Q.明日、アニメが視たいからあなたを手にかけるのは、あなたの命を奪う理由になりますか?A.「    」

雨有 数

序章:今日、オレは生まれ変わる

第1話 生きるに足る理由

 生きることには最もらしい理由が必要だ。生きることだけじゃない、あらゆる行動には理由があって、それがないと動くことはできない。

 それが、十七年という短い人生でオレが得た唯一の真理で、オレにはその理由がなかった。


「なぁ、日々。今からみんなでカラオケ行くんだけど一緒にどう?」

「――いや、オレはいいや」


 放課後、教室から出て行こうとするオレに声をかけるのはクラスメイト。クラスの中でも所謂活発な奴だ。

 カラオケに行く理由がない。友達を作る理由がない。部活をする理由がない。ないない尽くしの男子高校生亜月あづき日々ひびがオレだった。


「あいつが今まで来たことあったかよ。どうせこねーよ、あの陰キャ」

「聞こえてるっつーの」


 背後から聞こえてくる陰口にうんざり。オレは足早で学校を出て行く。若干の苛立ちが芽生えた。けれど彼の言葉は全て事実なので受け入れるしかない。オレは今まで一度も彼らの誘いを受けたことはなかったし、実際陰キャだった。

 陰キャっていうのが、どういうのかはよく分からないけど、多分そう。

 校舎から出れば、赤い夕陽が目に染みた。どうしてウチの学校は下校時に太陽が真ん前に来るのだろうか。


 取り留めも無い疑問を抱いて毎朝毎夕歩く通学路を今日もなぞった。


「ねぇ、今日のカグツチほむらちゃんの配信も楽しみだね!」

「ね! 最近はずっと配信に張り付いちゃってるよ」


「見ろよこれ! SSRが当たったんだぜ!」

「うぉー! 羨ましいなぁ!」


「……」


 下校する生徒たちの会話が聞こうとしなくとも耳をついた。

 ゲーム、部活、進路、動画サイト。

 どれもこれも、オレには馴染みのないものだ……それをやる理由がないから。


 話題の群れから逃げるように、オレは両足の動きを早めた。

 今晩の献立を考える。

 そうでもしなければ、オレの脳内で悪魔が常に理由を問いかけてくるからだ。


 そうして、歩くことと献立を考えることのみに思考のリソースを割けば――気が楽になる。


 だからだ。


 地面に黒い影が広がったことにも、空中から落ちてくる巨大な鉄塊にも、避けろ! というおっさんの声にも気がつかなかった。


 オレが上を向いた時にはもう遅く――建設途中のビルから落ちてきた鉄骨はもう既にオレの鼻の先まで迫って。

 声を出す間もなく、オレは潰されたのだ。


「――っ!」


 という、幻覚を視た。頭の先から爪先まで、妙な感覚が未だに残っている。ああ、気分が悪い。吐瀉してしまいそうな程に。でも、動かないと……。

 オレは急いで踵を返して五歩引き下がった。今、オレが視て感じたのは――紛れもない現実だ。およそ、五秒先の。


 心の中で五秒数える。


 オレの七歩先辺りに影が落ち。

 風を切る音と共に巨大な鉄の塊が落下して。


「避けろ!」


 上空からおっさんの声が響けば。

 がしゃん。

 耳をつんざく地獄の悲鳴が轟いた。


「大丈夫か!?」

「大丈夫です」


 上空のおっさんにオレは淡々とそう返事をする。落ちてきた鉄骨を避けて、オレは気にせず家を目指した。

 これがオレが持つ生まれついての特殊な力。オレはこれを超直感ファンブルと呼んでいる。


 どうしてか、オレは自分が即死する事に対して異様な直感を発揮することができた。この直感は本当に鬱陶しい。最悪の結末を完璧に予測するのはお手のもの、反面それ以外は何の役にも立たない。ちょっとした不幸や、怪我に関しては何もしてくれないのが嫌だった。

 この直感が働く時、決まってオレは死亡する。

 しかも、死亡時の不快感を与えてくる。恐怖、痛み、気持ち悪さ。それらすべてを伝えてくれるのだ。(多少軽減されるのだが……)


 きっかり五秒先。

 オレの死を伝えるこの超直感。その不吉さ、鬱陶しさ、苦しさからオレはこれを専らファンブルと呼んで疎んでいた。


 生きることには最もらしい理由が必要だ。


 そんな真理を知っていながら、理由のないオレは結局生きていた。けれど、一つ言い訳をするなら……オレにも消極的ながら生きる理由が少しだけ。ほんの少しだけあった。

 その理由と会うために、オレは家の玄関を開ける。


 ◆


「少年、今日は学校でどんなことがあったんだい?」

「……いつも通りだよ、マイさん」


 モダンな雰囲気のリビング。

 三十二だか、四十インチの大きな壁掛けテレビからどうでもいいバラエティ番組の笑い声が聞こえた。ブラックオークの机に今日の夕食を置いていって、オレはマイさんの質問に答える。

