第10話 自信を出して

「…………」


 父さんも母さんも、わたしもメロも動きが止まっている。

 壁掛け時計の秒針だけが、かちかちと規則正しく時の流れを刻む音を立てていた。


 かちっ、かちっ、かちっ、かちっ。


 誰が何を思おうと、わたしが何に悩もうと、時間だけは万物平等に過ぎていく。

 地球という惑星が始まってから永久不変であろう時間という概念は、いくら時代を重ねてもずっとそのままだ。

 たとえ革命が起きようが。

 恐竜が絶滅しようが。

 野生のパンがふにふにと出現しようが。


 そして万物に有効な時間というものは、生き物や時代、セカイそのものを変化させていくのだ。時にゆるやかに優しく、時にすべてを憎みたくなるほど過酷なカタチで。


 わたしは生きにくさを抱えながらも、比較的恵まれた環境下、優しいセカイにいる。

 逆にいうと、このまま甘えていていいのか不安にもなってしまうのだ。

 これから高校、大学、社会人と進んでいけば、どんどん谷崎美羽のセカイは変わっていく。 ずっとこのまま甘えっぱなし、というわけにはいかない。だって。


 野生のメロンパンにシュガートーストのお薬が処方されるようなセカイなんて、数年前まではまったく想像つかなかった。


 だけど現実として、メロはわたしの前にいる。

 メロを受け入れている人たちがいる、パンのお医者さんがいる、わたしが踏みつけそうになった野生の食パンだっている。


 だから。

 いつまた何が起きて、わたしのセカイがひっくり返ってしまうことはいくらでもありうる。

 中学を卒業して、くるみと離ればなれかもしれない。

 親もいつまで元気でいてくれるのか、わからない。

 だけどわたしの聴覚過敏は、治らない。


 頭の中にラジオのノイズみたく思考ががちゃ付き出して、今にも声を出して泣きたい気分になった。


「……美羽に、これを渡しておくわ」


 顔面真っ青になってしまっているだろうわたしに対して、母さんが渡したのは耳栓だった。イエローとブルーの蛍光色がポップな印象の、小ぶりの耳栓だ。


 聴覚過敏の人は、学校に申し出てノイズキャンセリングイヤホンや耳栓の使用を認めてもらうケースも多いという。

 ただ耳に何か付けているのを周りにからかわれるのではという心配とか、別に今だって特段困っている訳ではないからという考えから、耳栓やイヤホンを使うどころか手にするのも避けていた。


「実はこの耳栓ね、数ヶ月前には買っていたものだったのよ」


 だろうな、と思う。事前入手してるのでなければ、こんな急ににすんなりと耳栓が出てくるはずがない。


「使うかどうかは、あなたの判断に任せるわ。もし使って耳に合わなかったらすぐに言ってね」


 やや早口で言うと、母さんはすうっと息を大きく吸った。


「それで、話は戻すけど……。母さんと大喜さん、美羽の両親としての意見としては、私たちは美羽が悔いにならない選択ならなんでもいいとは思ってる。美羽が良いっていうのなら、通信制や定時制の高校でもかまわない。他の親御さんからいい加減だって言われたこともあったけど、うちはうち、よそはよそだもの」


 誰の親から母さんがいい加減と言われたか一瞬気になったけど、わたしは黙って頷く。

 谷崎家は一見するとゆるいようで、家族それぞれが何でも自分で考えて決めごとをするという確固たる方針がある。


 あくまで自分で考えて決めたのならそれでいい、ということだ。だからわたしも中学で部活に入らず塾にも通わず、代わりに独学で勉強を頑張るということを「決める」ことができた。メロを家に連れ帰れたのも、とりあえず「わたしが連れ帰る」という自分での決断があったからだ。


 それが他のお宅のママさん方から「子どもを放置してる」「全部子ども任せで子育てを手抜きしてる」なーんてディスりの対象にされたこともあった。でも誰かに何かメンドクサイことを言われるたび、母さんはひらりひらりと華麗にスルーをキメている。わたしにはとてもできない芸当だな。


