井村先生

 クラス毎に用意されている授業ノート――本来は担任が読み、返事を書いたりするもの――に目を通しながら、学年主任の井村弘一は、あるクラスに目を付けていた。


 というのも、学校内でいつも同じ人が日直の仕事をしているという話を聞いたのがきっかけだ。


ひょっとしたらいじめの可能性もある。


 目を通していて気付いたが、他のクラスは毎日書かれている文字が違い、落書きも見受けられたりして個性豊かだ。


 違う人が書いているのだと一目でわかるものばかりなのに、あるクラスだけは毎日毎日同じ人が書いているとわかる内容と文字なのである。


 早速、井村は問題のクラスを担当している先生に話を聞き、始業式にあった出来事を聞いた。


 その件以外で担任は心当たりのある出来事はなく、笹倉という生徒に対しとても怯えた様子が見てとれた。


 いじめが公になった場合、自分の立場はどうなってしまうのか、とまで言い始めてしまう始末。


 自分のことしか頭にないなんて、同じ教師として少し呆れてしまったが、怖くなってしまう気持ちはわからない訳でもないので咎めることはしなかった。


「我々ができうる最善を尽くしましょう」


 前を向けるような言葉を掛けその場を去った。


 話を聞いて回り、いじめられているのは悠木裕樹、いじめをしているのが笹倉大熊猫だと推測できた。


 そして、担任同様クラスのみんなは笹倉に対して恐怖心を抱いているからか、悠木を標的として日直の仕事を任せているという。


 悠木に日直を頼まなかったクラスメイトは次からお前に毎日日直を頼むようみんなに指示を出すと脅され、致し方なく悠木に頼むようになった生徒もいるらしい。


 これは早く解決する必要がある。


 まずはこの笹倉という生徒に話を聞いてみなければならないだろう。


 すぐに行動へ移すべく、職員室から問題のあるクラスへ足を運んだ。




 問題のクラスを覗いてみると、表面上はなんの変哲もないクラスだが、笹倉と思われる体格の良い生徒が通るとその周辺にいた生徒は道をあけ、顔色を窺っているのがよくわかった。


 ひょっとしたら悠木以外にも手を出している可能性はあるかもしれない。


 じっと様子を見ていると、笹倉には取り巻きが一人二人ほどできているようだった。


 この生徒にも一応気を付けていなければならないのかもしれない。


 そろそろ離れようかというときだ。


「先生こんにちは」


 配布物を抱えて教室に入りながら挨拶をしてくれた小柄な生徒がいた。


 この生徒が悠木かな。もうしばらく様子をみてみよう。


 悠木が配布物を配っている間に、笹倉が取り巻きの一人に顎で指示をだし、悠木の所持品をこっそり取らせ、ゴミ箱へ捨てさせているのが見えた。


 これはいけない。


 さっと教室に入り、穏やかさを崩さないようにしながら、生徒に問いかけてみた。


「今、どうして彼の持ち物をゴミ箱へ持って行ったのかな」


 教室のなかは静まり返り、全員がこちらをみている。


 悠木はポカンとした表情、笹倉と彼のそばにいる取り巻き、ゴミ箱へ悠木の物を持って行った取り巻きは面食らった表情で井村を見ていた。


 瞬時に笹倉の表情が冷たく怒りに満ちた表情に豹変し、井村を睨みつける一方で、失態を犯した自分の部下に対しては心配そうな表情を浮かべていた。


 それを見てとった部下は井村に頭を下げた。


「ごめんなさい。僕がいたずらのつもりでやりました……」


 さすがに簡単には言わないようだ。


 笹倉が浮かべた怒りの表情、心配の表情から、信頼関係の深さが伺える。


「そうか……。でもそれは良くないことだね。何か理由があったのかな」


 指示を出されてやったということは見え透いていたが、やんわりと問いかけてみた。


 理由を聞かれ、答えに詰まった笹倉の取り巻きは、一瞬考えを巡らせた様子を見せてから口を開いた。


「ゆうきが、僕の物をめちゃくちゃにしたことがあるから」


 それを聞いた悠木が叫んだ。


「僕はそんなことしてない!」


 彼は驚きに目を見開き、不安そうな表情を見せている。


「具体的に何をめちゃくちゃにされたのかな。思い出せるなら日付も教えてくれると嬉しいなあ」


 深く突っ込んだらボロを出すのではないかと優しく聞いてみると、答えに詰まってしまった。


 それを見かねたのか、悠木を追い詰めるチャンスとみたのか会話に笹倉が割って入ってきた。


「俺もゆうきに物を取り上げられたり嫌なことたくさんされてるんです、先生」


 それを聞いた悠木は顔を真っ青にし、笹倉は周りを見回してみんなの証言を集め出した。


 口々に僕も、私もという人が現れ、言わなかった人がちらほら見受けられていたが、笹倉が睨み付けると重い口調でボソリと証言するのだった。


 いったいどうすればここまで人を支配してしまえるのか、背筋が寒くなるような光景だった。


 これが本当に高校生のクラスなのだろうか。


 小学校に自分が勤めているのではないだろうかという錯覚を覚え、子どもたちの将来に憂いを感じた。




 悠木は井村をじっとみつめ、涙を浮かべそうになっていた。


 先生も僕のこと、信じてくれないのかな。先生も僕を悪者にしてしまうのかな。


 悠木は不安でたまらなくなった。




 思った以上に問題のあるクラスだ。


「やられたから同じやり方でやり返すのはあまりいい方法とは言えません。ハンムラビ法典に『目には目を、歯には歯を』という言葉はありますが、これは本来『目には目で、歯には歯で』という翻訳がなされるべき言葉なのです。意味と背景については調べてみましょう。それも勉強の一環になります。もし、やられる側になってしまったなら、相談しにきてください」