 対面に腰掛けた彼女は、短い金の髪をふわりと揺らして身体を乗り出した。


「いつも通りということは、青春を謳歌しなかったという訳だね?」

「そうなるなぁ……って、つまみ食いすんなっての。それオレのだし」

「いいじゃないか、青春を楽しまなかった罰だよ。しょーうねん」


 自分用に盛り付けたフライドポテトをつまんで、口へ放り投げるマイさん。オレよりも一回り以上年上なのに、この人はどうにも子供っぽかった。

 美しいというよりは可愛らしいという言葉が似合う童顔も、その子供っぽい印象をより強めているし、喜怒哀楽がハッキリとしたその表情だってどうにも年齢と不釣り合いだ。


「日々はいつもそうだね? 素直に学生生活を楽しめばいいのにさ? 若さってのは短いんだぜ? 気がついたら私みたいに枯れてるってワケ」

「二十五歳だろ――マイさんは」

「そういう君は十七だろ?」


 ニヤリと勝ち誇った笑みを浮かべるマイさん。

 特に上手く言ったわけでもない癖に……。彼女の奔放さに呆れて、オレも椅子に腰を下ろした。

 両手と声を合わせて――頂きます。食事をする際には欠かせない。


「うーん、相変わらず少年の料理は美味しいね。家庭の温かさというものがある」

「オレが来る前のマイさんの生活が終わってただけだって、それ」

「何を言うんだい? コンビニ弁当だって美味しいんだぞぅ!」

「健康に問題がある」

「違いないね」


 この人は不治坂ふじさかまい

 元々、施設に入っていたオレを引き取ってくれた保護者代わりだ。とはいえ、マイさんが今言っていた通り――オレが来る前のこの人の生活は酷かった。かなり。


 部屋は散らかりっぱなし、服は脱ぎっぱなし、食事はオール外食。(しかもコンビニやファストフード、インスタント系ばかり)外面は仕事ができそうな人だし、実際仕事は優秀みたいだけど……その外面を辛うじて保つ以外の家事をまるでしない。

 今はオレが家事のほとんどを担っている。

 これじゃあどっちが保護者かよく分からなかった。


「これからもずっと、私のために味噌汁を作って欲しいね」

「……」


 なんて、オレを見据えて言うんだから狡い。

 オレは目を逸らして、咳払いをした。多分、天然なのだマイさんは。


「それが君の理由になればいいのだけどね」

「……」


 今度は別の意味で狡かった。

 あの会話から、そこに繋げるなんて不意打ちじゃないか。彼女は塩をひとつまみ。フライドポテトに振りかける。その塩と同じくらいの気まずさがオレに加わった。


「生きる理由。少年の歳でそんな問いかけに頭を悩めるなんて、それはとても凄いことだと思うよ。私はね」

「ホントかよ……」

「本当さ。けれど、理由がないからといって貴重な時間を棒に振るのはナシだ、ナシ!」


 ニカっと笑って、マイさんはそう言い切った。

 マイさんの言いたいことは分かる。オレは本当の意味では生きていない。ただ、死んだように生きているだけ。

 消極的に、受動的に、ただ過ぎ去って行く毎日に流されている。いっそ、やめてしまおうとも思った。でも、そうしなかった。

 それは……。

 

 理由がある――二つ。

 

 そのうちの一つが、マイさんの存在だ。こんなオレを引き取ってくれただけでも感謝してるのに、こんなにも好意的に接してくれている。だから、彼女に報いるために(これが報いることになるのかは分からないけど)生きている。

 それだけ。オレにはそれしかなかった。


「――そんな顔をしないでよ日々。済まないね、食事に嫌な話をしてしまったよ」

「いや、オレが悪いのは分かってるから」


 そんな顔をしないでよ。

 そう言ったマイさんの表情に、オレはそう言いたかった。マイさんの期待に添えていないのはオレ自身よく分かっている。マイさんの期待に添いたいとも思っている。

 でも、最もらしい理由が欠落していたんだ。


 オレを動かす原動力が、どこにも、なかった。


「そのお詫びと言ってはなんだけど、明日は土曜日だろう?」

「あ、ああ……うん。そうだな」

「私も明日は休みを貰えてさ。一緒に買い物へ行こうじゃないか、久しぶりにね」

「お、マジで?」

「マジ。うん、やっぱり笑顔が似合うよ、少年」


 多分あからさまにオレの表情が変わったのだろう。オレの顔を見て、マイさんがくすりと笑ってくれた。

 その言葉も、オレはマイさんにそっくりそのまま言いたかった。


「っていうか、気になってたんだけどさ」

「どうしたんだい?」

「いい加減、マイさんの仕事について教えてくれてもいいんじゃねーかなぁー……って」

「そんなことに興味を持つより、私のスリーサイズに興味を持つ方が青少年らしいと思うのだが、そこのところはどう思う?」

「どうも思わねぇーよ! アンタはもうちょっと慎みを覚えてくれ!」


 なんてついつい突っ込んでしまうが、マイさんのペースに呑まれてはいけない。オレは本日何度目かも分からない咳払いをして、マイさんを見つめる。、で、どうなんだ? と問い質すためだ。