「それに……別に迷子でいたっていいんじゃない? そもそも今の美羽の年頃って、道に迷うためにあるような時期だもの」

「迷うための……なんで?」


 思わず問いで返した。母さんたちはもう大人だからそう言えるのかもしれない。けど迷いの森をひとりぼっちでさまよっている間は「いま迷子でいたいお年頃なんです」だなんて間違っても思えない。


「そうね。迷いという事象を善と見るか悪とするかはあくまで自分自身。だけど私からみるかぎりは、美羽は迷子になったことですごく世界が広がったと思うの」

「せかい、が?」


 確かに迷いの森にだって、同じように迷う仲間や森をよく知っていて教えてくれる人もいるだろう。砂漠でいうオアシスのような場所にも出会えるかも。


「だって、あんなにいいお友達やメロちゃんに出会えたじゃない」


 そこに不思議な不思議な野生のメロンパンが現れるのも、当たり前のこと、だったのだろう。



 耳栓を握りしめたまま部屋に戻ることにする。部屋のドアを半分開けたところで、メロがリビングからふにふにと近づいてくるのが見えた。


「メロ」

「きゅうう」


 耳栓をワンピースのポケットに入れてから、かがんでメロと目線を合わせる。

 ふと、メロを夜どうするかについて考えた。暗いリビングに一人きりでは心細いだろう。加えて冬のこの寒さだ。またメロが体を冷やせば元の木阿弥になってしまう。一応リビングにもエアコンはあるけど、メロが夜中に出歩いて空気が冷えた廊下に出る可能性もある。


 そうなると。


「メロ、夜はわたしの部屋に一緒に行こう? リビングがいいなら話は変わるけど」

 メロはふにゃふにゃっと考え込む仕草をして。

「きゅっ」

 またふにふにとわたしについてきた。

 わたしがよいしょとメロを抱き上げると、ほおずりしたくなるような甘い匂いがふわあっと鼻先に広がった。

「じゃ、寝る場所の準備もしなきゃだね」

 

 メロを自室のベッドの上に降ろし、部屋の暖房の温度を少し上げる。


 その次にメロの寝床用意と、メロを自分の部屋にいさせることを母さんに報告するためリビングに行く。母さんはリビングでテレビ視聴中だった。バラエティー番組か、少しわざとらしい笑い声が聞こえる。

 わたしの耳に、ぴりっと不快な衝撃が走った。わたしがいることに気づいた母さんが、すぐにテレビの電源を切ってくれて安堵。


「どうしたの、美羽。メロちゃんと話してたみたいだけど」

「うん。メロのこと。夜はわたしの部屋にいさせようかなって思って。リビングだと暖房の手間もあるし、寂しいじゃない? メロがついてきてくれたから、もうわたしの部屋に連れてはいったんだけど……」


 途中しどろもどろになりながら説明する。

 今まで生き物を飼ったことや連れてきたことがなくて、こういうシチュエーションは不慣れだ。


「ああ、それでメロちゃんここにはいないのね」

「うん」

「メロちゃん、美羽が好きなのね。部屋までついていくだなんて」

 夜なのに太陽みたいな笑顔で母さんは言う。

「そんな。メロはもとから人なつっこいから」


 デパートでのできごとを思い出す。きっとあのデパートには、わたしが想像する以上にメロの大切なものがあるし、メロを大切に思う人もいる。

 一般的に野生パンは警戒心が強いとされる。

 けどメロと、いつか踏んづけそうになった食パンはあきらかに別の存在だ。


「んー、でもねえ。デパートじゃ人のいないビアガーデンで凍えてたんでしょ? それをうちにいてくれてるんだし。少なくとも信頼はされてるわよ。自信を持ちなさい、美羽」


 母さんはふーっと気持ちよさそうに伸びをした。

「それに……。メロちゃんは、美羽が美羽だからなついてくれたんじゃない? 同じ迷子同士だもの」


 自信を持ちなさい、美羽。

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