奈落

「じいちゃんさ、笹倉のこと恨んだりしてないの?」


 心配そうな井村の方へ視線を投げつつ、無表情の真が首を傾げながら口を開いた。

 井村はその言葉に柔らかな笑みを浮かべる。


「恨んでなんかいないさ。心残りと心配はあるけれど、彼自身は悪くない。私はそう思っている。そう信じたいんだ」


 真の問いにそう答えてのけたのだった。


 そんな井村をみて、真だけでなく裕樹も、この人は僧侶に転職してもうまくやっていけるんじゃないかという感想を抱いた。


「笹倉くんのことだけでなく、君たちのことも僕は心配しているんだよ。特に悠木くん」


 井村は二人を交互にみて、本当に心配そうな表情を浮かべて言った。


 裕樹はその言葉を複雑な気持ちで受け止める。


 今まで他の人が自分と同じような立場にあったとして、他の人が労らわれたり心配されることはあっても、自分が心配されるようなことなど一度もなかったどころか、失望や怒りの感情を持たれたことしかなかった。


 もし資料を拾ったのが僕だと知られてしまったなら、こんな風に心配されることはないのではないだろうか。


「気を悪くしないで聞いてほしいんだけど、君は少し自己犠牲的なところがあって、見ていてとても危うい。それを優しさだと勘違いしてしまっているなら、早めにその考えは改めたほうが良いと思っているよ。君はとても心が優しい。でも、自分を犠牲にするのは本当に優しさの表れだろうか。僕には優しさだとは思えないんだ」


 井村先生にしてはストレートな物言いに、裕樹は少したじろいでしまった。


 とても真剣な眼差しでまっすぐ見つめてくれる井村から目を逸らし、俯いて机の一点を見つめながらどうしてこんなことを言われているのか考えを巡らせていた。


 自覚がないからなのか、どうしてもわからない。


「じいちゃん、その話はまた今度にしよう。俺とじいちゃんの関係を知っただけでも十分ショックだっただろうに、いきなりそんなこといっても混乱するだろ。それに、いつものじいちゃんらしくない」


 真からの助け舟に裕樹はほっとしたが、向き合わないといけない大事な問題に今、背中を向けていいのかどうか、葛藤した。


 今ここで井村先生と話し合った方がいいのではないのだろうか……。


「それに、裕樹はこうやって誰かと話すより、まずは一人で考えてわからないことやどうしても気づけない点があれば、一緒に話して考えるスタイルを取った方がいいと思うんだ。転校してからずっと見てきて俺はそう思ったかな」


 ただし、抱え込んじゃうから一緒に話して考えたいのに相談はしてくれないんだけどさ。


 少し寂しく真はそんなことを思ったが、口には出さなかった。




 真の言葉はもっともだと裕樹は思った。


 僕はいつも一人だったから、そういうやり方が一番しっくりくるし、何よりも落ち着いてしまう。慣れない方法をとるより、いつもやっている方法のほうが考えもまとまるだろう。


 そう考えると同時に、真がそこまで自分のことを見てくれていたのかと思うと顔が火照ってしまった。


 よく人のことを見ているんだなと思いつつ、自分が真のことをここまでしっかり見ることができているのか不安になっていくのだった。


 僕はいつも不安になっている。


 どうして不安を抱くのかわからない。


 人のことを信用できてない証拠なのではないかという考えが思い浮かぶと胸が痛い。


 後ろめたいことばかりで、誰にも必要とされていないという思いが強いということも手伝っているのかもしれない。


「いちばんたいせつなことは、目に見えない」


 真が唐突に『星の王子さま』に出てくるキツネのセリフを口にした。


 大好きな本のセリフに裕樹はすぐ気づくことができたが、自分の考えを見透かされたのではないかと思ってしまうようなタイミングだったので、多少ドキリとさせられてしまった。


 真くんまで、どうしてしまったのだろう。さっきの先生のアドバイスの後に続いたということなのだろうか。


 怪訝そうに真のことを無自覚で見ていると、頬をかきながら、どう言ったものかと少し考え事をしている様子が伺えた。


 真はいつもポーカーフェイスで、自分の考えや心理状態がばれそうな仕草などひとつもしてこなかっただけでなく、小説のセリフを引用してくることなんて一度もなかったのに……。