「政府関係だって言っただろう? 前もさ」

「公務員にしては残業しまくりだし、かと思ったら昼間までグータラしてる時もあるじゃん」

「公務員だって残業もするし、グータラだってするぜ?」

「……公務員の割には4LDKの豪邸に元々一人暮らしだったんだろ?」

「ああ、出世頭でね。土地は固定資産になるっていう話を聞いたから思いきって購入したのさ」

「大型バイクに、車も持ってて?」

「カッコイイだろう? いつか、少年ともツーリングやドライブをしたいね?」

「……二十五歳で、こんな生活できるなんて公務員じゃあり得ないだろ」

「かもね?」


 いつもこうしてはぐらかされる。

 けれど、今日は引き下がらない。明らかにおかしい。いつも、ずっとおかしいと思っていたけれど上手いこと逃げられ続けた。今日こそ、マイさんの仕事を知りたい。


「本当はさ、人に言えないような仕事をして大金を稼いでるんじゃ……。なぁ、だったらオレも高校やめて働くよ……」


 意を決してオレは切りだした。

 

「……ふっ、あーっはっはっはっはっは! ああ、そういうことか!」

「え?」


 そんなオレ渾身の提案が、一笑に付されてしまった。


「ああ、日々は私が悪いことをしてお金を稼いでこの生活をしていると思っていたのかい? なるほど、うん。高校をやめて働いてくれるという申し出は嬉しいけれど、大丈夫だよ。君に誓って――悪いことはしていない」

「じゃあ、何を?」

「うん、それはまだヒミツ」


 オレの口に人差し指を押し当てて。

 マイさんはウインクをして誤魔化した。それが誤魔化しだって分かるけれど、こんなことをされちゃあ、もう追撃なんてできやしない。

 いつの間にか空になった食器を持ちあげ、マイさんはオレを窘める。


「今はまだ話せないけど、いつかね。絶対に話すことも誓うよ。君に。だから、それを待っていて欲しい。大丈夫かな?」

「……分かった、よ」


 やっぱり狡い。

 そんな困った風な笑みを見せられたら、無理だなんて言えないじゃないか。結局、この日はこれ以上の追求は出来ず、お開きとなってしまった。

 今はただ、久しぶりの外出を楽しみにすることくらいしかできない。


 ◆


 人の群れが彷徨っていた。

 時刻は既に昼下がり。町一番の繁華街である駅前に帰ってきたオレたちは、土曜日故の人混みを見下ろしていた。


「結局、何も買わなかったなぁ」

「日々が欲しいものはないっていうからさ。遠慮なんてしなくてもいいのに」

「遠慮っつーか……」

「まぁ少年のことだ。どーせ、欲しいものを求める理由がない。――なんて拗らせた中学生みたいな考えを抱いていたんだろ~?」


 ぐいっとオレに近づいて、マイさんは人差し指でオレの頬をぐりぐりと突いた。


「ぐっ……近いって!」


 一歩、二歩を離れてオレは視線を逸らす。

 図星だ。

 大体オレはマイさんの考えていた通りのことを考えていた。

 慌てるオレの様子を見るのが楽しいのか、腰に手を当ててマイさんは白い歯を覗かせる。

 

「ははは!」

「ホントもう、この人は……」


 マイさんは竜巻のような人だ。オレみたいな人間を巻き込んで、振り回す竜巻。

 でも、そうやって振り回されることが不思議と不快ではなかった。むしろ、彼女にこうやって振り回されている時だけ……オレの中にある暗鬱とした気持ちが大人しくなるように感じる。


