第三章

第八話 「麻薬の嘘」 前編












 私は、大きなに腰を下ろしていた。

 鳩尾の高さまで、湯が張られている。

 それがが冷めてくると、使用人が熱い湯をぎ足してくれる。

 暖かさに身体が解きほぐされ、ため息をついた。


「旦那様、湯加減はいかがですか?」


 最近雇った若い男の使用人が、私に尋ねた。

 彼は、燃え盛る暖炉に薪を入れている。


「いい塩梅あんばいだね。そろそろ上がるから、火はもういいよ」


 立ち上がって、たらいの縁をまたいだ。

 天井から吊るされた目隠し布をくぐる。

 濡れた亜麻あまの股引を脱いで、乾いた布で身体を拭く。

 使用人は、鎧戸よろいどを開け、油紙の日除ひよけ幕を窓におろした。

 部屋に籠もっていた熱気が、逃げる。

 代わりに、春の爽やかな空気と陽光が部屋に入ってきた。

 五間三間ごけんさんけんほどの夫婦の寝室。

 羽毛布団の敷かれた天蓋てんがい付きの寝床。

 壁際には、箪笥たんす長持ながもちといった家具。

 使用人が、新しい肌着と服を持ってきてくれた。

 白い亜麻の股引と肌着、繻子織しゅすおりの長衣。

 それを着て、階下に降りた。




 二階では、食事の用意が始められていた。

 長机に亜麻布を敷き、銀皿に乗せられた料理が並べられていく。

 料理人が、皿の内容を一つ一つ教えてくれた。

 牛の脂および骨髄を刻み込んだ子牛肉の練り物。

 辛子入りこいの煮汁。

 玉ねぎと葡萄酒入りのうさぎの煮込み。

 小麦の、最も細かい粉だけで作られた白パン。

 甘く煮漬けた梨。

 私とディーは、長机に向い合せに座った。

 錫鍍金すずめっき小匙こさじや小刀、あるいは手づかみで料理を楽しむ。


「これ、美味しい」


 ディーが、嬉しそうな顔をする。


「そうだね」


 私も、微笑んだ。


「今日は、いつ頃出かけるの?」

「夜に来てくれって言われてるから、晩飯食べてからかな」

「何か持っていく物はある?」

「必要な物は向こうで用意してくれるってさ。鎧はあちらに置いてあるし、剣だけ持っていけばいいみたい」




 その晩、私は、ディーに見送られて新居を出た。

 煉瓦れんがで屋根をいた、三階建ての家。

 街の中心部から、ほど近い、準一等地といって良い立地にある。

 使用人たちは、基本は通いだった。

 夜は、住み込みの女中一人になる。

 通常、こういった家は貴族か、親方組合に所属していないと購入は難しい。

 しかし、商人ジュリアーノに頼んだところ、彼が全て手配してくれた。

 費用は、帝国銀貨千枚。

 ちなみに、女中の採用にあたっては、ディーの入念な面接があった。

 肝っ玉が据わっている事、口が固い事、私に色目を使わない事など多様な採用基準があったらしい。

 最終的には、歩兵傭兵隊のとある寡婦かふとその娘が選ばれた。

 私とディーが迷宮から、時には傷ついて、あるいは怪物の一部を持ち帰っても慌てず騒がず対応してくれるので、重宝している。

 また、娘の方が先日婚約したというので、私は持参金を用立ててやった。

 当面は、通いで仕事を続けてくれるようだった。

 場合によっては、小間使いをもう一人増やした方がいいかもしれない。




 聖騎士たちの拠点の農家に着くと、礼拝堂に案内された。

 白い長上衣に着替え、ひざまずいて祈りを捧げる。

 私は、祈りを翌朝まで続けた。

 もっとも、椅子には座らせてもらえたので、何度かうたた寝はしたが。



