排除
笹倉家を訪問してきた帰り道、様々な思いが溢れてきた。
笹倉は気の毒だ…。
担任の先生から聞いた話とは印象が大分違い、両親はしっかりと子どもを見てやっていなかったのがよくわかった。
笹倉の――大熊猫のことについて聞いたのだが、いつまでたっても幼稚園、保育園の頃のアルバムを持ち出し、今の彼については話をしなかった。
大熊猫の今についてこちらから聞いても、可愛い子、勉強熱心なのだとしか言わなかった。
溺愛しているようにみえるのだが、それは本当に子どもへの愛なのだろうか。
自分が名づけた名前と可愛かった子どもの影をいつまでも見続け、子どもの成長と今をしっかり見ていないように思えた。
「……ふう」
思わずため息が漏れた。想像していた以上に問題があったからだ。
笹倉は親に自分を見てもらえていないということに気付いているのだろう。
自覚はなくとも、気づいてしまうものなのだ。
名前を変える方法があったはずだ。どうやって変えたのだったか。
ふと思い出し、自宅へと足を早める。
笹倉の心の闇に少しでも光を差し込んでやれるかもしれない。
今回の家庭訪問がきっかけで幼少時代の自分の家庭環境を思い出し、重ねてしまった。
うちの両親は共働きだった。
二人とも不自由しないようにと一生懸命働いてくれていたが、家庭を顧みず、家庭の為、子どもの為と仕事にひたすら打ちこんでいた。
僕が誰かと喧嘩をしたら真っ先に相手の親子に謝り、話は一つも聞いてもらえなかった。
世間体が大事だったのだとしか思えない親だった。
そして何より、二人は僕を見てくれなかった。
賞状やいい成績をとれば褒めてくれる。
でも、今の僕をみてくれない。
僕が何をしても見てくれてはいない。
僕が悩み、苦しみ、悲しんでも両親はそんなことには一つも気がついていなかった。
僕自身、両親に相談はしなかった。
話しても聞いてもらえない、所詮他人事といった風に軽く扱われ、考えすぎだとあしらわれるのがわかっていたのだった。
別に、愛されていなかった訳ではないのだろう。
二人は不器用なりに子どものことを考えて努力していたのだ。
ひょっとすると、笹倉も僕と同じ環境に、いや、名前という『呪い』を親につけられている分僕よりずっと辛い環境に置かれ、育ってきたのだろう。
自宅についてすぐ、名前を変える方法を調べてみた。
名前の変更には家庭裁判所の許可を受け、市区町村の役場へ届け出るといいらしい。
許可例の中にいじめや差別を助長するものとある……。
条件は十分だ。
条件を満たしていても、様々な壁があるかもしれない。
もし困難なことがあれば、しっかり支えたい。
明日学校で笹倉を呼び出し、名前を変える方法と手続きについて教えてみるか。
「大熊猫ちゃん、おかえりなさいっ。先生きてたわよー」
帰宅して早々、犬のように母が玄関まで駆けつけ開口一番そういった。
大熊猫と呼ぶなといっても呼び続ける母。
俺にこんな名前を付けたキチガイ。
先生がきたとは、どういうことだろう。
怒りが湧き立ったが、少し抑えて尋ねてみると、担任ではなく学年主任の井村が家庭訪問をしてきたのだという。
井村弘一……。
確かゆうきの筆箱を洋介に捨てさせようとした時に教室へ入って咎めてきた教師だ。
仕返ししないでまず相談しにこいと、綺麗事を言いやがったやつだ。
どうせ相談しても何もしないくせに……。
今までと同じように、担任のように見て見ぬふりをする教師だと思い込んでいた教師が家庭訪問にきたと聞き、混乱してしまうのをどうしても抑えることができなかった。
信じられなかった。
しかし、行動に移している……。
嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ。
まだ話し続ける母を無視し、自室へ真っ先に閉じこもった。
いつものように、母は理由についてはもちろん、なにも気づいていない的外れな話をしていたのだった。
井村の年齢はきっと三十前半だとか、うちの大熊猫ちゃんを褒めに来てくれたに違いないとか……。
どうしてそうなるのか理解できない。
どうしてだ。