 だから、オレはマイさんのことが好きだ。


 この人が生きろと言うのなら生きていられる。消極的だって、受動的だって、まだ生きてても良いと思えていられる。


 なんて、自分でもキモいと思う考えが頭を過りまくった頃に。

 マイさんの懐が小刻みに振動した。その後、聞こえてくるのは軽薄な電子音。


「……ん、済まないね。着信だ」

「ああ、気にせず」


 オレに背を向けて長方形の電子機器を取り出したマイさん。

 休日だというのに電話がかかってくるなんて珍しい。雑踏にかき消されて、マイさんの声はまるで聞こえなかった。


 数十秒、あるいは数分。


 ぼーっとマイさんの背中を見つめ続ければ、スマホを懐へ戻して振り返るマイさん。どうやら、会話が終わったらしかった。

 いつもの柔和な表情はどこへやら、神妙な表情になったマイさん。

 彼女のこんな表情を見るのは三年以上一緒に暮らしてきて初めてだった。その雰囲気に気圧されていると、マイさんの顔がほころんだ。


「悪いね日々。急な仕事が入ってしまったよ。先に家に帰っていてくれるかな?」

「あー、うん。分かったよ。気をつけてな?」

「ああ、もちろん。すぐに帰るから良い子で待っているんだよ」


 そうやってオレの頭を一撫でして、踵を返して人の波に飲まれていくマイさん。

 オレは子供かよ――子供か。

 なんて自問自答をして、マイさんの黒い背中を見送った。そういえば、今日は休日なのにマイさんはいつもの黒スーツを着てたんだなぁ。取り留めのない考えが頭を過ぎていく。


「あ」


 どうでもいい考えに混じって、一つの妙案がふっと湧いてきた。

 その考えの是非を考えるよりも先に身体が動く。

 人と人と人の中をかき分けて、オレは必死でマイさんの黒い背中を追いかけた。今、あの人の後をつければ――今までずっと秘密にされていた仕事の正体を知ることができる。


「今はまだ話せないけど、いつかね。絶対に話すことも誓うよ。君に。だから、それを待っていて欲しい。大丈夫かな?」


 マイさんの言葉がオレの足を引き留めた。

 これは多分――裏切り行為。

 オレに誓ってくれたマイさんの信頼に背くことになってしまう。その事実が、オレの足を止めた。

 でも、それ以上にオレの気持ちはマイさんの秘密を知りたがっていて、自分でも驚くほどにすらすらと両の足が動いた。まるで、自分の足ではないように真っ直ぐ。マイさんの後をつかず離れず――尾行した。


 およそ、五分程度。

 駅前の繁華街を抜けて裏道に入り込んで右右左と踵を返すこと三度。

 人の気配なんてまるでない、鬱蒼としたコンクリートジャングル。


 ぴちゃ、ぴちゃ。


 どこからか水滴が地面に落ちる音だけが響いていた。


「……」


 およそ十歩以上。

 マイさんから離れて、穴が空くほどに見つめた黒い背中を未だに見つめ続けていた。彼女に重なるように見えるのは――人影?


「クヒヒ! オンナだ! オンナだ! オンナを喰うのはオマエで二人目だ! オトコはマズイ! オンナはウマイ! ウレシイナ! ウレシイナ!」

「……?」


 遠く離れていても、ここが余りにも静かだったから声が聞こえた。

 マイさんと相対した人影は、耳にこべりつくように下卑た声を並べ立てる。金切り声とも、嗄れた声とも、言えないような何とも言えない不協和音。

 それだけで不快だったのに、その言葉の羅列は更に醜悪だった。

 人を喰った?

 オレは耳を疑った。その言葉に現実味はまるでなかった。だから、オレにも緊張感はなかった。


「五秒あげよう」

「ハ?」

「五秒だ」


 マイさんは臆することもなく、淡々とした様子で広げた手のひらを対面の誰かに突きつける。

 立てられた五本の指。それが、マイさんの宣言した五秒を表わしていることは誰でも分かる。けれど、相手はまるで理解していないらしい。


「何を意味の分からないことを」

「後四秒」


 マイさんは吐き捨てるようにそう告げると、右手を空へと掲げた。

 瞬間、落ちてくるのは一本の刀。


「え」


 誰にも聞こえないくらいの声量で、オレの口から声がもれた。もらしてしまった。

 目の前の光景が余りにも現実離れしていたから。

 ただただ、困惑するしかなかった。


「なんだ、それ。オマエ、どこから、それ、だした?」

「……三秒」


 右手を腰まで落として、鞘を腰に差し込んで見せるマイさん。その所作はこんな状況だというのに、酷く美しく見えた。

 洗礼された儀式を思わせる淀みのない動き。これを見ただけで、彼女が同じ動作を飽きるほどに繰り返してきたことが理解できた。

 そして、右手を柄に添えて……。ゆっくりと引き抜いていく。


「残り二秒」


 対面する何かすら、露わになる刀身に目を奪われているようだった。

 それも納得できるほどの美しい白が鞘から零れる。

 太陽の光すらも届かないような裏路地でも、なお煌めくそれ。光が上へ伸びていく――否、刃が引き抜かれていく。


「一秒」


 最後まで露出した白鋼。その切っ先が相手へと向けられる。


「零。残念だ、君の最期の言葉はまるで価値のないものになった」


 底冷えした声で、宣告するマイさん。

 いつの間にか、マイさんの頭部には西洋の騎士を思わせるような真っ黒な仮面があって。彼女の表情を一切遮断してしまっていた。

 オレがその仮面に疑問を抱くよりも早く。マイさんが消えた。


「ハ!?」


 突然の消失に狼狽える何か。

 もちろん、オレだって困惑していた。人が消えるわけはない。考えられるのは、オレの動体視力よりもうんと素早く、動いたということ。あり得るか? そんなこと。


「うぜぇ! 喰わせろォ! オンナァ!」


 何かが吼えた。

 かと思えば、その身体が不気味な音を立てて展開。広がるのは肉と骨。鮮血と臓物。周囲に散らばる肉塊。けれど、それよりもオレの目を引くのは不気味に広がる骨と思しき白色の何か。


 ギギギ。メキメキ。


 そんな音を立てて周囲の壁や地に突き刺さる骨。

 オレはただただ、目の前で起きている異様な光景を呆けて眺めることしかできなかった。次いで頭の中に芽生えるのはマイさんの心配。

 何かの身体から生み出された骨は、中心部ほど密集している。あの爆発に呑まれたら一溜まりも無い!