「上手く言えないけどさ、裕樹。目で見えることや言葉に惑わされるな。しっかり行動を見るんだ」


 真が珍しく顔を赤くしながらそんなことをいうので、ついはにかみながら元気よく頷いてしまった。


 そんな僕をみて、ますます照れくさそうにしているのを見ると、どういうわけか、もう二度と真に会えないような錯覚に陥ってしまうのだった。


 気が付くと、あたりは薄暗くなってきていた。


「すみません、そろそろ家に帰りますね。もうこんなに暗くなっていたなんて」


 そう言いながら立ち上がると、真と井村先生が同時に立ち上がり、玄関まで見送ってくれた。


 二人ともどういう訳か少し不安そうな表情を浮かべている。


「裕樹! 気をつけて帰れよ……」


「うん! 心配かけてごめんね。また明日!」




 また明日と言って歩き始めた裕樹の背中を見ていると、家まで送りたい衝動に駆られたが、どうしてなのかわからなかった。


 見えなくなるまで手を振り続けながら、送っていくかどうかの迷いを振りきれないまま、その場から動くことができなかった。


 もう二度と裕樹には会えない。


 そんな考えたくもない予感が真の心に広がっていった。


 どうやら不安を覚えていたのは真だけではなかったらしい。


 そっと肩に温かい手を置かれる感触があり、振り返ってみると井村もまた不安そうな面持ちでずっと見送っていたのだった。


 嫌な予感しかしない。


「じいちゃんもひょっとして胸騒ぎを覚えてる?」


「ああ。笹倉くんの話題になったときから、裕樹くんに何か不吉なことが起きる気がしてならないんだ。言い訳がましいけど、いつになくストレートな物言いだったのは不安で仕方がなかったんだ」


 裕樹が歩いていた道を二人は言葉も交わさずにじっと見つめ、しばらくすると井村が真に風邪を引かせまいと、家に入るよう促した。


 家に入る間際、真の目には、裕樹の後ろ姿をもう見ることのできない道が、奈落の底のように真っ暗で冷気に満ちているかのように見え、背中が粟立つのを感じた。


 思い違いだと信じたくて頭を振り、祖父がこのままだと風邪を引くと判断したように、ただの寒さによるものだと思い込みながら家に入った。




 目に見えることや言葉じゃなくて、行動かあ。


 真が言っていた言葉を思い返すと、どういう訳か、本をゴミ箱に放り投げられた時――加藤を殴り飛ばしてしまった時――笹倉が真っ先に加藤の元へ駆け寄っていたことが頭に浮かぶ。


 笹倉くんって本当は悪いやつじゃないんだろうな。僕が笑ってしまったがために、笹倉くんに暴力やいじめをさせている……。


 もし僕があんなに笑っていなかったなら、もっと違う道があったんだ。


 そんなことを考えていると、井村の言っていた『自己犠牲的』という言葉が思い当たった。


 ひょっとすると、なんでもかんでも自分のせいにして、相手が人のせいにしてしまうのを助長しているのだろうか。相手が僕に危害を加えるとき、僕は否定しなかったし嫌がりもしないで笑って受け止めてしまった。そのせいでエスカレートさせてしまったのかも。


 自分が自分のせいにしてしまうことで、相手を加害者に仕立てあげてしまっているのではないか、少しでも許容するとどんどんエスカレートし、後戻りさせてくれないし、している本人は後戻りできないのでは、という考えに行き着き、だんだん申し訳ない気持ちが湧き上がってきた。


 初めて日直の仕事を頼まれたあの時、僕がきっぱり断っていればよかったと思うと同時に、笹倉に資料を届けなければ、井村先生の想いをしっかり伝えなければという、使命感にも似た覚悟ができあがってくるのだった。


 僕がしたことなのだから、僕がしっかり精算しないと。


 でも、いつ渡そう……。


 笹倉くんが僕の話に耳を傾けるだろうか。


 もし教室で堂々と資料を渡そうとするならば、井村先生の汚名は晴れても笹倉くんの立場が悪くなる状況になる。そうなったら冷静な気持ちで僕の話を聞いてくれるだろうか。いや、聞いてくれないに違いない。