 翌日。

 丈の伸びた冬小麦畑を望む空き地。

 山査子サンザシの白い花と新緑が目に鮮やかだ。

 それらが穏やかな風に揺らされる音。小鳥の鳴き声。

 そんな風景の中、私は修道士たちの手によって武装させられた。

 この日の為に職人に発注した、当世風とうせいふうの鎧一式。

 綿入り刺し子縫いの胴着と猿股さるまたを着た上で、板金のすね当てを、革帯で締めた。

 膝当てともも当ては、既に革紐かわひもでつながれている。

 これを、胴着の裾から伸びている革紐で吊るした。

 その後に、革帯で脚に締めていく。

 四分袖で裾の短い鎖かたびらをかぶり、革帯で腹を締めた。

 その上から、板金の胸当てを着ける。

 たすき掛けになっている革帯を締める。

 前腕当て、肘当て、上腕当ても板金製で、革紐でつながれている。

 これを胴着の肩口から伸びている革紐で吊るし、革帯で腕に締めた。

 肩当ては、襟の根本から伸びている革紐で吊るす。

 さらに、蛇腹構造で上腕にかかっている部分を革帯で締めた。

 小手は、革手袋に細かい鉄片を縫い付けた物だ。

 五本の指が、自由に動く。


「これも着けると良い。私からの贈り物だ」


 最後にユテル修道士が、煮固めた革の喉当てを着けてくれた。


「こういった物を着ける者はあまりおらんが。私は東国でそれに命を救われた事がある。あとは……」


 彼は、私の股間をかるく叩いた。


股袋またぶくろは綿だけでなく、何か硬い物を入れておいた方がいい」


 まあ、そこを財布代わりにする奴もいるくらいだし、木を削って小さな椀でも入れておこうかと思う。




 その頃になると、農家の周りに、結構な数の見物人が集まっていた。

 ディーが声をかけたノルドの男たち。

 うちの女中さんが仲の良い婦人たちに声をかけ、それに連れられてきた歩兵傭兵隊の男連中。

 それから、街の参議会に雇われている騎士たち。

 もちろん、実際に来たのはそれらの中でも物見高い一部の連中にすぎなかった。

 それでも、家族や従者を入れれば五十人ぐらいはいそうだった。

 そして街から呼ばれた司祭が進み出て、見物人に向かって声を張り上げた。


「至福なる主、全能の父よ! 地上において邪悪な者の悪意を抑え、正義を守る事を許し、民を保護するために騎士の位階を設ける事を欲し給うた主よ! ここにいるあなたの奉仕者が、いかなる剣をも、人を不当に傷つけるために用いる事なく、常に正義と法を守るために用いるよう、彼の心を善に導きたまえ!」


 武装した私は、司祭の前に進み出て膝を着き、こうべれた。

 人々は静まり返り、司祭の言葉に耳を傾ける。


「カスパーなる子羊よ。これよりなんじは、いついかなる時も教会を防衛する責務を負う。また寡婦、孤児、貧者を保護し、悪人を追跡しなくてはならない。戦場においては、自らを守る力を失った敗者を殺さないこと。法廷では、偽りの判決や裏切りに加担しないこと、もしそれらを阻止できないなら、その場を立ち去ること。日常生活については、婦人に悪しき忠告を与えないこと。隣人を窮地から救うこと。これらを為す事を誓うか?」


「はい、誓います」


 私は、司祭に答えた。

 ユテル修道士が、待ちかねたように司祭を押しのけた。

 彼は私を立たせ、聴衆には聞こえないよう声を潜(ひそ)める。


「さてカスパー殿。昨今では、教会や王侯貴族様がたが、しゃしゃり出てきて五月蝿うるさいが、本来これは戦士が戦士を認める儀式だ。貴殿は誇りをもってこれを受け入れればよろしい」