「能力まで凡庸か」


 空から、マイさんの声が聞こえた。

 オレと異形は全く同時に天を仰ぐ。そこに見えるのは太陽の光を背に刀を構えるマイさんの姿。

 信じられないが、あの人は今の一瞬で壁を駆け上がり上空まで達していた。


「……ジブンから! 逃げ場のナイ! 空中に! 来たなァ!」


 地面や壁を抉っていた骨が収縮。

 異形の言葉は正しい。空中は多分、逃げ場がない。だとすれば、マイさんが壁を駆け上るほどの身体能力を持っていたとして――それを十分に発揮することは不可能。


「死ねェ! そしてその血肉、オレにヨコせよォ!!」


 白が天を穿った。

 異形の身体を裂いて、臓物をさらにまき散らして、太い、太い骨の塊が天へと生まれた。


「……!」


 どうしようもない。

 オレは瞼を閉じた。マイさんだったものをみたくなかったから。あの異形から逃げることよりも、その思いの方が強かった。

 そして、そんなマイさんのピンチだったのに動くことのできなかった自分を恥じた。けれど、あまりにも展開が早すぎた。そう自分を慰めた。


「血肉を与えるのは君の役目だったらしい。ただ……君のそれはゴミ箱行きだろうけど」

「……?」


 マイさんの声が聞こえた。

 だからオレは瞼を開けて、それを見た。


 雨のように飛び散る血と、それを浴びるマイさん。

 外した仮面から覗くのは残酷な眼差し。既に命だったものを見下して、ゴミと呼ぶその姿に、オレの好きなマイさんの姿はどこにもなかった。


 そこにいたのは。


 ただの修羅だった。


「あ……」


 声がもれた。

 オレの幻想が砕かれたショックで? 分からない。けれど、声が出た。

 こんな静かな場所で、もう争いも終わった静けさの中で、オレの声をマイさんが聞き逃すわけもなく。


「誰だ」


 なんて、今まで向けられたことのないような声色がオレを貫く。

 声だけでも心臓を貫くような圧を感じた。

 逃げることも、返事をすることもできず。振り返ったマイさんの冷たい、冷たい、冷たい瞳と目があった。


「……」

「……」


 沈黙が、あった。

 沈黙だけが、ここにはあった。

 それ以外は、何もなかった。


 ◆


 夜。

 月光と電光が暗い道を照らした。文明の利器と自然の照明は素晴らしいもので、全く夜の恐ろしさを感じさせはくれない。

 ――けれど、そんな夜道の暗がりよりも深く暗いものがあった。

 

「……」

「……」


 気まずい沈黙がオレとマイさんの間に流れ続けていた。

 あれからオレたちが交えた会話が非常に事務的なものばかり。晩ご飯はどこで食べる? という程度。美味しい筈の外食も、嫌な空気感のせいで全く味を感じなかった。


 マイさんの顔を見る度に、あの返り血を浴びたマイさんの姿がチラついて仕方がない。(不思議なことに、マイさんが浴びていた返り血はいつの間にか消えてなくなっていた)

 刀は専用の市内袋のようなものに入れて持ち歩いてるようだった。


 本当は、あれについて聞きたかった。

 でも、マイさんの信頼を裏切った自分に踏み込む権利なんて、多分ない。しかも、オレの想像を越えたものがそこにあったんだ。

 間違いなく、あれがマイさんの仕事。ともすれば、オレに黙り続けていたことも理解できる。あんなの――普通の男子高校生が受け入れることができるわけがない。


「聞かないんだね」

「……怒らないんだな」


 マイさんの言葉に、オレは自然と意趣返しのような返答が口からもれていた。

 いっそ、怒ってくれた方がどれほど楽だったろうか。

 何とも言えないような、イタズラがバレた子供みたいなばつの悪そうな、悲しそうな顔をされたら……その方が怒られるよりもウン倍も辛い。


「いつかは、こういう日が来ると思っていたからね。それが今日だとは、思わなかったけれど」


 オレの顔を見据えて、マイさんは肩を竦めた。

 その表情も声色も、あの異形に向けていたそれとはかけ離れていた。穏やかで、優しくて、温かい。いつものマイさんがそこにいた。


「オレはその……正直、怖いんだと、思う。マイさんが」

「……」


 聞かないことについての返事をした。

 マイさんの表情が今まで見たこともないくらい複雑なものになっていた。その感情を読み取ることは、十七年の人生では到底できそうもない。

 知らなきゃよかった。

 そんな月並みの後悔がオレを襲う。あの時、マイさんの背を追わなければ、今頃こんなことにはなっていなかった。マイさんに感じたくもない感情を抱くこともなかったし、マイさんに感じさせたくもない感情を抱かせることもなかった。