どうして俺や洋介のときには助けてくれる教師なんていなかったのに、俺のことを笑いやがったあの糞ゆうきのときには助ける教師がいるんだ。
許せない、許せるわけがない。
消してやる。
井村を辞職に追いやるための計画を綿密に立てていき、洋介にも協力を呼びかけた。
洋介はおずおずと笹倉に同意し、さっそく明日決行することになった。
インターネットからの手続きもできるということだったが、笹倉が自分の意思を両親にぶつけるためにも、手続き用紙を持っていることが大事になるのではないかと思い、用紙を受け取ってから登校したため、いつもより遅く職員室に到着した。
すると何か雰囲気がおかしいのだ。どうしたというのだろう……。
挨拶をしてもよそよそしくされ、皆疲れているのだろうかと思いながら自分の席につく。
しばらくすると、校長から呼び出された。
「井村君。最近特定の生徒の様子について先生方に聞いて回ってるそうですね」
「ええ……。いじめがあるのではないかと思い、見守ったり調査をしているのですが」
「それは本当ですか?」
校長は信じたいけど疑っているといった様子で井村を見ていた。
今朝から職員室で感じていたものは間違いではなかったのだろう。
状況が把握できない。
はっきりわかっていることは、自分が生徒と何かあったと思われている、あるいは生徒に何かしているという濡れ衣がかかっているということだ。
他に可能性の高いものがあるとすれば、いじめがあるという事実を揉み消したいということだろうか。
「本当です。状況がよくわからないのですが、いったい何があったのでしょうか」
素直に状況が飲めないと伝え、何があったのか教えてもらおうと考えたのだが、校長は何もないならいいのだが……と呟くと、仕事に戻るよう告げてきた。
自分はひょっとすると生徒のことに関して必要以上に構いすぎなのではないか。
疑問を持ちつつ、笹倉を呼び出しに向かった。
笹倉に少しでも希望を持たせるために。
井村に呼び出され、指定された空き教室へはいっていく。
笹倉はにやけてくるのを抑えるのに精一杯だった。
こんなところに呼び出しやがって、俺があることないこと言いふらしたのに気がついて憤慨しているのだろうか。
思う壺以外のなんでもなかった。
ざまあない……。
「笹倉、お前に大事な話があるんだ」
井村はそう言いながら資料を取り出そうとしたが、笹倉が突然大声で叫びだしたのに驚いて手を止めた。
「誰か、助けて!」
そういいながら井村の両腕を引っ張り、自分の衣服を掴んでいるような格好にさせながら背中を壁に叩きつけはじめた。
その途中、取り出そうとしていた資料は床に落ち、笹倉に引っ張られながら自分の足で踏みにじり蹴飛ばしてしまった。
教室を加藤が覗き込み、さらに叫び声をあげる。
すると、たちまち生徒と先生が教室まで集まり、校長がわざわざ現場まできた。
失望した表情を浮かべながら、僕は君を信じていたんだが……と言いつつ、優しく腕を引っ張り、校長室まで連れて行かれた。もちろん井村は無抵抗であった。
自分を覆い隠している先生の陰から井村の後ろ姿を見つつ、笹倉は笑いと愉悦の表情が顔に浮かぶのをこらえていた。
完璧だ……。
思った以上に上手くことが運び、背筋が寒くなってくるのを感じた。
ひょっとしたら何でも意のままにできるのではないかという錯覚まで覚えてくる。
邪魔者は消えた。
あとはじっくりゆうきをいたぶるだけだ。
井村先生が暴力を起こすはずがない……。
廊下にできた人だかりの最後尾から様子を見ていた悠木は心の中で呟いた。
笹倉が関わっていたということだけが根拠だが、井村先生が暴力を振るうはずがないという思いがどこかにあった。
先生や生徒からも、井村先生が本当にそんなことするだろうかというささやき声が聞こえてきた。
笹倉がゆうきをいじめているように、先生にも何かしたのではないかという噂をしているのも聞こえてくる。
しばらく人々のささやきに耳を澄ましていると、前日に独断で家庭訪問をしていたこと、日頃から生徒たちに特定の生徒について尋ねて回っていたということが聞こえてきて、ひょっとしたら僕のことが原因で井村先生が暴力を振るってしまったのではないかとも思ってしまうのだった。
