一家移住。浅井家の場合
@eikyusf
第1話 順化ステーション
宇宙ステーションの内部はゆっくりと明るくなってきた。
照明器具は見あたらず、高い天井全体が光を発しているように見える。
地上での夜明けに似せて、最初はほの明るい程度から始まり、だんだん明るくなってゆき、30分ほどの間に日中の明るさの50%から60%になる。それからは感じ取れないほど僅かづつ照明が強くなってゆき、正午に10万ルクス程度になるように調節されている。
窓はこの時刻はシャッターとブラインドで覆われていて、地上の時間の経過と地上での日光の強さを再現する過程で少しづつ開けられてゆく。
これらの窓は星空を眺めるのには向いていない。三重構造になっていて、かなりの厚みがあるうえに間に水が入っているから、外の風景は歪んで見える。この水は宇宙線を遮ると同時に生活に必要な水の貯水タンク代わりにもなっている。
ステーションの外を見たい時にはモニターのほうが見やすい。
宇宙ステーションというのは日本語での名称で、英語圏ではスペース・ステーションまたはスペース・ハビタットとも呼ばれている。
外部からの物資補給は行われているが、空気や水の循環はほぼ完全に内部で完結している。
宇宙ステーションは、最初の移住協定の締結以降約30年の間に7基が建造された。いずれも巨大なドーナツ型をしていて、地球の軌道の外側にあり、地球の周囲ではなく太陽の周囲を公転していた。
宇宙連合の地球型惑星への移住を希望する者は、まずこのどれかへ送り込まれ、数週間過ごした後に各移住惑星へと旅立っていく。
浅井圭は2週間前、妻の瑠香と二人の息子を連れて、最も大きな第7ステーションにやって来た。
到着したその日に家族全員で健康診断を受けた他は、もう手続きはない。全て地上で済ませて来ていた。受け入れ側の宇宙連合へ提出する書類は、戸籍かパスポートと、税務署で移住のための清算をしたという証明書、それに無犯罪証明。
証明書類の発行にはそれほど時間はかからなかったが、その前に自分自身の身辺整理があり、そちらは一年以上前から準備した。地球上で他国へ移住するのと同じく、生活拠点を全部移すことになるので、退職にまつわる手続きやアパートの契約の解除、子供たちの保育園の退園手続きやその他、やる事が山盛りだった。
そして資産を全て金に換えて宇宙連合名義の「移住持ち込み専用口座」へ振り込んだ。この金は移住惑星での通貨に換算され、宇宙ステーションに到着して個人登録をした時に、各自の口座に即日振り込まれた。
移住のための料金だとか、宇宙連合への何らかの支払いなどは、一切引かれていなかった。
地球上のことならば気が変わったら戻ってくるのは容易だが、宇宙への移住はそうはいかない。何しろ移動距離が桁違いだ。
宇宙人たちは、地球人保護のためだと言って、光よりも早く移動する技術を用いて地球人を移住させていた。
その技術はまだ地球にはなく、地球人には理解できないものであり、そして宇宙連合も地球人に教えようとしなかった。
宇宙連合は、永住を前提とする人員の受け入れ以外は地球との交流を行わなかった。
特に、経済的な交流は全く行われず、貿易や金融は断絶している。
通信も同様だ。ごく例外的に公的な情報交換が行われる他は、いかなるメディアの情報も宇宙連合領内へ発信できないし、向こうからも来ない。個人間の私信もできないので、宇宙へ行った親族に地球から手紙や小包を送ることなど出来ないし、その逆も出来ない。
また、どんな理由でも一時滞在を双方向で認めない。
観光や里帰りはもちろん、親族の葬儀のための一時帰郷も認められない。帰ってくるとしたら、地球に再び永住するという手続きを取らなければならず、行く時と同じように身辺整理をしなくてはならない。
つまり実質上、宇宙へは永住を前提とした移住以外はできないのだ。
(ごく少数の例外、例えば宇宙連合の外交官や職員として地球に来る場合などはこの限りではない。)
圭がそこまでの覚悟をしてまで宇宙へ行こうとする理由は、子供たちだった。
地球上での生活には先々の不安が多すぎる。