「少し、話そうか」


 立ち止まったマイさんは、視線を余所へと向ける。その言葉と視線につられて、オレも目線を動かした。

 そこにあったのは小さな公園――というよりも空き地。


 ガタンゴトン。


 自販機から吐き出された缶が二つ。一つをオレの方に投げて、マイさんはスーツの汚れも気にせず土の上に座り込んだ。


「君とこうして暮らすようになって、三年以上だったかな?」

「ああ、そうだな」


 ぷしゅり。

 缶から空気の抜ける音が重なった。


「日々が前にいた施設――」

「ああ、燃えた施設だな」

「うん、そう。もし、あの火事も――今日の怪物が関わっているとしたら?」

「は?」

「私の仕事は、ああいった怪物と戦ってこの町の平和を守ること。私がこの仕事を始めた日は、丁度君と暮らし始めた頃からだった」


 缶を傾け、一気に呷る。その豪快な飲みっぷりとは裏腹に、マイさんの言葉はどれもが細やかで、一つも聞き逃せないものばかりだった。


「私の仕事を秘密にしたかったのは、もう少し君に穏やかな世界に身を置いて欲しかったからなんだけど……はは、人生っていうのは上手くいかないものだね?」

「……?」

「どうして私があの施設から日々を選んだのか。その理由について君は考えたことはあったかい?」

「理由?」


 心臓の鼓動が早まった。

 理由。

 マイさんがオレを選んだ、理由?

 そんなもの、そんなもの、知りたくない。本能的にマイさんから距離を取ろうとした瞬間。オレの手を握ったマイさん。

 全く力んだ様子もないのに、オレの手に伝わってくるのは信じられないほどの力。どうやら、オレを逃がしてはくれないらしい。


「日々、君は」

「やめてくれ」

「特別な力を持っているんだ」


 マイさんの顔を直視できない。

 言葉の意味を理解しないことだけにリソースを割きたかった。でも、脳は自動的に言葉の意味を理解して、オレに見たくもない事実を突きつける。

 特別な力。

 そんなものがあるなんて考えたこともない。欲しいと思ったこともなければ、欲しくもないと思ったことだってない。どうでもよかった、力なんて。


 でも。


 でも。

 マイさんと暮らす理由が、そんなものであって欲しくはなかった。だって、虫の良い話だけど――オレのことが好きだったから、マイさんはオレと暮らしていると思っていた。

 別に恋愛じゃなくていい。家族なんてものでも。そんな高望みはしない。ただ、いい友人、同居人程度の好意でよかった。


 だけど。


 そんな理由じゃ、好意なんてカケラもないじゃないか。


「私は君に可能性を見い出したんだ。同時に感じた、君の持つ特別な力を――開花させることが私の役目だと」

「やめてくれ!」

「っ!」


 オレは叫んでしまった。

 あのマイさんが怯んだ。手が離れた隙にオレは逃げ出した。情けないことに、マイさんの元から逃げてしまった。


 マイさんを見据えられなかった。


 どこに逃げるというんだろう。オレの居場所は、マイさんの居場所でもある。でも、もうそこに帰れそうもなかった。


「待ってくれ! 日々!」


 聞いたことのない声色が、背後からオレの背を掴む。

 けれど、その声に込められた感情を読み取ることはオレにはできなかった。それは多分、人生経験の問題じゃなくて……多分、オレ自身の問題だと思う。


 背後は振り返らず、正面も見ず、オレはただ地面を睨めつけて走った。


 ドン。


 そんな時。

 何かにオレはぶつかった。


 こんな時に人にぶつかってしまうなんて――謝ることも、文句を言うことも億劫に感じたオレは面を上げつつも、無視して横切る算段を考える。


「おやおやァ。いつの世も痴話喧嘩とは見るに堪えないものですねぇ?」

「……」


 鬱陶しい声を無視。

 オレは声の横を通り抜けて、そのまま夜の道を走った――走ろうとした。


「もし」


 背後から、声が響く。


「落とし物ですよ?」


 そんな言葉でオレは止まらない、はずなのに。

 足が止まった。

 口から、熱い何かがこみ上げて口から溢れた。鉄の味が口内に目一杯広がっていく。口から落ちた赤い、赤い液体は地面に落ちていく。

 でも、不思議なことにもう既に地面は真っ赤に染まっていて。


「これ」


 その言葉は呪いのようにオレの身体を操って、強引にオレを振り返らせた。その男が手に持っていたのは、オレの臓物。

 腹部を見たら、そこにはなにもなかった。なにも。


「あ――」


「ああああ!」


 戻った。意識が。


「おやおやァ。いつの世も痴話喧嘩とは見るに堪えないものですねぇ?」


 吐き気がする。

 ――超直感! こんなにも、鮮明で気持ちの悪い直感は初めてだ。

 オレは改めてそれを見上げた。


 男なのに妙に長い白髪。

 人なのに、人じゃないと認識させる圧。オレにすら、殺気が見えた。


「……」


 身体が震えた。

 あと五秒。オレに残された人生の猶予時間だ。分かっている。五秒先に起こる出来事が。でも、あれを回避したとして多分、オレの死は決定的だ。


 逃げられない。


 男の身体中から出ている死の気配がオレの四肢、心臓、魂にすらまとわりついて――離してはくれないから。


「これはこれは。斯様に震えてどうされました? ああ、ふうむ。なるほど」


 オレに顔を近づけて、男は紺碧の瞳でオレを眺めた。

 一秒程度。

 その程度のやり取りが永遠にも思えた。


「クックック」


 次いで悪辣な笑みを浮かべて。


「死を悟りましたかァ! 左様で御座います! 今、ここで貴方様は死出の旅路に向かわれる。嗚呼! 然して恐れないでくださいませ! 黄泉も良いところでございましょうや!」


