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それからの日々は順風満帆だった。周りの連中は私を偉大な研究者としてちやほや持て囃してくる。私の開発した薬で命を救われたと大勢から感謝された。まるで国を救った英雄だ。冷え切っていた妻とも関係を取り戻し、それとは別に悪魔の手引きで愛人を囲った。一気に若返った気分だった。
充実した日々は全てあの本の悪魔のおかげだ。いや、あれは悪魔などではない。私にとっては神に等しい。
けれど、盛者必衰の
愛人の女が逮捕された。密かに出産した赤子を殺して遺棄したという。その子供の父親に、私は心当たりがあった。あれだけ堕ろせと伝えたのに、あの女は愚かにも私との子を産み落としたのだ。そして育てられずに殺してしまった。
警察はやはり私の元を訪ねてきた。おかげで不貞関係が妻に露呈した。妻は私を詰ることこそしなかったものの、口をきいてくれなくなった。夫婦の関係は以前より冷え切り、深い溝ができてしまった。
悪い報せは更に重なり、あの女が獄中死したと聞いた。子供のことで気を病んでいた女は洋服の袖で首を括って窒息したらしい。
事態はそれだけで済まなかった。インターネット上に私の実名と顔写真が流出したのだ。新薬開発者としての名声を拡められた訳ではない。不倫関係の女に子供を堕ろすよう強要し、女を精神的に追い詰めて子供と女を間接的に死なせたなどと、まるで私が極悪非道の大罪人であるかのように誇張して書かれていた。大方あの愛人の関係者があることないこと吹聴しているのだろう。全く余計なことをしてくれる。
世間から浴びせられる容赦のないバッシングの嵐に私は憤慨した。産んだ子供を手にかけたのは女の独断だ。堕ろせと言ったのは産む前のことであり、あいつは勝手に産んだ。産まれた子の処遇に私は関与していない。私には関係ないではないか。
どうにかしてあの栄光の日々を取り戻さないと。私はすっかり落伍者のレッテルを貼られてしまっている。人々の記憶から悪いイメージを取り除き、何とかもう一度這い上がらなければ。
そうだ、あの本だ。本の悪魔に頼めばいい。愛人が死ぬ前から――いや、もっとだ。あの女に出会う前からやり直す。時よ止まれ、今すぐに。
「なあ、お前。願いを何でも叶えてくれるんだろう。お願いだから、やり直させてくれ」
みっともなく本に縋りつく私に、しかし返ってきたのは非情な返答だった。
「悪いがそいつはできないな。アンタは既に幸せの絶頂を通り過ぎたんだ。ここからは墜ちていくだけさ」
「どういうことだ」
「学者先生のくせに頭が悪いんだな。本当に無償で願いが叶うと思ってるのかい? 悪魔に魂を売り渡した者が行き着く先は地獄一択さ。俺は願いを叶えながら、地獄行きに相応しい結末を用意してたんだ。アンタは今、まんまと転がり落ちてる最中だよ」
「何だと……!?」
私は色を失った。今まで手に入れた名誉も私を転落させるための罠であり、全てこいつの掌の上だったというのか。やはりこいつは血も涙もない悪魔だった。湧き上がる怒りから呼吸が浅くなる。認めない。認めたくない。認めてなるものか。
「ほら、もう楽になっちまえよ。もう思い残すことなんてないだろ? 何も考えなくていい。考える必要はなくなったんだから」
突如として眼前が暗くなった。何も見えない。視力を失っていた。違う。閉じ込められている。どこに。どうして。私が何をしたというのだ。出せ、ここから出せ!
「アンタの魂は永劫に本の中だ。これでおさらばだ、欲深きファウスト博士。そして、ありがとう。俺を外に出してくれて」
手酷く見捨てたグレートヒェンが助けてくれることはなく。肉体を離れた私の魂は本に囚われた。
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