日本は安全な国と言われてきたが、二、三年前の統計では、悪質詐欺や金融犯罪などは先進国の中で7番目に多いという結果になっていた。殺人や強盗などの凶悪犯罪は相変わらず少ないけれど、日常生活の中で騙されたり財産を取られるなどの被害に遭う確率は高いということだ。
政治的な不安や経済不調をそれぞれに上手く処理して安定している他の先進諸国に比べ、もともと労働条件は先進国中で最低に近かった日本は、相対的に住みにくい国になっている。
貧富の差も他の国々よりはマシ、と言われてはいるが、それは単に日本の富裕層の富が世界の中ではそれほど大きくない、つまり日本全体が貧乏なだけなのである。
貧乏国家の内部でまた富裕層とその他との格差がはっきりしているのだから、世知辛い。
しかもその格差は、どの大学を出るかではなく、どの親の元に生まれたかによって決定してしまう。
圭のように、家族や親せきに政治家も上級公務員も大会社の重役もいない人間は、大多数が生涯続く低賃金労働を運命づけられている。
国全体が悪くなっているのが事実かどうか、実際にはわからないが、「悪くなっている」という認識が一般的だ。
日本は第二次大戦を最後に戦場になることはなかったし、ゲリラのせいで死ぬ人もほとんどいないし、新関東大震災も被害は人も物も最小で済んだ。
しかし、過去50年を振り返ると、経済にしてもその他のことにしても本当に良かったことが一度もない。一時的な好景気は何度か来たが、いずれも庶民には何の恩恵ももたらさなかった。
学問研究は資金不足のため後退し、政府はインフラの老朽化への対応に追われて未来を見据えた都市計画を実行する余裕がない。かつては世界最先端の技術を支えていた民間企業も、労働条件を改善する力もなく、今では世界の進歩の速度に付いて行けない。
何より、日本は昔も今も変わらずアジアにすぎない。
「アジアにすぎない」という表現は、元は賄賂による政治家や公的機関の腐敗という意味が込められていたが、2070年現在の日本で使われる場合はその意味は変質している。
賄賂や公金の使い道に関しては、一般の国民が政治に関心を持つようになって時とともに改善された。中でも、弁護士や会計士が中心となって公金の使途をチェックする市民団体が立ち上がったのは大きかった。
しかし、女性の社会進出は進まず、貧困者や難病患者や被虐待児など、ほぼ全ての社会的弱者へのケアが先進国中最低に近いレベルのまま改善しない。
弱者は弱いまま半永久的に浮上することはない、というのが日本的な「アジアである」ことの意味なのだ。
圭の勤めている会社の社長は二言目には「厳しくなっているから」と言って給与を上げてくれず、残業代も半分も払ってくれたことがない。以前にそのことで労働局から処罰されたことがあるのに、平然と同じことを繰り返している。
転職を考えたこともあるが、圭はすでに二度も転職しているので、三度目に踏み切る勇気がない。
妻の方も似たり寄ったりだ。女性の場合は、出産の時に法律上は取れるはずの産休を取らせてもらえずに退職に追い込まれることが多いようだ。瑠香はそれで最初の職場を離れ、育児がひと段落してから再就職をしたが、条件の良い職場が見つからずに二年近くも探さなければならなかった。
30半ば頃から、圭は行き詰まりを感じるようになった。株や他の投資も少しづつしていたし、何度か父から援助も受けられたが、思うように増えない預金額を見ているうちに、いつかテレビで見た宇宙連合の移住プロジェクトはどうだろう、と考え始めたのだった。
移住惑星へ永住する際には、持ち出せる資産に制限がある。各国によって異なり、日本の場合は前年の一人当たりGDPの3倍までである。
株やその他の金融資産は宇宙では通用しないので、現金だけが持ち出し資産ということになる。
それ以上の資産を持って行きたければ、家財道具の持ち出し枠を利用して、高価な物をたくさん買い込んで持って行く方法しかない。
しかし、貴金属や宝石類の持ち出しにも制限があり、特に貴金属は、宇宙連合側ではなく、地球の諸国家の大部分が持ち出しを制限している。
有名芸術家の作品が持ち出される時には、裁判になることもある。
宇宙連合のほうも、地球の法や慣習を尊重し、可能な限り地球の社会生活に影響を及ぼさないように移住プロジェクトを進める、という方針であり、貴重な品々が地球から持ち去られるのは好ましくない、と表明している。