 男の手に、黒い何かが纏わり付いた。

 知った。

 逃れられない死を。


 振るわれるそれ。

 超直感が出るまでもない。もうオレは死ぬ。それだけは分かった。

 目を閉じて、それを待つ。正直、あんまり怖くはない。元々、オレは消極的に生きていただけ。

 だから、あんまり、惜しくもない。ただ一つ、たった一つだけ。

 マイさんと、あんな別れになるのは嫌だった……かも。


 衝撃がオレの身体に伝わる。

 全身が激しく打ち付けられて、鈍い痛みで軋んだ。

 でも、その痛みにオレが予想していた鋭さはまるでない。オレは恐る恐る目を開けた。


「……無事みたいだね。ああ、ホント――人生って思い通りにならないよ。嫌になる」

「マイさん?」


 マイさんが割って入って、オレを押し倒していたのだ。

 助かった。そんな感想と同時に、嫌な温かさがオレの胴体に広がっていく。


「お、おいマイさん――なんでオレを庇ったんだよ。オレなんて、力のためだけに引き取ったガキだろ!? そんな奴を庇うなんて――」

「ああ、そうか。私は君の想いを勘違いしてばかりだった」


 オレはマイさんの腹部へ目を向けた。超直感が教えてくれたそれは、マイさんの身に……起きていた。

 血の池が広がり続けていく。


「う、嘘だろ……? だって、さっきまであんな元気だったのに」

「ははは、少年。君は、私が腹を抉られても大笑いできる豪傑だと思ってるのかい? ちょっと、心外だな」

「そんなこと言ってる場合かよ! そうだ! オレに特別な力があるんだ! その力を使えばマイさんは助かるんだよな!?」


「あーうん、私はもう……たすから、ないかな」

「やめてくれ! なんで今日のマイさんは……オレの聞きたくないことばっかり言うんだよ……」


 マイさんの顔色が、見る見る内に褪せていく。あんなに元気だった声も、もう……。


「聞きたくないことを言うのは、いつもだったろうけれど……まぁ、うん。最期に、一つ、もう、一つだけ追加してもいいかな?」


 ゆっくりと、弱々しく人差し指を立てるマイさん。

 いつものように困った風な笑顔を取り繕って、そう言われたら――断ることなんてできやしない。


「ちゃんと聞くから、ちゃんと聞くよ……」

「少年。君の生きる理由、もし、ないならさ。私の、理由を、継いでくれないかな?」


 そう言って、マイさんは両手をオレの両頬に添えた。


「私の代わりに、この、町を……守って欲しい」

「……」

「そ、れと、あー……。も、う、しこうが、まとまら……ないや。だから」


 たどたどしく、そう言葉を紡げば。

 マイさんは震える顔をオレに寄せて。オレの額に唇を重ねた。

 ほんの一瞬。

 驚いて、固まるオレを見て。いつもの豪気な笑みを浮かべたマイさんは――。


「りゆう、かばった、ね」


 それが、マイさんの最期の言葉だった。

 美しいままの金の髪に差し込む月光は、鬱陶しいほどに澄んでいた。


 ◆


「クックック。庇う傍ら、儂の片腕を持っていったその技量。酷く感服致しましたので――末期の一句を詠む時間くらいは差し上げようと考えていましたが。どうにも、どうにも! なんと凡庸でつまらぬメロドラマでしょうかァ!」


