている。声も知っている。どんな人かは知らない。
映像に残しておいてくれたって、私にはただの良く知らない人なのだ。それを、お父さんの前では見せないけれど。
お父さん。
お父さんのことは大好き。このチョコだってお父さん、と一応は『おとうと』に食べてもらうつもりでいる。つもりというか、どうせ喜んで、もしかしたら涙くらい流して食べてくれると思う。
大好きだし、愛されている。
愛していた、ということはわかる。
愛がどんなものか知らない私にもわかるくらい、お父さんの話に、家のいたるところに、出掛ける先に、お父さんのお母さんへの愛を実感する。
だからほんとは、訊いてみたかった。
お母さんは、お父さんを愛していましたか? って。
どんな風に愛してましたか?
何年か何十年か前の今日と同じ日のために、チョコを作る時、どんな気持ちでしたか?
この家は、二人には少し、広すぎると感じる時があります。
「あ! もしかしてチョコできたのか!?」
こちらの様子を確認したらしい『おとうと』がワクワクといった顔でやってくる。
こちらの気なんかお構いなしだ。
私はちょっと思いつく。
「そだなー、いま冷蔵庫入れたから、あと一時間くらい?」
「そんなバカな!? ぐあああ! 俺はどうすればいいんだっ!?」
「めちゃくちゃ大袈裟じゃん……」
呆れつつ、テーブルの上に残しておいたチョコの切れ端を差し出す。
「はい。今はこれで我慢ね」
「おおお! ありがとう! 感謝する!」
受け取って、『おとうと』がそれを口に入れるのを、私はにやにやと見ていたのだった。
「うはぁ、あまぁ……くねぇ!? あまくなっ!? にがっ、にがあああぁあああ! なんだこれ!? なんだっ、これっ。これ毒だ!」
「なはははは! それ、カカオ90%だから! 甘くないだけでチョコはチョコだよ」
「うおおおおおお! だましたな『舞おねえちゃぁあん』!」
「騙される方が悪いのよぉ! へへーん」
私にまだ愛はわからない。
でもいつか、愛を知るなら、それは今みたいな、笑顔の中がいい。
いつか誰かを愛す時、ちゃんと愛せるように。
だから『おとうと』、あんたもいつか誰かを、ちゃんと愛しなさいね?
――――――
10 years ago
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