 老修道士はそう言って、今度は聴衆に向かって声を張り上げた。


「騎士"ユテル・ポンドラゴン"の名を持って、これなる者を騎士にじょする!」


 老聖騎士は、私を平手で叩いた。

 叩いたというか、手首の底で顎を打ち抜かれた。

 一瞬ぐらっとするが、持ちこたえる。


「これは貴殿が、われなく振るわれる最後の暴力である。これより後、貴殿は不当な扱いに対して剣を持って報復する権利を持つ! さあ、剣を取れ!」


 ユテル老聖騎士が差し出した剣を、受け取った。

 聴衆が、歓声を上げる。

 修道士の一人が、足に拍車はくしゃを着けてくれた。

 私は、馬の乗り方を知らないけれど。


「ほれ。皆に応えなされ」


 ユテル修道士に言われて、剣を掲げた。

 歓声が一際大きくなった。




 儀式が終わった後は、祝宴だった。

 楽師が呼ばれ、大量の飲食物が振舞われた。

 見物客の半分は、これを目当てに来ている。

 そして残りの半分の目的は、これから開催される武術試合だった。

 出場するのは、騎士たちと、若い聖騎士たち。

 それと、私。

 馬に乗れない私に配慮して、試合は徒歩かち試合のみだ。

 十間四方ほどの柵に囲まれた敷地で、十対十の集団戦が何回か行われる事になっている。

 選手は全員、私と同じような板金鎧を身に着けており、刃を落とした鉄の武器を用いる。

 倒れたら死亡扱い、相手の組を全員倒したら勝ちという規則。

 一応、突きや急所攻撃は禁じられているし、これだけ重武装していると刃の無い剣や斧で多少叩かれても効かない。

 とは言え、重い鎧を着て戦士同士がぶつかり合い、取っ組み合い、時には多対一で一方的に鉄の武器で滅多打めったうちにされる。

 骨折や靭帯を痛める事ぐらいは覚悟しなければいけない。

 私も事前練習で何回か戦ったが、これは例えばユテル修道士がやっていたようなとうの棒での試合のような華は無い。

 突きが無い分、武器の攻撃は単調で組み合いが多くなる。

 集団戦である故に、読み合いや駆け引きといった部分は少ない。

 眼前の敵の意図や弱点を見極めようなどとしてると、背後から吹っ飛ばされるからだ。

 しかし、頑健な身体と強い足腰、乱戦の中での判断力、負傷や数的不利状況でも戦闘を継続する精神力など、実際の戦闘に際して必要な物が多く含まれている。

 籐の棒の試合の上手は、必ずしも戦場の強者ではない。

 しかし、この競技で強い者は戦場でも強い。

 そんな競技を目前にして、若く強壮な騎士や聖騎士は、いきり立っている。

 騎士階級の若者は、日常的にこういった武術試合を楽しんでいるらしい。

 一方、私はあまり乗り気でなかった。

 どう考えても、四十過ぎたおっさんが混じっていい競技じゃない。

 祝宴の費用と、武術大会の勝者に出す褒賞金で、ひと財産飛んでる。

 金も出して怪我もするんじゃ、割に合わない。




 競技場の柵に寄りかかって憂鬱になっていると、ディーが私の兜を持ってきてくれた。

 一枚板を滑らかな曲線に打ち出した物で、頭頂部だけでなく、耳や後頭部まで覆うようになっている。

 更にそこからは鎖かたびらが垂れていて、首や肩を守る。

 また、可動式の面頬めんぽおが付いており、口元は円錐状に長く伸びている。

 その為、この兜は"犬面いぬづら"と呼ばれるそうだ。

 ディーが、面頬を上げたまま、兜をかぶせてくれる。

 私は、革帯で顎を締める。

 彼女は、口角を上げて笑みを見せた。


「わぉん」


 そう言って、私に口付けをし、面頬を閉じた。

 、やる気が出た。










 主人公の新居のイメージです。

https://en.wikipedia.org/wiki/Medieval_Merchant%27s_House

 あと、あと新調した鎧のイメージ

https://steel-mastery.com/armour-of-the-xiv-century-in-churburg-style.html

 鎧を着ていく過程のイメージ

https://youtu.be/k24y_ZmxRHg

https://youtu.be/0VaNfeBj6jA


 徒歩試合については、"Historical Medieval Battles (HMB)"" Buhurt""Armored Combat"「アーマードバトル」等の呼称で呼ばれる現代の鎧競技を参照しています。

 おそらく中世においても類似したルールで開催されていた時代・地域はあるんじゃないかと思いますが、史料的なエビデンスを確認した事はありません。






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