夜明けの星に約束を

織香

 

 甘美かんびに誘う鮮血よりも、芳醇ほうじゅんな香りのブドウ酒ウィヌムがいい。

 白木のくいを打たれるならば、純銀の十字架クルクスいだきたい。



「君は本当に変わっているね、エヴァ」

「そんな私を逃がそうとする貴方も、じゅうぶんに変わっているのよ。ユード」


 彼のどこか楽しそうな声音に私はやんわりと、たしなめるように言葉をかぶせた。一つにまとめた赤みがかった金髪を、風にさらわれないようにおさえながらそっと見下ろす。

 どんどんと集まってくる松明たいまつの光で目が痛くなるくらい、私はとても夜目よめが効く。その光に照らされたかまや刃物を持った者たちが街の裏路地まで細かくはいり込んで行く姿が、からでも鮮明に見えていた。

 さいわいな事に、まだ不穏な空気は私達に届かない。


 教会の鐘塔カンパニーレはこの町で一番、星空に近い。見晴らしの良いこの場所からは、太陽があがる場所が見えると言う。


 その地平線はまだ微睡まどろんでいて、私達を隠したまま。

 聞こえてくるのはたくさんの星たちのささやきだけ。

 

 教会から離れていく人々の背に安堵あんどのため息をついて振り返り、口角をあげて彼に長い歯を見せた。腕をおさえて手すりに寄り掛かるように座る彼が、それに答えるように小さく笑う。

 

「教会から逃げた二人が、教会に隠れるなんて誰も思わないでしょう? 神は心の広い御方だから、きっと僕たちを隠して下さる」


 のんきに笑う彼の隣に、私は顔をしかめながら腰を下ろした。

 黒い祭服カソックにじんだ甘い血液の香りに、頭の中に赤い霧が立ちこめる。頭を軽く振ってそれを意識の外へ追いやると、私は自分のドレスストラの端を切り裂き彼の傷口に巻いていった。

 いくら我慢強い彼でも小さなうめき声がもれて、私は唇を引き結んで自分の不甲斐なさを呪う。


 彼の大柄で少々筋肉質な体は、ありがたいことに潰れかけた刃先から骨などの重要な部分を護ってくれた。それでも私よりも彼に怪我を負わせてしまったことが、申し訳なかった。


 私をかばって腕にかまを受けた彼。

 それがヒトの目に、どんな形で映るかも考えずに。

 その行動に動揺していた街の住人を背に、私は彼をさらってみせた。

 

『魔女から神父様を救い出せ!!』

 その言葉と共にたくさんのヒトの足音が、眠りに沈む町に響く。その事に少しだけホッとして、少しでも二人で逃げられる道を探して目や耳をらしていた。


 私のヒトよりも鋭敏えいびんな聴力は、その包囲網が少しずつ迫ってきていることをしらせてきていたからだ。





 顔をしかめて私の手元を見ていたユードが自らの手をそっと重ねてくる。

 彼の小麦色の手は私の貧相な手よりも大きくて、温かで。

 の光もきっとこのくらい心地よい。

 言葉もなく、目を細めて見つめていると彼は私を見上げてきた。


 太陽に愛された彼によく似合う、

 澄んだ青空を想わせる笑顔。



(きっと心臓を貫かれたら、こんな感じなのかしら?)

 私は目を見開いて、口元をきゅっと引き締めた。自分のなだらかな胸元に手を置いて、無事だった心臓の早鐘はやがねを落ち着かせようとそっと撫でる。

 だけど私が好きなその笑顔をすぐに引っ込めてしまうと、彼はいつもの説教ドクトリーナのような真剣な表情を作った。そうして体を寄せてきて、言い含めるような声音で小さくささやく。


「ここから逃げなさい、エヴァ。君だけならば、どこへでも行ける」


 その言葉に私は自分の頭からさぁっと血の気が引くのを感じ、息をのんだ。彼の言葉の意味がじんわりと心の中におおかぶさり、悲しみがヴェールのように重なっていく。

 それがわかっている彼も、じっと私の目をのぞき込み、沈黙を守った。


 

 もしここでユードが私を逃がしたとすれば、

 彼の命と引き換えに私はたくさんの夜を過ごせる。

 人はきっと、デウスを裏切った彼をゆるしはしない。


 だからこれは神の罰エクスピアーティオ

 吸血鬼ラミアが神父に、恋い焦がれてしまったから。


「貴方を見捨てるくらいなら、私は太陽に身をささぐわ」


 自分の声が、細く震えているのがわかる。私は真剣な表情を崩さない、彼の大きな手を握り返した。それに額をつけたりの深い彼の顔は、月の光でもくっきりと長い睫毛まつげの影をほほに落とす。


「では僕が、君と同じ吸血鬼になればエヴァは逃げてくれますか?」


 視線の先にある彼の顔がにじんで隠れてしまいそう。

 それでも、かすれて小さくても、私は彼に想いを伝える。

「私は貴方が好きよ、ユード。吸血鬼の私に信仰フィデースを教えてくれた貴方が好き。聖書サクラ・ビブリアを読んでいる時の、幸せそうなユードが好きなの」



 月の無い夜のような黒髪も、

 春に萌える緑の瞳も、

 太陽によく似合う小麦色の肌も、

 からかうような彼の笑顔も、

 全部一人占めしたいと思った。

 そんな私の想いを知っているかのような懇願こんがんに、

 目眩めまいがする程の幸福を覚える。

 

 

「お願いよ、そんなに私を誘惑しないで。それに……私が同族にできるわけないと知っているくせに」

 吐息といきと共に目を伏せて彼の言葉を振り払う。彼の手のひらにほほを寄せると、まだ乾いていない血液をそっとめた。その鉄臭い匂いと味に思わず顔をしかめると、すぐに頭の上から面白がるような声が降る。


「あなたは禁欲が好きですね。だからいつまでもままだ」


 その言葉にユードに視線を合わせると、口を引き結んでぱちぱちと目をまたたかせた。彼のでその意味がわかった私は自分の胸元に手を重ねて、ますます肩を震わせて笑いをこらえるユードをにらみ付けた。


「あなたが産まれる前からこのままよ! それに私はブドウ酒ウィヌムの方が好きなのよ」

 つんとそっぽを向いた私をなだめるように、笑いを噛み殺した彼は胸の前で十字をきる。


「血が苦手な吸血鬼などいまだに信じられないもので。それに、エヴァほど讃美歌ヒュムヌスそらんじることが出来る方を、神の敵と言い切るには僕にはとうてい出来ません」


 

 その姿を見た私は、悲しみが胸の中に宿るのがわかった。目をつぶったユードは気がつかずに、祈りの言葉を口の中で唱えている。



 彼はどこまでも神の使徒しと

 悲しいほどに、私と相容れない存在。

 

 それなのに、どうしても離れることが嫌だった。

 どんな罰を受けようと、彼の側にいたかった。

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