 機会を作るには……加藤くんに頼んでみよう。


 彼なら笹倉くんを説得してくれるという確信があったし、笹倉くんよりも話を聞いてくれるという希望があった。


 根拠は微塵もないけれど。


 いや、根拠ならある。あの日、笹倉くんを僕が殴りそうになった時、身代わりになって殴られていた。


 きっと僕のことは大嫌いだろうけど、笹倉くんのためになることなら協力してくれる。


 次に考えるべきことについて頭を巡らせてみる。


 あとは場所かな。どこなら笹倉くんにちゃんと話を聞いてもらえるだろう……。


 あれこれ考えていると、家が視界に入る距離まで歩いていた。


 もうすぐ家だ。


 そう思って気が緩んだ瞬間、背後から口元へ手を回され、口を塞がれた状態で近くの路地裏まで引きずられていってしまった。




 ようやく通り過ぎたか。こんな遅くに帰ってきやがってゆうきの野郎。


 学校からゆうきの家までの道に笹倉たちは待ち伏せしていた。


 ゆうきの家に一番近い路地裏で、通りかかるのをひっそりと息を潜めて待ち続けていたのだ。


 加藤はあまり気乗りしないといった表情を浮かべている。


 古部はというと目を輝かせながら、餌を前に待てと言われている犬を彷彿とさせる雰囲気でじっとしていた。


 ようやく通りかかったゆうきに飛びかかろうとする古部を必死になって笹倉が制し、路地裏へ引きずり込む絶好のタイミングだと判断できる瞬間に放った。


 殺気に近い、寒気のするような古部の気配が溢れる足音があたりに響いても、考え事をしている様子のゆうきは振り返りもせず、真っ直ぐ歩き続けていた。


 古部がついにゆうきのすぐ後ろまで辿り着き、左手を口に押し当て、右腕でゆうきを拘束し、こちらへ引きずってくるのが見えた。


 笹倉と加藤はその様子を見て顔を見合わせ、古部をこの作戦に加えたのは間違いだったのではないかと思い始めた。


 とてつもなく嫌な予感がする。


 ゆうきは必死にもがいているが、古部の腕から逃れることができないでいた。


 古部にはそれほど筋力があるように見えないが、ゆうきに力がないようにも思えない。


 ゆうきは本の虫だが、あの時加藤を殴り飛ばしたのだから、振りほどく力がないはずなんてないのだ。そうなると、古部は見た目以上に力が強いということだろう。


 ギラギラとした眼差しで古部がこちらを見ている。


 笹倉は寒気を覚えた。


 笹倉だけでなく、加藤もそうなのだろう。


 顔が真っ青な状態で、笹倉の傍に近すぎるほど近い位置に寄り添ってくる。


 ゆうきをいたぶり、東郷から引き離すために脅しかけるつもりで作戦を組んだが、自分の手元を離れ、古部が舵を取っている状況がはっきりとわかった。


 加藤を連れてこの場を早く立ち去らないととんでもないことになる。


 そう考えたが遅すぎた。目の前で古部はとんでもないことをしでかしたのである。




 誰? 助けて!


 ゆうきは引きずられながら必死にもがいたが、拘束している腕は緩まず逃げることなんてできなかった。


 引きずり込まれて行った先は暗い暗い路地裏で、路地裏に着くと腕が少し緩んだ。


 この隙に逃げられると思った途端、鈍い痛みが胸に広がり、呼吸が苦しくなった。


 呼吸をするために必死で息を吸い込んでも、意識がどんどん薄れていき、声を上げて助けを求めたくとも、出てくるのは微かな呻き声のみ。


 呼吸ができなくなる時間が長引けば長引くほど苦しみが増していき、ついに目の前が真っ暗になってしまった。


 前のめりに倒れていく自分を他人事のように感じながらも、アスファルトの道路にあるマンホールが、もう見えていないはずの目に映り込んでくる。


 するとどうだろう、マンホールに開けられている小さな穴がどんどん広がっていき、倒れこむ悠木を飲み込んでしまった。


 マンホールにしては深く、広い穴の中を落下しながら、ゆうきは意識を完全に失った。


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