僕は本当にいらない子なのではないだろうか……。
今この場で生きていてはいけないのではないか。何もしなくても、誰かの害悪にしかならないならいっそのこと……。
そんな考えが浮かび、悠木の心に影を落としていくのだった。
人だかりが無くなってから教室を覗いてみると、いつも掃除をしていて癖がついてしまったためか、黒板の下に目がいってしまった。
するとそこには踏みにじられ、皺が寄った資料が落ちていた。
首を傾げながら資料に目を通してみると、名前を変える手続きについてまとめられたものだった。
ひょっとしたら井村先生が笹倉に渡そうとして準備していたのではないだろうか。
そうすると暴力を振るう理由にはいきつかないという根拠にできる。
でも、この資料どうしたらいいのかな。
とりあえず皺をゆっくり伸ばし、保管しておいた方がいいと思い立ったので持ち帰ることにした。
「井村君、君たちがいた教室には君がいうような資料は落ちていなかったよ。君がどうして笹倉に付きまとっていたのか、理由を話してくれないか?」
校長室では校長が疲れ果てた様子で、非常に残念だと表情で語っていた。
井村はそんな校長を見ながらこちらが失望しているといった表情だった。
「僕はずっと、いじめについて調べていて、名前が大きく関わっていると判断したと言っているじゃないですか。名前に原因があるとすれば、家庭にも歪がある可能性が高い。だから家庭訪問をし、笹倉に名前を変えて新しい人生を歩む方法もあると教えようとしていたんです。それで資料をもってきたのですが、笹倉がいきなり僕の両腕を引っ張って……」
「わかった、君の言い訳はそこまでだ」
右手を振りながらゆっくり窓の方へ歩き、校長はこちらを見向きもせず、淡々と告げた。
「笹倉の両親が君をクビにしてほしいといっているよ。もしクビにしないのであれば学校を訴えるともいっている。困るんだよ。これ以上面倒を起こさないでくれ。男なら潔く辞職してくれ」
非情だった。
自分が子どもの頃親に話をまともに聞いてもらえず、一方的に悪いと決めつけられた時のような気分だった。
ここで折れるわけには……。
「お言葉ですが、校長。僕は本当に嘘をついていません。訴えられようと構いません」
それを見て、校長は深いため息をついた。
「君、笹倉だけでなく、悠木と加藤にも手を出していたそうだね」
何のことだかさっぱりわからなかった。
「どういうことですか、校長」
声が震えた。まさか悠木も手を組んでいたのだろうか。
校長は再び深いため息をついた。
「加藤が、悠木の筆箱をゴミ箱に捨てようとしていたと君が報告したその日、放課後君に脅されたといってきたよ。それだけじゃない。君は最近悠木という生徒について、先生や生徒に聞いて回っていたそうじゃないか。加藤と笹倉だけでなく、悠木にも暴力か何かいかがわしいことをしようとしていたのかね」
悠木は加担していなかったようで少しだけ安堵した。
しかしこれはとんでもない言いがかりだ。
先生や生徒たちは笹倉たちの所業を認知していたし、悠木に対するいじめをしているのだと知っているはずなのに。
「校長、誤解です。悠木はいじめを受けている可能性の高い生徒としてマークしていただけです。悠木をいじめている主犯は笹倉、そのサポートをしているのが加藤だと僕は睨んでいました。信じてください!」
校長はまたもや深いため息をついた。
「そのことだが、君に話があるんだ。加藤と笹倉が今回の件は誰にも言わないし、騒動は自分でやったことだと『嘘の』自供すると言ってきている。君の名誉は守られ、訴訟は起きない。ただし条件があるそうだ。その条件というのが君の辞職だ」
校長は感情を表に出さず、冷たく言い放ったのだった。
学校はここまで落ちぶれていたのか……。
肩を落とす井村を見て校長は続けた。
「もし君が辞職したら、君が無駄に気にかけている悠木を守るし、大切な友達として迎えると笹倉が言っていたよ」
「……」
ここで笹倉を信じたら悠木は確実にもっと陰湿ないじめに遭ってしまうだろう。
