白息行路

 峠道は深い雪に覆われて、白く静かに蛇行している。

 一晩のうちに降り積もった雪が斜面に生えた笹の葉から滑り落ちて、しゃらりと微かな音を立てた。目を凝らせば、雪道の中程にタイヤの跡に沿った窪みが残っている。

 僕はそれを追いかけるように歩をすすめた。時折り傘を振って積もった雪を払い落としながら、また再び、雪を踏む。

 僕の目的地はこの先にある小さな定食屋だ。

 そこに、この雪の日に僕を呼びつけた先輩が来ているという。

 押入れの奥底から引っ張り出してきた滑り止め付きの長靴で雪を踏めば、ぎゅ、ぎゅ、と鈍い音がリズミカルに後をついて来る。日暮れてきた空気の中には、吐く息の白さも溶け込んでしまうようだ。


 辿り着いた店の軒先に、鈍く光る大型のバイクが停めてある。まるで忠実な番犬のようで、ピカピカの緑色を撫でてやりたくなった。黒々と濡れたホイールには入念にチェーンが巻き付けられており、それが途中からふつりと途切れている。

 なるほど、なるほど。

 そう呟いてから店の引き戸を開ける。店内の暖かな空気と冷たい外気との温度差で眼鏡のレンズが見事に白く曇った。途端「いらっしゃあい」という快活な声と、被せるような笑い声が僕を迎える。


「どうかしてますよ、先輩」

「まぁまぁ、そう言わず、座りたまえ」


 こっちこっちと呼びかける声にならい、袖についた雪など払いつつ店の奥にすすむ。先輩のほかに客は誰もいない。そりゃあそうだろう、こんな雪の日だ。

 店の最奥のテーブルに居座って長い髪を無造作に束ねているのは大学時代のサークルの先輩で、こうして会うのは夏の飲み会以来。二年上の、いわゆるマドンナ的存在の女性だ。

 だからと言うか、なんと言うか、真正面でテーブルに肘をついたその姿は少しばかり目のやり場に困る。雪のせいか妙にしっとりした印象の先輩を、それでも曇ったレンズ越しに見やると、胸元に何か、違和感が。いや、普段から妙齢の女性のそんな所ばかり見ているわけではないけれど。


「あのぅ」

「いや、違う。こいつを拾ってしまったの」


 豊かな膨らみかに見えたカーディガンの胸元から、ミィと、か細く鳴いたのは幼い黒猫だった。


「君の分も頼んでおいたから」


 席に着くなり運ばれてきた鍋焼きうどん二人前。店のおばちゃんが、黒い子猫に笑いかけてから厨房に戻っていくのを見送る。呼び出しに応じてこの寒い寒い峠道を歩いて来た代償として、ありがたく箸をつけることにする。

 湯気越しに不敵に笑う先輩によれば、峠道を越えたところにある「河童が淵」を目指していたそう。「河童が淵」は湧き水の美しい水源で、河童が住んでいるという伝承もあるほどだ。もっぱら、河童ではなくて水鳥の憩いの場になっている。

 カーブの途中で黒い塊が飛び出してきて、それを避けようと急ハンドルを切ってしまい、愛車ことニンジャ1000ccのホイールに取り付けたチェーンが切れ、バイクを押しながらたどり着いたこの店から僕に連絡をしてきたと言う話だった。


「なんだってまた、こんな日に」

「雪の日って河童はどうしてるのかなーって思ったら、なーんか居ても立っても居られなくなって」


 僕はため息を吐く代わりに煮えたお麩を口にする。あちあち、はふはふ。ひとしきり熱がってから口内に放り込めば、出汁の効いたつゆが溢れて喉から食道、食道から胃へと駆けていく。至福。

 鍋敷きの上に配された鍋焼きうどんの器。その隣、無造作に置かれた一眼レフをちらりと見る。先輩のカメラは昔ながらのフィルムカメラで、長い指先で息を潜めるように押されるシャッターには、様々なものが切り取られてきたのを知っている。

 夏の朝の雲と逆光のひまわり、鮮やかな落ち葉の中を飛ぶ鳥の影、桜並木を横切る真っ白な猫の親子など、繊細で優しい空気の中に、やわらかな色彩が満ちる。

 だからきっと、先輩にとって今日のような悪天候は絶好のシャッターチャンスなのだろう。


「なーんて、嘘」

「写真ですよね」

「それもある」

「も?」

「そう」


 言ってから鍋焼きうどんに向き直るので、それでは僕もと目の前のうどんに取り掛かる。煮込まれたうどんは柔らかく出汁を吸い、しかしきちんとコシがあって、まろやかな味わいがした。

 分厚い椎茸を頬張っているとき、コップの水を飲んだ先輩が「ほんとうは」と言った。水分を含んだ声は変な具合に艶かしく響き、けれど、胸元からこちらを覗く子猫の視線に気押されるようにまた鍋に視線を落とす。


「君に会いに来た、って言ったら?」


 多分だけど、それはない。と思う。

 おおかた拾った子猫をどうしようか考えた結果、この峠道の麓に住んでいる僕を思い出して、押し付けるつもりで呼んだのだろう。たぶん。きっと。頬の熱さをうどんのせいにしよう。そうしよう。

 湯気で盛大に眼鏡が曇るのもお構いなしに、ずぞぞ、とひときわ豪快にうどんを啜る。今はこの湯気にすら隠れたい気分だった。はす向かいの先輩がくすりと笑い声を漏らし、黒猫がニャアと鳴く。ふくふくと煮崩れた厚揚げを湯気ごとかき込めば、腹の底まで温もりが満ちていく。差し当たっては子猫の今夜の寝床について考える。とりあえず毛布を提供しようか。

 元からそんなに雪の降らない地域のこと、今は永遠のように降りしきるこの雪も、明日の朝になればきっとすっかり落ち着くだろう。そうしたらもう少し視界も良くなるはずだ。何かを考えるのはそれからでも遅くない。

 鍋の底に残った柚の皮が、まるで春を待つ月のようにゆらりとぼやけて見えた。



(本文の文字数:2,218字)

(使用したお題:「永遠」「鍋焼きうどん」「ニンジャ」「河童」「黒猫」)

★読者賞:キュンとした賞、この字数とは思えない賞

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