 そう言い残して立ち去るしかなかった。


 職員室に戻った井村は深いため息をついた。


 これはひょっとすると長かった自分の教職に幕を下ろす一件となるだろうと、ぼんやりと思うのだった。


 なかった事実をさもあったようにあそこまで言える人間がいるなんて、下手をしたら自分も同じ目に遭い辞職に追い込まれるだろう。


 後のことは後で考えるとして、今やらねば後悔してしまういじめ問題をどうにかしなければならない。


 井村はとりあえず悠木の様子を見守ってから笹倉に接触してみようと計画したのだった。




 放課後、でっち上げの事実をいった自分の忠実な部下に対し、笹倉はべた褒めをしていた。


「よくやった。井村のくそったれに見つかったときは少しびっくりしたが、良い返しだったな! よくあんな口からでまかせを俺の指示なしでできたもんだ。お前は最高だ!」


 褒められているのは加藤洋介かとう ようすけで、笹倉にとって一番の友達だ。


 褒められた加藤は嬉し泣きをしていた。まるでこんなに褒められたのは初めてだと言わんばかりに泣いていて、笹倉は愛しそうに、優しい眼差しで加藤を見ている。




 ゆうきが物を隠したり捨てたりした風に言ったが、実際は小学生の頃に自分がされていた出来事を、さもゆうきがやったかのように言っただけだったのだが、そのことを笹倉がこれでもかというくらい褒めてくれているのだ。


 加藤の家は父子家庭で、父親からの暴力が絶えず、クラスのみんなから母親がいないことをネタにいじめられ、自分の存在意義に疑問を持っていた。


 先生に助けて欲しくて話した事はあったが、父親の上辺だけの態度を見て、洋介が父親に構って欲しいがために、口から出まかせを言ったと判断されてしまった。


「いいお父さんだね、困らせるようなことしちゃだめだよ」


 たったそれだけ言って帰ってしまい、告げ口したとばれただけになってしまった洋介は、先生が帰ったその日の夜、こっぴどく暴力と暴言、脅しを受けることになってしまった。


 先生に対し自分の名前を笑われても臆せず強く生きている笹倉を見て、この人に頼めば自分を助けてくれるのではないかという淡い希望を抱いたのが話すきっかけだった。


 恐る恐る頼んでみたところ、快く承諾してくれた。

 驚いたことに、頼んだその日の内に憎い親父を圧倒してくれたのだ。


「もし洋介にまた暴力を振るおうものなら、また酷い目に遭わせる」


 おまけに釘を刺してくれたおかげで、父親はもう二度と暴力を振るわなくなり、洋介に対して怯えたような態度をとるようになったのだった。


 加藤にとって笹倉は正義そのものだった。学校でしか威張っていられない、なにもわかってくれない先生なんかより、どこでも自分を強く持っている笹倉は格好良かった。


 みんなの笑いものにされるような名前を親につけられても、たくましく生きている笹倉が加藤には輝いて見えていたのだった。




 翌朝、井村が職員室に入ろうとしていると、配布物やクラスの連絡帳をとりにきた悠木と会った。


「おはよう、朝早いんですね」


 声をかけると、悠木は少し驚いた顔をしながら挨拶を返してくれた。


「おはようございます先生」


 どこか表情に不安の影がある。


「何かあったのかな」


 心配になって聞いてみたが、悠木は何かを言いかけたあとすぐに止めてしまった。


「なんでもないです。ありがとうございます」


 そう言うと配布物を抱えて走り去ってしまった。


 昨日の出来事を気にしているのだろうか……。


 心配な気持ちで井村は悠木が見えなくなるまで背中を見守っているのだった。




 様子を見続けつつ、先生方から情報を集めていてわかったことだが、あの後黒板消しが教室からなくなっていたらしい。


 とりあえず今できることを終えた悠木がそこら中走り回り、授業が始まる前に黒板消しを見つけだし、黒板と黒板消しの掃除をしていたことを知った。


 今朝の悠木の様子は、もし教室にいない間になにかあったらどうしよう、という不安からだったのかもしれない。


 情報を集めていくと、笹倉の取り巻きらしき生徒が黒板消しを教室から持ち出していたという情報が入ってきた。


 どうやら笹倉は自分の手を汚さないで悠木を追い詰めていっているようだ。


 どうしたものか……。


 頭を悩ませていても仕方がないのかもしれない。


 しかし、手元にある情報だけではまだ足りない。笹倉がどうしてこうなってしまったのか。


 名前のことで苦労が絶えなかったのだろうことは想像に難くないのだが。


 顔合わせ程度に行われている家庭訪問をした担任がいうには、笹倉の家は両親とも健在、夫婦仲も悪くなさそうで、家庭環境に問題があるようには見えなかったそうだ。


 先生を信じていないわけではないが、これまで自分が積んできた経験から、表面上はそう見えているだけという可能性が浮かんだ。


 一度直接会いにいってみる必要があるのではないだろうか。


 こうして悩んでいても仕方がない、笹倉の家へ直接出向いてみなければ進まない。


 自分の予定を見直し、空いている時間を確認すると、アポイントメントをとるため笹倉の家へ電話をかけた。


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