しかしここで笹倉を信じなかったら、笹倉は誰にも心を開くことなどなくなってしまうのではないだろうか。
こちらから心を開いて接し続けなければ笹倉は誰にも心を開いてくれない……。
そんな予感と考えが脳裏をよぎった。
悠木……。
でもそれは、あくまで自分が危険に晒されるときに取れる選択肢だ。
今天秤にかけられているのは自分とは違う、守られるべき存在。
未来ある若者だ。
「しかし校長。僕がいじめの主犯だと睨んでいた生徒に、いじめを受けていた疑いの高い生徒を安心して任せることができるとお考えなのでしょうか」
感情を押し殺しながら言ったせいで震えながら、少し怒っていると捉えられてしまいそうな調子でそう問いかけた。
校長は少し考える素振りを見せた。
「君がなぜそこまで悠木という生徒を心配するのか、僕にはわかりかねるが……安心しなさい、担任の先生と私で悠木は見守ろう。約束するよ」
正直、安心はできなかったが校長が直々に『見守る』と言ってくれたのだ。
「わかりました。辞職届をだします」
もう『定年』は超えていたし、潮時だったのだ。
時代の流れなのだろうか、生徒のことを気にかけるとあらぬことを疑われる。
もし本当に時代の流れによるものなのであれば、自分はついていけていなかったのだ。
昔と違い、生徒との距離がシビアになったのだろう。自分は少し近すぎたのだ。
校長は、資料が教室になかったといっていた。加藤か笹倉本人が回収した可能性が高い。
もしそうでなかったとしても、誰かが拾ったということなのだろう。
ここで自分が辞めても、あの資料は笹倉に渡ってくれるはずだ。悠木へのいじめも和らいでくれるかもしれない。
最後まで見守っているべきだとは思うが、穏便に事が解決できていじめもなくなるのであれば、潔く引き下がってしまおう。
資料を拾った生徒のことを信じるしかない。
冷や冷やさせやがって井村の野郎……。
何の資料か知らされなかったが、あのとき井村が資料を持ってきていたということを聞かされた。
見たかどうか聞かれたがもちろん見ていない。
それどころではなかったし、そもそも話など最初から聞く気がなかったのだから。
結局、井村を辞職に追い詰めるまでその資料はでてこなかったという。
もし出てきていたら自分の思い通りにはいかなかっただろう。
ひょっとしたら洋介が隠していてくれたのかと思い、洋介を褒めたが、訝しげな表情を浮かべたあと、ぎこちなく喜んだのであった。
隠したのは洋介じゃない……。
だとしたら誰が。
ふと、ゆうきの顔が頭に浮かんだ。
理由はわからないが、ゆうきが持っているような気がしたのだ。
もしそうなれば立場が逆転し、脅しにかかってくる可能性が高くなる。
そうなる前に徹底的にゆうきを潰すべきだ。
井村の野郎、俺の前から姿を消しても俺のことを追い詰めてきやがるのか。
笹倉は亡霊にまとわりつかれているかのような錯覚を覚えながら、憎しみの対象が井村からゆうきへ移っていくことに無自覚だった。
ゆうき……覚悟しろよ。
井村先生が持っていたという資料が最後まで見つからず、辞職することになったという報せは悠木の耳にも届いていた。
資料には心当たりがあった。
やっぱり先生は笹倉のことを……。
それなのに笹倉にはめられ、辞職までしてしまった。
なんてことだろう。
今からでも間に合うのではないだろうか。
そうは思ってもなかなか行動的にはなれなかった。
既に井村先生は辞職してしまっているし、わざわざ自分をいじめてきている笹倉を救いたいかと言われたら答えに詰まる。
僕があのとき資料を保管しようなんて思わず、見て見ぬふりをしていたら……。
僕は本当にろくなことをしない。
どうしてこうなってしまったのだろう。
そもそもいじめの発端は自分が笹倉くんの名前を笑ってしまったことだ。
僕はここにいていいのだろうか。
僕は……生きていちゃいけないんじゃないだろうか。
不安と恐怖、後悔の念が込み上げ、自分の存在意義に対する疑問が次々と浮かんでは頭の中でぐるぐる回り続けるのだった。
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