「……」


 男の言葉が耳をキンキンとついていく。

 罵倒の羅列を聞いても男に対する怒りはまるで湧いてこなかった。怒りは全て、オレ自身に向けられていたから。


「オレってバカだよなァ……。三年以上一緒に居たのにさ、マイさんのこと、全然分かってなくてよ。こんな日に限って、マイさんの見たことない顔ばっかり見てよ……」


 マイさんの手に握られていた刀を手に取って、オレは鞘を腰に差し込んだ。


「悔しいし、悲しいし、許せねぇし……でも、それ以上に嫌なのはさ」


 騎士の兜のような黒い仮面も持って。


「こんな最低な瞬間だってのに、どうしてかオレはさ。どうしようもなく、前を向けるんだ」

「……おやおやおやァ! それはそれは非常に残念ですねェ! 今、ここで貴方様の命は潰えるのですからァ!」


 男の言葉を聞き流して、オレはゆっくりと刀を抜いていく。

 マイさんがそうしていたように。

 右手に伝わる刀の重みは、マイさんが守っていた町の重みだと思えた。


「あー重てぇなァ」


 引き抜いて、その切っ先を男へと向ける。

 刃の揺らめきに合わせ、月光が煌めく。

 オレは仮面を被った。


 生きるに値する最もらしい理由が欠落していた。

 消極的に生きることしかできなかった。

 オレは結局、誰かの理由を間借りすることでしか立てなかった。


 でも、今からは違う。


「悪ぃな! 今ここで死ぬ気はまるでねぇ!」

「いいえ、いいえ。どのような気持ちであろうと――結果は変わりません!」


 オレは駆けた。

 不思議と全身に力がみなぎった。マイさんを殺された怒りで覚醒――とかじゃない。ただ、純粋なエネルギーが身体中を巡っていたんだ。

 刀なんて振るったこともなければ、喧嘩だってしたことはない。けれど、不思議と動けた。男を目掛け、一歩、二歩、三歩と距離を詰めていく。

 自分でも驚くほどの速度で、動けている。風を斬る音さえ聞こえてきた。


「ほおう。速度はかなりのものですなァ。然して、然して! 是に対応できましょうか!」


 男が片手を振り上げれば、黒い何かが男の手に集中。

 黒い光が輝いたかと思えば、瞬間オレに向かって放たれるレーザーじみた何か。本来であれば防ぐことなんてできない一撃。

 だけど、オレが考えるよりも先に身体が反応した。刀を一度――振り上げれば。


「これはこれはァ!」


 レーザーが真っ二つに割れ胡散。

 斬れた。

 なぜ? そんなことはどうでもよかった。オレは無我夢中で距離を詰めた。斬れさえすれば、オレは生き延びることができる。そう確信していた。


「次は質ではなく、量ですよォ! ほうれ!」


 男の右手に集まった黒い何か。先程と同じように煌めけば、今度は十と二に拡散。細分化したレーザーが無茶苦茶な軌道を描いてオレへと迫った。


「……」


 考えたって分からない。

 オレの目だって何一つレーザーの動きを追えてなどいなかった。けれど、身体の衝動に身を任せた。

 刃を縦に構え、速度は一切落とさない。

 寸でまで引きつけて、オレの身体は飛翔した。そして、四方八方からオレを穿とうとしたレーザーは一点へと集まり――そこを斬り落とす。


「なんと身軽なことでしょうかァ! これでは、これではまるで、あの女の生き写しのようではないですかァ!」


 未だふざけた態度の男。

 最早その距離は二歩ほどしか離れてはいない。オレは間合いをさらに詰めて、刀を振り構える。

 取った!


 その首目掛けて、オレは刀を振りぬ――


「残念、外れェ!」


 男の腹が割けたかと思えば、オレの身体を貫くのは一つの巨大な黒い光。熱がオレの四肢まで伝わり、鋭い痛みと黒煙が喉から溢れ出ていく。


「あ――」


「あ、ああ!」


 意識が戻る。

 気分が悪い。臓物の焼かれた感覚がまだ残っている。でも、それでも。


「ああ、今日だけは、よくやった!」


 オレは今までずっと疎んでいた自らの直感に生まれて初めて感謝した。

 戻ったのはきっかり五秒前。男に最接近する一瞬ほど前まで。オレは踏み込んで、刀を振り構える。

 そして、その刀を男の忌々しい首目掛け。


「残念、外れェ!」


 振り抜くと見せかけ、急停止。

 オレの直感通り割ける腹、そこから漏れ出る黒光。オレへと迫るそれへ向けて、真っ直ぐに刀を翻した。その奥にいる男ごと。


 オレは闇を切り裂いた。


「が、が、が――バカな! な、何故、儂の懐刀が露呈していた!」


 男の悲鳴が聞こえた。


「なんだ、まだ生きてたのかよ」


 真っ二つになって地面に転がった癖に、随分と生命力の高い生き物だ。

 オレは男を見下して、刃を構えた。マイさんも、敵には苛烈だったっけ。


「そうか、そうでしたかァ! これが、あの御方の言ってい――」

「いい加減黙ってろよ」


 握った刃で、文字通りトドメを刺す。

 物言わぬ死骸になった後にさえ、男は露悪的だった。けれど、そんなものにもう興味はない。

 オレはマイさんに駆け寄って、彼女の身体を背負った。


「帰ろうぜ、マイさん。オレたちの家にさ」


 もちろん。

 返事はなかった。けれど、オレは黙ることだけはできなかった。


「マイさんって、こんなに軽かったんだなぁ……」


「いつもだったら、憎まれ口の一つでも叩くのに、今日はやけに静かだよなぁ、ははは……」


「はぁ……」


「ありがとうな、マイさん。オレを三度も救ってくれてさ」


 そんなことを言って家に帰った。多分。

 そこから先は、玄関でずっとぼーっとしていたような気もするけれど……あんまりよく覚えてはなかった。

 ただ、一つなのはマイさんが死んだ。


 それだけだ。


 序章 今日、オレは生まれ変わる<了>

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