表明したことは、宇宙連合は常に実行する。
何らかの意思表明だけをマスコミを使って派手に広めるだけで実際は実施されていないという地球の諸国家が使いがちな手を、宇宙連合は一度も使ったことが無い。制限を課します、と言ったらキッチリとそれを守らせるための取締りをするのだ。
一体どんな技術を使うのか、地球よりも高度な機械で移住者の荷物をスキャンして、どんな禁止に引っかかる物も100%見破ってしまう。
以上のように、多少の現金以外の資産は持って行けず、貴金属も美術品も厳しく制限されるとあって、富裕層の人間には全くと言っていいほどメリットのない移住プロジェクトだ。
なので、「資産家お断りプロジェクト」などと呼ばれている。
宇宙連合が現れるまで、地球人にとって宇宙関係の開発や事業は、科学技術の粋を集めた最先端のプロジェクトだった。
その最先端を遥かにしのぐ技術力を前にして、全てが変化した。
数百年、数千年、もしかしたら数万年も先を行く宇宙連合の科学技術に比べたら、地球の宇宙事業は陳腐なもので、無意味なものに成り下がってしまった。
こちらは一番近い月でさえ、居住を可能にするには遠く及ばず、資源を採取するだけのことさえまともに出来ていない。
火星を第二の地球にする計画も、本格的に立ち上がってから何十年も経つが、まだ実現にはほど遠い有様だ。
地球では想像上のものでしかなかった瞬間移動を技術的に実現し、自在に数百光年もの距離を移動する宇宙人たちは、ある人々にとっては脅威であり、別のある人々にとっては希望であった。
最初の驚きが鎮まり、彼らが友好的であると分かると、地球で最も権力と資産のある人々が彼らと取引きをしようと試みた。
莫大な富を火星移住計画に投資し、あるいは将来の火星移住のために貯めこんでいた超富裕層は、宇宙連合と上手く取引をすれば、その夢を彼らの技術で叶えることができると期待した。
ところが宇宙人たちは地球の富や権力には全く興味を示さなかった。
彼らがはるばる天の川銀河の最外縁にまでやって来た唯一の目的は、地球人と地球の文明を保護すること、それに付随する地球の生物相の保存だけであり、資源や資産を地球から得ようという意図はなく、むしろ地球の気候や自然に影響を及ぼすような交流は避けたいと表明した。
地球最大の資産家たちと密室で話し合った時も
「その資産を同朋のために、どう役立てるつもりか。」と質問してきて、最後まで大真面目に人類全体の幸せのための計画を話し合おうとした。
各国の首脳や代表との会合でも同じで、表向きは国益、裏では己の保身や権益やイデオロギーのためというダブルスタンダードは、宇宙人には通じなかった。
地球全体の富の90%を独占する1%にも満たない超富裕層が、いったい何のためにそんな巨大な富をかき集めてきたのか、何のためにその富を保有しているのか。
巨万の富を縦横に駆使して彼らが目指してきたものは、すでによその星で実現していて、目の前に完成した形で置かれていた。
そして、目の前にぶら下がっているのに、つかみ取ることはできないのであった。
宇宙連合は、移住させる地球人を欲しがってはいたが、その地球人とは、いかなる社会にも影響の大きな人であってはならなかった。
つまり、悪い言い方をすると、いなくなっても差し支えない人達が移住資格者となったのだ。
しかも、極秘にするという条件で行われた会合であっても、彼らの基準で地球人全体にかかわる事柄であると判断すると、その内容を公表してしまうことがあり、その度に国際的な大騒動になった。
宇宙人の方でも、自分たちの言動が各国代表を怒らせたり、国家間に争いを引き起こすのを見て、徐々に距離を取るようになっていった。
そして今では地球への干渉は最低限に抑え、ただ地球人種の保護を唱えるのみだ。
宇宙連合とのコンタクトの最初は、そんな混乱があった。
そして、本当の困惑は、彼らがすでに地球に似せて作った惑星をいくつも持っていて、すぐにでも地球人を移住させることができる、と判明した時から始まった。
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